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小六の湯野浜修学旅行




          敗戦前後の盆地の小都市・農山村と修学旅行(5)

              ☆小六の湯野浜修学旅行

 戦中戦後の混乱期、修学旅行は中止されていた。それが復活したのは1947(昭22)年、戦後の混乱がいまだ続きつつも少しずつ落ち着き始めたころだった。しかもそれはちょうど私が小学六年、修学旅行に行く学年のときだった。したがって私たちは戦後一番最初に修学旅行を楽しんだ学年ということになった。かわいそうなことに私たちの上級生の何学年かは小学時代の修学旅行を体験しなかったことになるのだが。

 行き先は日本海沿岸の湯野浜温泉(註1)、一泊二日の日程だった。これは私たちの住む山形内陸には海がなく、海を見たことのない子どもがいること、当時の交通事情からして泊まらなければ行けないところだったことからなのだろう。
 ただし、私はその旅行の途中に立ち寄る酒田には行ったことがあるし(註2)、海ももちろん見ている。それでも楽しみだった、わくわくだった。酒田に行ったと言っても三年前、あのころの三年間と言えばものすごく長く感じ、しかも戦中の激動の混乱期を経たものだから本当に昔行ったことがあるという感じで、なつかしくてどうしても行ってみたかった。しかも当時の交通事情や経済的事情等からしてめったに行けないところである。ましてや湯野浜温泉などは初めてのところだ。新しい経験ができる、小遣いがもらえる(持っていける額は学校からの制限があったが)、これもうれしい。さらに楽しいのは同級生といっしょの旅だということだ。いっしょに汽車に乗り、買い物をしたり、探検をしてみたり、みんないっしょに枕を並べて寝たりすることができるのである。教生の先生(教育実習で来ていた師範学校の生徒=今の教育学部の学生)が一生懸命つくってくれたガリ版刷りの「修学旅行のしおり」を行く前に繰り返し読みながら未知への冒険に胸をふくらましたものだった。海を見たことのない同級生が何人かいたが、彼らはなおのことだったろう。

 当日の朝早く、山形駅に集合した私たち四クラス200人はリュックを背に普通列車の後ろの方につながれた貸し切りの車両(たしかそのはずである、全員がまとまって座れたから)に乗った。
 四人掛けの向かい合わせの座席に六人掛け、狭かったけれども誰もそのことに不満を言わなかった。そもそも当時は満員列車、立たされっ放しが普通、座っていけるだけ幸いだったからだ。しかも今と違ってあのころの小六の子どもたちはみんな小さくて痩せこけていたので十分に座れた。
 奥羽本線で北に向かい、新庄駅から陸羽西線で酒田に向かう。私は何回か乗ってはいるのだが、旅行のしおりに書いてあるトンネルの数の多さに改めて感心したり、線路のわきを流れる最上川、白糸の滝をしばらくぶりで見、不整形小区画の私たち内陸の田んぼと違って長四角の大区画に整然と整備されている田んぼに感心したりして酒田に到着した (註3)。
 駅から約1㌔行列してぞろぞろ歩いて日和山公園へ、ここで初めて海を見た同級生もいた。家から持ってきたお握りを食べ、また歩いて駅へ、そして羽越線に乗って鶴岡駅で下車、庄内電鉄の電車(註4)に乗り換えである。後でこういう電車のことを軽便鉄道ということがわかったのだが、蒸気機関車にひかれて走る列車に乗ったことはあっても電車に乗るのは初めてというものが多い。私は市電に乗ったことはあったが、広い広い田んぼの中をトットコトットコ走る電車に乗るのは初めてだった。列車と違って静かであり、ゆっくり景色を楽しむことができる。やがて電車は砂丘を斜めに上りはじめた。庄内平野を下に見ているうちに下りはじめ、海が、浜辺に立ち並ぶ家々の屋根が見えてくる。そして海岸の湯野浜温泉駅に到着である。
 旅館の裏には日本海がひろがり、同級生数人と浜辺を散歩し、砂で汚れた足そのままで風呂に行って洗った。こんなことはよく覚えているのに、夜何を食べたか、どんな部屋に泊まったのか、夜はすぐに眠れたのか、お土産に何を買ったかなどは完全に忘れている。
 翌日はまた電車に乗って善宝寺というところに途中下車、そこで生まれて初めて五重塔を見た。
 記憶はそこまで、帰りの陸羽西線で通過したトンネルの数を改めて数え直したのを覚えているだけである。今と違って列車は遅い、夕方晩く駅に着き、家に帰ったはずなのだが、これも思い出せない。ともかく新しいものをたくさん見たことで満足だった。

