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「小屋」の稲わら・籾のにおい



            臭い・匂いの記憶(7)

          ☆「小屋」の稲わら・籾のにおい

 私の生家の屋敷地の東側に「大きな『小屋』」があったと前に書いた(註1)が、これは日本語としておかしいと言われるかもしれない。『小屋』はそもそも「小さくて粗末な建物」のことを言う (『デジタル大辞泉』)のであり、「大きな『小屋』」というのは矛盾しているからである。しかし、生家の地域では、生産物や農具などの物置として、また農作業の場としてつくられた大きな頑丈な建物のことを小屋と呼んでいた。一方、このような建物は共通語では「納屋」(註2)と呼ばれている。ということは、生家の地域でいう「小屋」は「納屋」と同義語ということになる。そういう理解で、これからは私の使い慣れた「小屋」という言葉を使わせてもらう。

 生家の小屋は東西13㍍(7間)×南北7㍍(4間)くらい(だったと思う)の木造・藁葺(わらぶき)で、天井はなく、屋根の棟木と垂木、葺きわら、それらを縛り付けている縄がむき出しになって見えていた。
 ただし、西側の3分の1は中二階になっており、だからここの部分だけは下から見ると天井があったことになる。この中二階には階段はなく、必要な時にはしごをかけて上り下りしていた。ここには田植えの型枠(註3)、大小の箕(み)や篩(ふるい)、筵(むしろ)や菰(こも)、わら細工のための道具、臼・杵などの生活用具がおいてあった。また、もう使わなくなっている蚕具も一部残っていた。あるときすみっこの方に使わなくなって何十年も経ったような鉄の歯の錆びた「千歯こき」(註4)があるのを発見し、実物を初めて見て感心したものだった。

 小屋の正面入り口は西側中央にあり、その軒先が大きく突き出ていて、左側に山羊小屋、右側に物置がつくられていた。入り口は大きな板戸・引き戸で、それを開けて入ると土間になっていた。でも、その奥(東側)の3分の1くらいは高さ3寸くらい(約10㌢)の板敷きになっている。
 土間は作業場として使うのでいつもは何もおいていないが、板の間には稲わらが天井の高さまでうず高く積み上げられていた。つまりそこは稲わらの貯蔵場であり、板敷きにしているのは湿気を避け、わらの品質低下を避けるためなのだろう。稲わらは前にも述べたようにきわめて貴重な生産・生活資材の原料(註5)であり、冬場を中心に一年中使われ、少しずつ減っていって出来秋のころにには板の間ががらんとして見えてくるが、稲刈り・脱穀が終るとまたそこにうずたかく積み上げられた。

 足踏み脱穀機時代(敗戦前)には、田んぼで脱穀した稲わらをいったん田んぼに高く積み上げておき、繁忙期の過ぎた晩秋から冬場にかけて稲わらを牛車に積めるだけ積んで何回も家に運び、小屋の奥に積み重ねていった。
 戦後の動力脱穀機時代には、刈り取って棒掛けした稲がほぼ乾燥し終わった頃の天気の良い日、田んぼに行って稲杭(いなぐい)から稲束を降ろし、それをさらに大きく束ね、牛車にうずたかく積み重ねて家の小屋に運ぶ。朝露の乾く時間から夜暗くなるまで、それを何度も繰り返す(註6)。
 何日かかけて運び終わると、今度はモーターと動力脱穀機を小屋の土間にセットし、小屋の南側にある通用口を開け、そこに稲わらや籾殻のこまかいごみを風で飛ばす吹き出し口を向ける。こうして扱いて出てきた籾は籾戸にある貯蔵庫に入れ、稲わらは先ほど述べた奥の板の間に積み上げられていく。

 この脱穀に続いて小屋でなされる作業は籾摺りである。電動籾摺り機(註7)で玄米にするのだが、この玄米は米選機の選別を経て俵詰めされ、一部を自家用として残してすべて販売(当時は供出=政府への販売)される。なお、自家用の米のうちの5~6俵は家屋のいろりのある部屋の高い天井の太い梁に備蓄用として縄で吊される(註8)。
 さらに自家用のための精米作業があるが、これは電動精米機でやはり小屋でなされる。

