Latest Entries

国民学校時代の私たちの校舎



          私の体験した敗戦前後の小中学校教育(11)

            ☆国民学校時代の私たちの校舎

 前回、入学から三年生まで受けた授業のことについて述べたが、ちょっとここで時の流れを一時停止し、校舎・施設とのかかわりでこの3年間・戦時中の授業についての記憶をたどってみよう。

 私の通った国民学校の校舎は、これまで何度も述べたように、クリーム色の鉄筋コンクリート3階建て、一部に地階もあり、屋上中央には遠くからも見える時計台があった。階段は北・中央・南の三つあり、そのうちの南階段はスロープ階段(註1)となっていた。各部屋や廊下のガラス窓は3段になっていて一番下のガラス窓を手で上に上げて開くと同時に一番上のガラス窓が下に降りてきて開き、ともに真ん中のガラス窓のところで止まる、つまり上下が開放される(こうした形式のガラス窓は今ほとんど見られなくなっているし、ましてや私の説明ではよくわからないかもしれないが、想像してもらいたい)等々、当時としてはきわめて近代的だった。 
 凹状に建てられた校舎の左側(南)には講堂と生徒通用口、中央(西・国道沿い)に正面玄関と職員室などのさまざまな部屋と教室、右側(北)には教室と生徒通用口があり、建物の中央東側には運動場が広がり、施設も非常に充実していた。

 私たちはこの近代的な(もちろん当時としてはだが)校舎で6年間学んだ、と言いたいところだが、実質過ごしたのは4年間だけ、四年生と五年生のときは利用できなかった。戦争・敗戦はそれを十分に利用させず、私たちの学業を向上させることを妨げたのである。
 しかも、国民学校時代の校舎の施設は、敗戦を経て占領軍から校舎を返還された小学六年の時には一部変えられていた。
 そういうこともあるのだろう、教室以外にどんな部屋や施設があったんだっけかと考えてみたら、記憶はきわめてあやふやになっている。
 そこでここでは、まず国民学校時代の3年間について、ともかくどんなものがあったのか、それにどんな記憶があるか等々、思い起こしてみることにした。つまらない思い出話になるかもしれないし、記憶違い、思い違いもあるかもしれないが、お許し願いたい。

〇教室
 私の入学したときは少なくとも28室あったはずである。初等科6学年×4学級+高等科(女子のみ)2学年×2学級(註2)の教室が必要だからである。一年生の教室は1階、二~四年は2階、それ以上の学年はすべて3階だったと私は記憶している。
 二年のとき、私たちの教室は2階の中央部になった。教室の東側に窓、西側に廊下があったが、たまたま私の席が窓のすぐわきになった。そこから校庭をはじめいろんな景色が眺められる。それで喜んだのだが、困ったのは東から入る朝日だった。坊主頭に直射日光が長時間当たるのである。当時のことだからカーテンなどない。急に暑くなった初夏の頃、身体の弱かった私にはそれが辛く、快晴の日には気分が悪くなって何度も吐きそうになった。先生はそれを見て私の席を西の廊下側の列に移してくれた。これで外を見る楽しみはなくなったが、苦痛からは解放され、先生に本当に感謝したものだった。
 こうした普通教室以外の教室であるが、以下のようなものがあったはずである。
〇修身室(修養室?)
 修身(教育勅語をよりどころとして天皇制を中心とする国体を維持するための国民道徳を指導することを目的とした教科目)教育のために設けられた部屋だったはずである。
 3階のスロープ階段を登り切ったところにあり、部屋の中に入ると、壁の両側には日中戦争で戦死した卒業生の軍服姿の写真が額縁に入れられて飾られていた。何度か入った記憶があるが、どんな用事で入ったのかは覚えていない。めったに入れないところで、何となく厳かなところだったような気がするが、上級生たちがどのように使っていたのかわからない。
 なお、その廊下の壁には作文がいくつかいつも貼られていたが、私が三年の時菊の花のことを書いた作文が知らないうちにそこに張られていたのを見つけて、驚いたことがあった。
 書いているうち、「修養室」と呼んでいたのではないかと不安になってきた。どっちだったのだろうか。
〇音楽室
 修身室の真下の2階にあったと記憶している。長椅子が並べられており、音楽の時間にたまにこの部屋に行き、みんなで立ち上がって斉唱したのを覚えている。ここには大型のオルガンがあった。なお、グランドピアノは講堂においてあり、教室にはすべて小型のオルガンがおいてあり、音楽の時間以外は鍵がかけられていた。
〇図画室
 図工室あるいは工作室と言ったのかもしれない。がらんとした部屋だったような気がする(こう書いた後、急に不安になってきた、本当に図画室ってあったっけか、どこかの学校で見たことで思い違いをしているのではないかと、もし間違っていたらお許し願いたい)。
〇理科室
 地下室の真上の一階にあったはずである。実験台があったと記憶している。もしかするとその地下室だったのかもしれない。
〇裁縫室
 畳敷きの部屋で、裁縫台(低い脚のついている木製の大きな長方形の板で、「裁ち板」とも言う)がたくさんあった。なお、畳敷きだったので裁縫と同時にここで礼儀作法を習った、「作法室」と言っていたはずだと家内は言うが、もしかすると私の学校でもそう呼んでいたかもしれない。
〇調理室
 高等科の女生徒が使っていたことは覚えているが、部屋の中を見たことがない。と書いたら、本当にこの部屋があったんだっけかと自信がなくなってきた。
 その他にも何か特別教室があったような気がするが、思い出せない。
 でも、図書室は間違いなくなかったと思う。もしもあったら、本好きの私のこと、しかも本の手に入らない時代、必ず利用しているはずであり、記憶に残っていてしかるべきだからである。