 さて、高校同級のST、IZ、AH君の小学六年の修学旅行だが、彼らも湯野浜だった(AR君の場合は行き先が違うので、それは後で別途述べる)。
 ただし、ST、IZ君の場合は酒田には立ち寄らなかった、まっすぐ鶴岡へ、そして庄内電鉄、善宝寺、湯野浜に行ったはずだという。どういう事情かわからないが、このように私とAH君のコースとは違う。
 私と同じコースのAH君は酒田の日和山公園で初めて海を見た人がたくさんいたことを覚えているという。まあいずれにせよ海の水に触ることもできる湯野浜温泉行きは同じ、やはり海を見たことのない子どもたちに海を見せてやりたいということが内陸の小学校の考えるところだったのだろう。
 ST君も生まれて初めて湯野浜で海を見、海に入ったという。そしてコップに海水を汲んで家に持ち帰り、乾燥させて塩をとろうとした。何とかできたが、できあがりは細かい砂交じりの汚い塩だったと彼は笑う。
 IZ君の場合、同級生の九割が海は初めてで、湯野浜では早速浜辺に出て海の広さを実感し、みんなで足を海に突っ込んではしゃいだものだという。
 続けて彼は言う、海に行けたのは本当にうれしかった、事前学習で学んだ最上川の急流や庄内平野の真っすぐの田んぼの畔、五重塔、そして初めての海、みんなみんな感動したものだったと。
 しかし、と彼は言う、もっとうれしかったのは初めて汽車にこれだけ長距離乗ったことだったと。
 AH君たち、小学校から最寄りの駅まで約一時間歩いて乗車したが、みんな何も文句を言わなかったという。徒歩が当たり前の時代だったから当然なのだが、海を見る、長距離列車(今考えると短距離なのだが)に乗る、うれしかったのだろう。
 そういわれてみれば私もそうだった、汽車に乗ること自体が、しかも長時間乗れることが、トンネルをくぐり、鉄橋を渡ることがうれしかった。
 そもそも子どもたちは乗り物好き、煙を上げ大音響を立てて走る勇壮な汽車はとくに当時の男の子にとってはあこがれの的だった。修学旅行はその気持ちを満足させるものでもあったのである。

 ふと考える、車社会、高速交通時代に育ち、行動範囲も広くなった今の子どもたちにとっての修学旅行とはどんなものなのだろうか、やはり乗り物好きで楽しいのだろうかと。私にはちょっと想像できない。

(註)
1.日本海の海岸沿いにある昔からの温泉で、目の前に広がる約1㌔にわたる白い砂浜と日本海に沈む夕陽の見事さが有名であり、「日本の夕陽百選」にも選ばれている。夏は海水浴場としてにぎわう。なお、オワンクラゲで有名になった加茂水族館がすぐ近くにある。
2.13年10月14日掲載・本稿第六部「☆山羊の乳運び、同級生の死」、
  13年10月17日掲載・  同 上 「☆酒田の街と海」参照
3.このとき、小二のときに亡くなった同級生のお母さん(酒田在住)が私に会いに来てくれた。このことについては下記の本稿掲載記事を参照していただきたい。
  13年10月21日掲載・本稿第六部「☆戦後、再び酒田へ」
4.庄内交通湯野浜線(庄内電鉄から戦中に改称)、羽越線鶴岡駅から湯野浜温泉駅まで(1929~75年)。こうした軽便鉄道については下記の本稿掲載記事で述べている。
  12年5月9日掲載・本稿第四部「☆国鉄ローカル線、バス、軽便鉄道の変化」(6段落、註1)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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