 こうして真冬を迎えると、小屋の奥に積み重ねられた稲わらを利用した生産・生活資材の生産に入る。
 小屋の土間にむしろを敷き、座布団に座り、それぞれの作業に必要な道具を前にして、縄綯い(かつて縄は農業だけでなく商工業や家庭生活でも必需品であり、自給用・販売用、太さ・わら質等々さまざまな縄の生産が必要とされていた)、俵編み、むしろ編み、菰編み、はけご作り、草履・わらじ・雪靴作り等々をした(註5)。なお、縄ないは、手作業によるだけでなく、縄綯い機(戦前は足踏み、戦後は電動)によっても小屋でなされた。
 こうした作業は冬期間が中心、だからといって暖房を入れるわけにもいかず、軽労働とはいえ、けっこう大変だった。

 1月末から2月にかけての旧正月のころ(だったと思う)、このわら加工作業は一時期休みとなる。旧正月の行事があるし、もっとも寒さの厳しい時期だからでもあろう。しかし、小屋は休みとならなかった。
 ある日、小屋の土間に新しいむしろが数枚敷かれ、その上に蒸した米がひろげられる。そこに麹の種をまき、かきまぜて上に筵をかぶせ、何日間か放置しておく。といっても、ときどき祖母が小屋に入ってその米を掻き混ぜるが。そのうち、小屋に入ると中が温かくなっており、独特の甘い匂いがするようになっている。とくにいい匂いというわけではないが、そのうち甘酒となって自分たちの口に入ることがわかっているからだろう、好きだった。あの甘酒の原料なのだから、食べたらさぞかしうまいだろうと思って口に入れてみる。たしかにちょっぴり甘いが、うまいというものでもなく、一口でやめてしまう。何日くらいしてからだろうか、できあがった麹がどこかに移され、そのうち甘酒となって火鉢の上で温められ、湯飲み茶わんに入れて私たちの口に入る。極寒の時期、本当に身体の心底から温まった、甘いもの不足の折柄、本当に甘く感じたものだった(なお、この小屋での麹づくりはこのとき以外にも味噌や濁酒をつくるときにもなされた)。
 旧正月の一休みが終わるとまた小屋のなかでのわら加工が始まる。そのころには麹のにおいは小屋にはまったく残っておらず、もと通り稲わらのにおいが充満している。

 そうこうしているうち春となり、また野外での農作業が本格化してくる。それで小屋での作業は少なくなる。初夏の麦の脱穀、夏の夕方の野菜出荷のための箱詰め、唐箕(とうみ)による豆類の選別の作業などがなされる程度(註9)で、小屋はもっぱら稲わらの貯蔵庫としての役割をはたすことになる。稲わらは、今述べたわら工品用としてだけでなく、田畑・作物の保温・保湿・雑草抑制のための被覆材料、堆肥原料、家畜の飼料や敷き藁として、生活面では燃料として日常的に、また冬の雪囲い、わら葺き屋根などに必要なものであり、必要に応じて利用できるように小屋に貯蔵しておく必要があるからである。

 このように小屋は米の収穫以降の作業と稲わらの貯蔵がその主要な役割であり、それ以外の期間は鍵をかけて締め切られているので、小屋の中は稲わら、籾、米、もみ殻のにおい、とくに稲わらのにおいで満たされていることになる。中二階にある農具等のにおいは少数派でよほど注意して嗅がなければわからず、はしごで登らない限り無視してもいい程度であり、脱穀調整作業のときの麦・豆などの臭いや野菜出荷に用いる木箱の臭いが私たちの鼻を刺激することがあるが、それはほんの一時でしかなかった。

 この稲わら、決して悪いにおいではなかった。言葉ではうまく表現できないが、私などには好きなにおいに入る(田んぼにある稲の方がもっとずっといい匂いだが、もちろんそれも時期により異なるけれども)。だから、高く積み上げた稲わらの上に登る冒険をしたり、かくれんぼをしたりするのは好きだった。わらを崩したりするなとたまに怒られるのとときおり身体がかゆくなったりすることがあるのがいやだったが。
 このかゆくなるということでいやだったのは、脱穀のときだった。脱穀機のこぎ胴の回転でわらと籾が分離されるときにむける籾殻の表面にあるとげのような細かい毛が排出口から塵となって風で飛ばされて出てくるのだが、それが空中に大量に舞つて私たちの身体中の皮膚にささり、痛痒くさせるのである。だから脱穀の後はみんなすぐにお風呂に入って流すのだが (でも、母は台所仕事があるので風呂というわけにはいかず、井戸水でひたした手ぬぐいでさっとぬぐうくらいしかできなかった)、その痛痒さと黄色く固くなった籾のきついにおいとが結びついて「臭い」と感じてしまうこともある。

