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祖母のどぶろくと巡査



            戦後昭和の酒と村・街そして私(7)

              ☆祖母のどぶろくと巡査

 これまで述べたように平野部から山奥まで農家と税務署の闘いが繰り広げられたのだが、幸か不幸か私の生家の地域には摘発に来なかった。税務署にきわめて近い都市近郊地域であるにもかかわらず、米の多収地帯で濁酒をつくっていることは間違いない地域であるにもかかわらずである。なぜなのかよくわからない。

 私の祖母のどぶろくについてはかなり前にも述べているのだが、これから述べたい巡査と関連しているそのなかの一部をここに再掲載させていただきたい。
 「1950年ころ、中学校から3時過ぎに帰ると、いろりのそばに近くの交番の若いお巡りが座って祖母と雑談している。それがほぼ毎日である。なぜなのか不思議だった。ある時次のようなことに気が付いた。
 お巡りが来て5分くらいたつと祖母がコップに何か白いものを注いでもってくる。お巡りはそれをキューッと飲み干す。それから敬礼をして『それではまた』と自転車に乗って帰る。その白いものが出てくるまでは帰らない。逆に祖母がいないとすぐに帰ってしまう。
 祖母はどぶろくづくりに関しては近所で評判の名人だった。お巡りはそのどぶろくが飲みたくて、巡回の途中必ず家に寄ったのである。考えてみれば、警察は税務署と違って密造を取り締まる権限も義務もない。だからお巡りには罪悪感はない。祖母も平然とどぶろくをごちそうする。飲ませておけばいろいろ地域の情報が聞けるし、何かのときに役立つと考えたのだろう。」(注1)

 今「お巡り」という言葉を使ったが、あのころはみんな「巡査」と呼んでいた。
 戦前、私の幼いころ、巡査は怖かった。何かあると「巡査が来るぞ」、「巡査に教えるぞ」、「つかまえられて牢屋に入れられるぞ」と脅されたものだからである。しかも両肩に階級を示す肩章のついた詰襟・五つボタンの黒い制服を着、その腰にはサーベルをつけており、そのサーベルで問答無用と切られるような気さえして、怖い存在だった。
 戦後、アメリカ軍が来たらアメリカ兵にまったく手も足も出ずぺこぺこしているだけ、ジープなどの交通整理も米兵がかっこよくやり、巡査はその周りでうろうろしているだけ、とたんに権威がなくなった。そんな雰囲気のただよう敗戦の年の秋晩くのことである。私の生家の前の収穫の終わった畑で焚火をしていた。そこに予科練帰りの私の叔父と近所の青年四~五人とが集まり、何か話をしていた。そこをたまたま近所の交番の巡査(さっきのどぶろくのお巡りとは違う)が自転車で通りかかり、その話のなかに入ってきた。何の話からだろう、叔父たちが巡査のつけていたサーベルのことを冷やかし始めた。どうせ切れないのだろう、飾りだろうと。軍隊帰りの叔父たち、こっちは命をかけて戦ってきたのだ、お前ら巡査などとは違うのだという自負があるのだろう、巡査は怖くないのである。そしたらその巡査はこういう、実はそうなんだと。ともかく切ってみろということになり、巡査は鞘からサーベルを抜いた。初めて中身を見たが、それは本当に薄く、触ると簡単に曲がる、日本刀を見慣れていた私たちにとってはきわめて貧弱に見える。巡査は、近くにあったキュウリの支柱にしていた直径2~3㌢の枯れ木を青年の一人に持たせ、真っ向からサーベルを振り下ろした。そしたら何と、枝が切れるどころかサーベルが曲がってしまった。みんな大笑い、巡査も苦笑、慌てて曲がったサーベルをまっすぐにし始めたが、なかなか真っすぐにならない。かなり苦労してようやく鞘に入り、一段落、その後みんなどうしたのかもう忘れてしまったが、怖い存在だった巡査が何か滑稽に見えたものだった。

 敗戦の翌年、巡査の制服が大きく変わり、あのいかめしさがなくなった。またサーベルは警棒とピストルに変わった。戦前の巡査とはかなり雰囲気が違った。そしてそれは、天皇に奉仕する警察から「個人の権利と自由を保護する民主的理念を基調とする警察」への変化を示すものだった。そしてそのころからだろう、一般に巡査とは呼ばなくなり、「警官」とか「お巡りさん」とか呼ぶようになったのは。もちろん、このように変わってもその中身は簡単には変わらなかったのだが。まあ、それはそれとして、祖母のどぶろくをたかりに来たのはその「お巡り」になってからの巡査だった。