 上記の部屋のうち、自分がともかくその中に授業や行事などで入ったことをはっきり記憶しているのは修身室と音楽室だけである。図画室や理科室は利用するはずだった高学年の時は疎開・米軍による接収・教材不足だったため、裁縫・調理は女性のみの授業である上に私たち低学年の履修科目にはなっていなかったため、まともに入室するチャンスがなく、のぞいたことがあるという程度だったからである。
 なお、前に述べたように私の三年の時に東京の豊島区の国民学校の五年と六年の生徒2クラスが集団疎開してきたが、その教室をどう捻出したのか、特別室のいずれかを使用したのではないかと思うのだが、記憶にない。
 そんなこんなで、少なくとも私たちの授業にはせっかくの特別室もほとんど役に立たなかったと言うことができる。

 その他の部屋としては次のようなものがあった。
〇衛生室
 今の保健室だが、当時はこう呼んでいたような気がする。予防注射や洗眼、身体検査、検診などで何度も行っているが、とくに胸に予防注射をさせられるときの怖さ(註3)などからして、あまり行きたい部屋ではなかった。
〇職員室
 一階正面玄関を入るとすぐ左にあった。なお、生徒はこの正面玄関から入るのは許されなかった。
 職員室はすごく大きく感じた。先生は多かった。今考えてみればクラス担任の先生だけで28人(高等科4クラスを含む)なのだから、ましてや戦中で先生は怖い存在だったから、中に入ると何か威圧を感じた。奥に大きな大きな金庫がどかっとすえつけられていたこともあったのかもしれない。用事かあるからやむを得ず入るが、ここもあまり行きたい部屋ではなかった。
〇校長室
 日章旗と校旗、少年団旗(註4)が三本、旗立てに立ててあったところがそうではなかったかと思うのだが、判然としない。
〇宿直室
 畳敷きの部屋で押し入れに布団が入っており、男の先生が毎晩交代で泊まっていた。ここには六年のとき何度か泊まった思い出のあるところだが、このことについては後に述べる。
〇小使室
 広いコンクリートの土間と畳敷き(8畳くらいあったと思う)の部屋があり、男と女の二人の小使さん(今は用務員と呼ぶようだが)がいつもいた。土間には大きな鉄の釜がかけられている大きなかまどがあり、いつもそれでお湯を沸かしていた。なぜ沸かしていたのかわからないが、秋には学校行事のイナゴ取りで私たちが捕まえてきたイナゴをその釜でゆでていた。お昼になると欠食児童への給食(註5)の調理でそこからいい匂いがただよってきた。何か家庭のように温かい気持ちのする、ほっとする部屋だった。