 いい匂いを感じるのは精米作業のときだ。電動精米機のなかでの摩擦で温かくなって出てくる白米は本当にいい匂いがする。それと同時に出てくる小糠(こぬか)、このにおいも私は好きだった。小糠はぬか漬けやたくあんに必要不可欠であり、牛の濃厚飼料としてもきわめて重要なもの、大事に保存された。稲わらを細かく刻み、それに小糠を入れて水でまぜ、餌として牛に与えるのが私たち子どもの仕事だった(註10)。

 それから、籾摺りで出てくる籾殻(もみがら)、これを私の生家の地域では糠(ぬか)と呼んだが、これは重要な燃料であり、また作物の被覆材ともなり、さらには土壌改良剤(ぬかを蒸し焼きにして炭化させた燻炭を田畑にすきこんで土壌を改良する)、融雪剤(ぬかの燻炭を田畑の雪の上に撒いて融雪を早める)の原料となるので、捨てないで大事に保存された。生家の場合は小屋の屋根の南側半分の軒先を伸ばし、そこに雨露をしのぐための小屋をつくり、ぬかをそこに山のように積んでいた。
 この「ぬか小屋」から蓋を切り取ったブリキの一斗缶にぬかを入れて台所の土間にある「糠窯(ぬかがま)」(註11)に運んで入れるのが子どもの毎日の大事な仕事だった(なお、生家の場合この糠窯から出る燃え滓=燻炭が土壌改良剤、融雪剤として使用された、何でも無駄にしなかったものだった)。
 子どもの大事な仕事といえばさらにもう一つ、稲わらでのご飯炊きもあった(註11)、このわらは言うまでもなくこの小屋から運んでくるものだった。

 こうしたことから小屋には収穫後の稲のにおいが充満していたが、これは私の生家の地域の場合のことであり、たとえば養蚕を主体とする母の実家の小屋はまた違った臭いがした。小屋だけではなく、住居の臭いも違っていた。
(次回は5月7日掲載とする)

(註)
1.18年3月5日掲載・本稿第九部「☆その昔の農家の屋敷地からの臭い」(3段落の後の図)参照
2.「納屋」とは、「別棟に設けた物置用の小屋。特に農家で、収穫物・農機具などを納める建物(大辞林、第三版)、物を収めておくため,独立して作られた建物…(中略)…ときには作業場として使われることもある」(『世界大百科事典』第二版)。
3.11年4月25日掲載・本稿第二部「☆春先の田んぼの作業風景の変化」(6段落)参照

4.この千歯こきについては本稿の下記掲載記事で述べているが、私は中学校の社会の授業で習ったと記憶している。そのとき、この千歯こきが「後家殺し」とか「後家倒し」とかの異名をつけられたという話を聞いたが、これはきわめて印象的だった。そしてこのときが、機械化・省力化は本来望ましいことであるのにこうした問題点を持っていること、この矛盾をどうするのかを考えさせられた最初だった。
  13年11月18日掲載・本稿第六部「☆動力源としての電気」(2段落)
5.11年5月25日掲載・本稿第二部「☆消えたわらの文化」(2~3段落)参照
6.11年4月26日掲載・本稿第二部「☆夏から秋の稲作技術の変化」(4段落)、
  13年11月18日掲載・本稿第六部「☆動力源としての電気」(2段落)参照
7.これは戦前からあった。
  10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(1~3段落)参照
8.10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米をつくっても米が食べられない農家」(1段落)参照
9.生家では私の生まれる10年くらい前(1920年代前半)まで養蚕を営んでいた。そうなると、春から夏にかけてこの小屋の土間で蚕を飼育していた可能性がある。そのことを祖父母や父に聞くのを忘れていたことに今になって気が付いた。何たることだろうと後悔の念にかられている。
10.10年12月15日掲載・本稿第一部「☆家畜の世話」(4段落)参照
11.10年12月13日掲載・本稿第一部「☆家事の手伝い」(3段落)
  13年10月28日掲載・本稿第六部「☆煤付きガラス、煤払い、へそび」(4段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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