 さて、話は戻るが、残念ながら祖母のつくったこのどぶろくを私は飲まないで終わってしまった。私が高校に入るころにつくるのをやめたからである。これがいまだに心残りである。
 なぜやめたのか当時はわからなかったが、ちょうどそのころは酒の配給制が廃止となり、酒類が酒屋で自由に買えるようになったころなので、そのためなのだろう。失敗の恐れのある(もちろん摘発の恐れの問題もあろうが)どぶろくをつくるよりは、酒を買った方がいいからではあるまいか。それでも、すぐにやめたわけではなかったと思う。49年ころの酒は高い上にまずかったからである。でもそうした問題が少しずつ解決されていくなかでやめることにしたのだろう。
 私の家ばかりではなかった。近所の農家もどぶろくづくりを徐々にやめていった。来客には日本酒を中心にビールやウィスキーを出すようになった。
 私の祖父の晩酌も日本酒一合、たまにビール一本となった。ただし父は晩酌をしなかった。でもそのころは飲めるようになっており、農協や農業委員会等の飲み会などではかなり飲んで帰ってきたりしたのだが、家では飲まず、来客があったとき付き合う程度だった。

 そんな時代のある夜遅くのことである。父が宴会でいっしょだった市職員のHさんを連れて帰ってきた。自作農選出の農地委員をしていた父が徹底した農地改革をやるべく地主側の農地委員と闘っていた時に、当時委員会の事務局にいたHさんが小作農の側に立って父たちとともに闘ったのを縁に仲良くなり、汽車通勤だったHさんが仕事の都合で最終列車に乗り遅れたりするとわが家に泊まったりするほどの仲になっていたので、その晩も泊りにきたのである。そして二人で茶の間でお茶を飲み始めた。
 そこに何と、さきほど言ったお巡りがべろんべろんに酔っぱらって訪ねてきた。こんなことは初めてだったのだが、飲み足りなくてどぶろくをたかりに来たのだろう。そして茶の間にあがってきた。しかたなく祖母がどぶろくを出した。そこでこれまたやむを得ず父が初対面の二人を紹介した。二部屋おいて寝ている私たちのところにもその声が聞こえる。
 するとお巡りは何を勘違いしたのか急にいばりはじめ、Hさんの住所姓名の尋問を始めた。どうも警察手帳を出して書き始めたようで、名前の漢字はどう書くのか、職業は等々聞く。最初はHさんも笑いながらそれにおとなしく答えていた。また少し経つとまた同じ尋問をする。言葉がはっきりしないほど酔っぱらっているのだが、ともかくしつこい。それはないだろうと子どもの私でさえ思う。父が何とかやめさせようとする、するとちょっとの間やめるが、また尋問を始める。
 いつもは物静かなHさん、とうとう大きな声をあげた、「あなた、その態度は何ですか、何で私があなたの尋問に答えなければならないのですか」、お巡りはびっくり、はっとしたらしい、何かごそごそ言っていたが、そこにHさんが追い打ちをかける、「何も犯罪をおかしてしていないものを犯罪者扱いして尋問するとは何事か、それが民主国家の警察ですか、戦前と変わりないではないか」。そしたらお巡りはそういうつもりはないとか何とかぼそぼそ言いながら謝り始めた、しかしHさんは言う、「いや許せない、酔っているからとがまんしていたが、いくら何でもひどすぎる、今から警察の本署に電話して抗議すると同時に引き取りに来てもらう」。
 といってもあのころのこと、わが家には電話がなく、30㍍くらい離れた八百屋さんにしかない。しかしもう夜遅く、店は閉まっているし、寝ているかもしれないので、父もいっしょに行って開けてもらって電話をかけると二人で家の外に出た。お巡りはしゅんとしてしまい、残っている祖母にぼそぼそとそんなつもりはなかったとかわかってくれとか言っていたが、帰ると言って帰ってしまった。
 家のなかはシンと静まり返った。結末を聞くために待っていたが、なかなか父たち二人は帰って来ない。中学生だった私はそのうち寝てしまった。

 翌朝のことである、昨夜はどうなったのかと母に聞いたら、八百屋さんはもう寝ていたので200㍍くらいのところにある交番に行った、そしたら誰もいない、裏の部屋で寝ていたので叩き起こし、そこで本署に電話させたと言う。家に帰ったらパトカーがサイレンを鳴らしてきた。もう彼はいなかったので、パトカーの警官が事情を聴き、平謝りに謝って帰って行ったという。
 それから3~4日して、ちょうど私が学校から家に帰ったばかりのところに、例のお巡りがやって来た。いつものように囲炉裏の前に座らなかった。玄関の土間に立ったまま、家にいた祖母に、この前はすまなかった、本署や上司からかなり怒られた、酔っていたとはいえお騒がせして申し訳なかったと言いながら、深々と頭を下げた。もちろんその日は飲まないで帰り、それからわが家にはぴったりと来なくなった。
 一ヶ月くらいしてからだったと思う、そのお巡りがどこかに転勤させられたとの情報が入ってきた。これで祖母を通じて入ってくるお巡り情報はなくなってしまった。その後あのお巡りがどうなったのか、私の耳には入ってこなかった。人のよさそうな若いお巡りだったのだが、何か気の毒な気がしてならないのは不思議である。

 農業・農村とはとくに関係のない話であり、またとくに語らなければならないような話でもないのでこれまで誰にもしたこともないのだが、もう話す機会もないだろうし、戦中から戦後に変わる時期の話、また酒にかかわる話でもあり、こんなこともあったのだということでここに紹介させてもらったものである。

(注) 11年3月30日掲載・本稿第一部「☆どぶろくから酒、ビールへ」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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