〇屋上
 屋上は屋内施設なのか屋外施設になるのかわからないが、建物に直接付随しているので屋内と位置付けておく。
 当時としては高かった3階の校舎の上に広い屋上があり、そこから周囲の山々、田畑、街並みが本当にきれいに遠くまで見渡せた。
 体育の時間、体育館や運動場の使用が他のクラスと競合したりすると、ここで徒手体操(=ラジオ体操)の練習などしたものだった(もちろんラジオは鳴らさないが)。ここでの体操はなぜか気分がよく、屋上でやるというとみんな喜んだものだった。
 自由に上れたので二年生のとき何人かで放課後ここに上がり、まわりの景色を写生をしたことがあつた。それを担任の先生に見せたら苦笑いをし、こうした俯瞰的な写生は軍の機密情報であり、敵に知られたら爆撃されやすくなるのでこれから気をつけるようにと注意された。
 なお、この屋上の中央西側に大きな時計が国道の方に向かって設置されており、その機械室があった。一度中に入って見せてもらったことがあるが、その歯車等の機械の大きさに驚いたものだった。
 このように慣れ親しんだ屋上だったが、三年のときだったと思う、まわりに張り巡らされていた金網や鉄製の手すりが撤去された。武器生産に必要な金属の不足を補うために政府に供出させられたのである。当然のことながら危険だということで屋上は立ち入り禁止となった。ちょうどそのころ屋上に木造の高いサイレン塔がたてられ、遠くまで警戒警報、空襲警報を知らせた(註5)。学校のすぐ近くにある私の家には耳をふさぎたくなるほどすさまじく高くその音が聞こえたものだった。

〇講堂兼屋内運動場
 講堂はかなり広かった。身体が小さく、直立の姿勢で整然と並んでいるとはいえ、千二百人以上の生徒が集まって朝礼や式典などを行って余りあったことからもわかろう。先生も含めてみんな講堂と呼んでいたのに机・椅子はなかった。
 講堂というとまず頭に浮かぶのは宮城遥拝、勅語奉読、直立不動で(註6)、楽しい思い出などまったくない。
 この講堂は体育実技の授業を行う屋内運動場を兼ねていた(だから机や椅子はなかったのだろう)。そのことは、窓と窓の間の壁に木でできているはしご(ネット検索してみたら「肋木(ろくぼく)」というらしい、そういえばそう呼んでいたかもしれない)が固定されていること、天井から太いロープを下ろして綱のぼりができるようになっていることからわかる。
 多くは雨天の時あるいは冬にここで体操をするのだが、屋外運動場でもそうだったけれども、整列行進の訓練やラジオ体操が多く、後は跳び箱、平均台等を三年になって一、二度やったという記憶があるだけ、まったく面白くない場所だった。
 このように講堂・屋内運動場はつまらないところなのだが、もしも楽しいとすれば年1回、学芸会が開かれ、みんなで見ることだろう。午前中は生徒全員で、午後は父兄が、ござを敷いた講堂に座って見た。しかし、それも一、二年の時に開催されただけだった。その後は疎開・戦争激化、校舎接収騒ぎで開催できなかったからである。なお、出演するのは選ばれたほんの少数の生徒、たまたま私は二回とも選ばれた(註8)が、出られないみんなは楽しかったのか、父兄はどう思ったか、後でかなり疑問となったものだった。
 しかし、講堂は「遊び場」として楽しい場所だった。始業前の朝、昼休みの遊び場(とくに積雪と寒さで外で遊べない冬とか雨の日がそうだった)となったのである。そこでやったクラスの男子全員でやる「しぇめっこら」=鬼ごっこ、それにはいろいろあった(註9)が、ともかくその楽しかったことは忘れられない。

 遊び場といえばもう一つ、屋外運動場があった。

(註)
1.階段なのに段々はなくゆるやかな傾斜(スロープ)になっていて、そこを上り下りするのである。学校としては全国で初めてつくられた形式の階段だった。
2.下記の本稿掲載記事で述べたように合併前の旧山形市には旧市内の高等科の男子生徒全員が山形市高等小学校(1940年から山形市男子国民学校と改称)に通うことになっていたので、高等科には女子しかいなかった。
  17年10月2日掲載・本稿第九部「☆戦中戦後の男女共学と私たちの小中学校」(註1)
3.11年4月4日掲載・本稿第一部「☆「はえびょうたがり」の解決」(4段落)参照
4.少年団のことについては下記掲載記事で説明しているので参照されたい。
  13年9月23日掲載・本稿第六部「☆戦争と子どもたち」(2段落)
5.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日(1段落)参照
6.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2段落)参照
7.12年8月20日掲載・本稿第四部「☆宮城遙拝・勅語奉読」(1段落)参照
8.戦後三年目の6年生の時に校舎が返還され、学芸会が復活した。したがって合計3回開かれたことになるが、そのときもなぜか選ばれている。
9.11年2月3日掲載・本稿第一部「☆子どもの社会」(2段落)頁参照

Appendix

訪問者

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR