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戦後混乱期の子どもたち(5)

                      ☆新制中学への通学と叩き売り 国民学校は小学校という名前に変わった。また、私の一年上の学年から学制が六・三・三・四制に変わり、私たちは新制中学に行くことになった。問題は校舎である。小学校の卒業生全員を三年間教育するとなると校舎はかなり必要になる。だからといってすべて建てる余裕などない。そこで私の入った中学などは山形城にあった旧陸軍第百三十二連隊の兵舎を校...

戦後混乱期の子どもたち(4)

                ☆復刊少年倶楽部と野球少年 一九四六年から四七年にかけての冬のことである。街に出かけ、何となく本屋に寄った。出版がほとんどなされていないころなので、戦前発行されて売れ残ったと思われる本や戦後出された薄っぺらで真っ黒な紙の雑誌がほこりをかぶってわずか並んでいる程度だった。それでも活字に飢えていた私はどんな本があるか見てみた。 紙がない、印刷工場も復活していない、汽車の...

戦後混乱期の子どもたち(3)

              ☆まずかった学校給食 一九四六(昭和二十一)年四月八日、私の五年生の始業式が間借りしていた商業学校で行われた。ちょうどその日の夕方に母が死んだのであるが(註1)、それから一年間、この商業学校に通った。通学時間は長くなったが、二部授業は解消された。しかし一学期は教科書がなかった。夏頃になって、細かい字が裏表びっしり書かれている新聞紙大の紙が算数の教科書として配られ、それを...

戦争とむらの子どもたち(6)

              ☆「里の秋」 敗戦の日から十日くらいしてから、予科練に行っていたM叔父が復員してきた。玄関で「ただいま」と言ったきり、ほとんど口をきかなかった。三、四週間したら、どこから手に入れてきたのか会津白虎隊の自刃の場面を描いた絵をもってきて、机の前に飾った。先輩を何人も何人も特攻に見送ったM叔父としてはいつかは仇を討ってやるという思いを忘れないようにということだったのだろう。自...

戦争とむらの子どもたち(4)

                    ☆空襲に遭った日 疎開前の山形での話になるが、B29、グラマン等、空襲に関する言葉が新聞、ラジオから連日流れ、学校では敵機襲来に備えるということで爆撃を受けたときの姿勢や教室からの避難の訓練、町内では防火訓練がさらに厳しくなされるようになった。 また各家庭は家族全員の防空頭巾と救急袋(包帯、干し飯、炒り豆などを入れていたはずである)をつくらされ、私たちはそれ...

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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