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遺したい記憶、伝えたい思い(1)



            ☆幼いころの農の情景

 幼いころの生家の夢を見るようになった。東北大学を定年退職し(一九九九年)、第二の職場の東京農業大学オホーツクキャンパスのある北海道網走市で暮らすようになって一年くらい過ぎてからのことである。
 ふるさと山形の、まだ農業を営んでいたころの古い家がよく夢に現れる。その家屋敷や田畑を場にして、現在のあるいは過去の自分や家族、友人等が現れる。北海道で新たにできた友人・知人もである。これは時間的にはおかしいのだが、夢のなかでは何の矛盾も感じない。十八歳までしかおらず、その後山形の街並みや田畑の風景も生家の屋敷も大きく変わってしまったにもかかわらず、ふるさとの原風景、幼いころの家屋敷がほぼそのまま夢の場となって出てくる。

 なぜなのだろうか。年をとると子どもの頃に回帰するのだろうか。それとも山形市を離れて以来四十五年ぶりに網走で雪国の暮らしへ戻ったせいだろうか。
 どうも後者のような気がする。たとえば根雪であるが、本当にしばらくぶりでこれを味わった。仙台市、私が大学入学以来長く住んできたこの地には根雪がなかったからである。太平洋側で生まれた家内などは網走で初めてまともに体験した。根雪という言葉自体は私の生家で覚えたようだが、まともに雪の一冬を体験し、根雪を実感したのは網走に来てからだったのである。あるときこんなことを言った。網走に来るまではネユキは「寝雪」と書くのだと思っていたと。雪が消えないで土の上で寝ているから寝雪と書くのだと一人合点していたようである。それを聞いたとき、雪国生まれの男といっしょに何十年も暮らしながら何事かとあきれ果て、笑うより外なかった。
 ただし同じ雪国でも網走の冬は山形とは違う。まず明るい。日本海側のような灰色の空ではない。新潟出身のある女子学生が陽の射さない冬の新潟空港に降りると憂鬱になる、早く網走に帰りたくなると言っていたが、仙台と山形もそうだった。からっと晴れた仙台から仙山線に乗って県境の面白山トンネルをくぐると山形はどんよりと曇っている。そして雪は降るが凍らない。根雪になる前に水たまりに氷がはるが、すぐに雪に覆われてしまう。太平洋岸は雪は降らないが沼まで凍り、スケートもできる。仙台が日本のフィギュアスケート発祥の地だと言われるのもわかる気がする。網走はもちろんガチガチに凍るが、雪も多い。
 こうして見ると、網走の冬は、仙台の冬(晴れて凍る東北の太平洋岸)と山形の冬(雪が多く積もる日本海側)の両方を兼ね備えているといえよう。
 また雪が軽いことも違う。網走では雪玉が握れず、雪合戦ができない。だからかもしれないが、山形で言う「雪かき」がここでは「雪はね」となる。水分を含んでいないので、雪かきをすると軽くて雪が跳ね飛ぶ感じがするからなのだろう(もちろん吹雪などで雪が吹きだまったりすると「雪はね」どころではないのだが)。ついでに言えば仙台では「雪はき」である。量が少ないのでほうきで雪がはけるからだろう。新潟の豪雪地帯では「雪ほり」という地域があるそうだ。雪が屋根より高く積もるので、雪を掘って家への入り口や道路をつくるからである。地域による雪の性質と積雪量の相違をうまく言い表しているものだと感心する。
 それにしても網走の冬は長い。三月を過ぎてもまだ雪が積もっている。このまま春が来ないのではないか、緑の草や木はもう見られないのではないかと不安にさえなる。だから遅い春の喜びは格別だ。
 この春の喜びを四十五年ぶりで味わわせてもらった。こうしたことが一因となって幼い頃の山形が夢に出てくるようになったのではないだろうか。

 土が見えない。緑が見えない。冬の山形はすべてが雪の下となる。もちろん緑がないわけではない。松、杉の緑はある。しかしそれは堅く黒い緑であり、柔らかく青い緑はない。十一月末から三月初めまでほぼ毎日、灰色の曇り空、白い雪を灰のように降らす空の下に閉じこめられる。
 三月半ばになって、陽がよく顔を出すようになり、野山を照らすようになったある日、溶けて少なくなった雪の間から畑の土の黒がちょっとのぞく。雪に囲まれたほぼ円形の土、雪解け水をしっぽりと吸い込んだ黒い土から、ハコベの緑色が白い枯れ葉をつけて、ちょこっと明るい陽に浮き立つ。
 お彼岸近くになるとさらに日差しが強くなる。畑には汚れた雪がわずかに残るだけとなる。濡れた黒い土からゆらゆらと陽炎がのぼり、家の壁を、塀を、柿の木の枝を揺らす。
 うらうらとした陽が暖かく田畑を照らす日、お念仏の鉦の音がカーンカーンと遠くからのんびりと聞こえてくる。近所の中高年のご婦人が集まって各家を順次まわり、大きな数珠を回しながら南無阿弥陀仏を唱えるお彼岸の念仏講の行事が始まったのである。
 そのとき、思わず「ああ春だ」と言ってしまう。行動範囲の狭められていた子どもたちが一斉に外に出て駆けずり回る。もう一方で農作業の準備が始まる。
 四月近くになると梅が咲く。それが散りきらないうちに桜が咲く。庭にある桃の花、サクランボの花も続けて咲く。そのうち山麓の桜や山桜もぽつぽつと咲き始め、それを眺めながら田畑で本格的な農作業にとりかかる。
 同時に、雪の中に閉じこめられていたさまざまな音、匂い、色がにぎやかに田畑を、家々を彩る。

 田んぼを流れる小川のせせらぎから始まり、とんび、ひばり、かっこうの鳴き声、六月から七月にかけて田んぼから波のようにうねって聞こえてくる無数の蛙の声、稲や麦の葉を揺らす風の音、農作業の途中突然鳴り出す雷の音、突如降り出すにわか雨の音、うるさいばかりの蝉の声、夏の終わりをしらせるスイッチョや秋の深まりを教えるこおろぎの鳴き声、田んぼの畦を通るとイナゴが慌てて稲の間を逃げまどうカシャカシャという音等々、さまざまな音楽が自然、半自然の力でかなでられる。
 こうした音に人工の音が加わる。氷水(こおりすい)屋の氷水(=かき氷)をかく音がその典型だ。山形の夏は暑い。全国最高の気温を記録したところでもある。ときどき、近くの店に氷水を食べに行く。すると店のおばさんが床板をあげ、地下の小さな穴蔵から鋸屑に覆われた大きな氷を出し、のこぎりで手頃な大きさに切る。それを水で洗って、かつおぶし削りのような氷水をけずるカンナでゾリゾリとけずる。それが下に置いた赤や青の色の着いた磨りガラスのコップに少しずつたまってくるのをじっと待つ。色の着いたシロップのかかった氷と甘くない白い氷をさじでザクザクと均等に混ぜ合わせ、鼻がツンとなるくらい冷たく甘い氷をぽりぽりかじる。店の外に出るとまた太陽がカッと照りつけるが、ともかく腹の中は冷たい。

 この暑い夏、刈った草を庭や道路に広げて干す。冬の家畜のえさとして保存するためである。一、二時間すると、刈ったばかりの朝露に濡れた生草のみずみずしい匂いとはまるっきり違った匂いとなる。太陽の強烈な光を吸い取ったようなこげついたような甘い匂い、思いっきり胸に吸い込みたくなる。同じ草でも生えているとき、刈り取ったとき、干したとき、すべてその匂いが異なる。牛など家畜にとってはそれぞれ違った味でおいしいのではなかろうか。
 雪解けの土の匂いから始まって、春の菜の花の匂い、青から金色に変わるのにともなって変わる麦の匂い、トマト・キュウリの青臭い匂い、各種野菜の「みんな違ってみんないい」(金子みすずの詩)匂い、夏のむせかえるような草いきれのなかでかぐ稲の匂い、秋の黄ばんだ稲、刈り取ったばかりの稲の切り口から出てくる匂い、朝のあるいは夕方の田畑の匂い等々、田畑や作物により、季節により、時間により異なる匂いのなかで農をいとなむ民は過ごす。

 山形の内陸には低くなだらかな岡がない。峨々とした山々に四方とり囲まれている。平坦地出身の家内は、山形に最初に来たとき、山に押しつぶされそうだ、息が詰まりそうだと感じたという。
 山形の秋は、まわりを囲んだこの峨々たる山々から紅葉の帯になって里に降りてくる。まず、緑だった山の頂が紅・黄・茶色の綾をなして染まる。その紅葉の下線が徐々に降りてくる。そのうち、山の最上部は枯れ木の灰色となり、その下に紅葉の帯ができ、そのまた下はいままで通り緑と、山は三層に彩られるようになる。日を追うにしたがい紅葉の帯は下に降り、やがて家の近くが紅葉となり、山全体が灰色になる。その頃のある寒い朝、起きてみると山頂の方が真っ白になっている。雪だ。
 そのころから吐く息が白くなってくる。朝方、道ばたで落ち葉焚きをしていると、背中をまるめて歩いてきた通学途上の子どもたちがその前で立ち止まり、ちょっとの間手と顔、お尻を暖める。道路に薄く張ったスガ(氷)を足でぱりぱり割って遊びながら、学校に向かってまた歩いていく。
 やがて雪がやってくる。最初はゆっくり、徐々に速度をあげ、ある日猛スピードで雪の白が山から里へと降りてくる。そして見渡す限り白となる。


            ☆「真の藝術家」たり得なかった農民

 農業は、このような景観、色、匂い、音などの移ろいのなかでいとなまれる。農民は、生産と生活を通じてそれらを自ら創り出している。新しい生物を、また田畑や作物の色、匂い、音を、そして農村の景観を、つまり一種の芸術を、自然と共同で創造している。こうしたことからいうと農民は芸術家である。
 そして農民はこの芸術の創造の過程での喜び、たとえば芽生えの喜び、実りの喜び、慈しむ喜びを味わう。また、四季折々で、天候で、毎日、時々刻々変わる田畑、それを取り囲む雑木林や山々、川、動植物等々の音、匂い、色、景観を感じ取る。人間と自然が共同で創り出したさまざまな芸術作品を楽しむのである。
 もちろん自然は美しいばかりではない。ある時は凶暴な牙を剥いて農地に、作物や家畜に、さらには人々にまで襲いかかる。暴風雨、洪水、干魃、日照不足、豪雪、地震、流行病などなど、数限りない。こうした暴威に遭遇したとき、人々はただただ立ちすくみ、嘆き、畏れ、ひれ伏し、祈る。さらには怒り、一人であるいは手を取り合って抗い、立ち向かう。
 こうした楽しみ、喜び、感動、そこにいたるまでの慈しみや労苦を、さらに嘆き、畏れ、祈り、怒り、抗いを、詩歌や文章で、絵や彫刻で、音楽や踊り、芝居で、最近ならば写真や映像で表現したい、そしてみんなに伝えたい、後世に残したい。こう考えるのは人間としての自然の欲求であろう。こうした面からも農民は芸術家たらざるを得ない。

 しかし現実には芸術家ではいられなかった。春の目覚めの匂い、雪からのぞく土の香りは、ああ、今年もまた忙しくなるのかと憂鬱にさせるだけだった。苦役的な長時間労働のもとで、景色や音を楽しんだり、それを表現したりすることに時間をさくゆとりもなかった。牛馬のように働くなかで、貧しさのなかで、まさに無知のままにおかれ、感情を表現するすべを学ぶこともできなかった。

 長塚節の小説『土』、真山青果の『南小泉村』、宮本百合子『貧しき人々の群』などに描かれた戦前の農民の姿、口惜しいけれどもあれも事実だった。
 とくに仙台市近郊の農村を描いた『南小泉村』などは二度と読みたくないと思わせるような内容である。もちろん、それは農民の一面でしかない。その一面をこれでもかとばかり、しつこく描きだす。そしてなぜそのような一面をもたざるを得なくなったのかは書かない。またそれ以外のもう一面の事実、いい面はまったく書いていない。農民は愚かな醜いものとだけ印象づけ、農業に対する職業的な差別感を抱かせようとしているかのようにさえ思える。真山青果は農民に何か恨みがあったのだろうか。農民はそもそも汚らしいものとさげすみ、それどころか憎んでいるとすら思われるからだ。ともかく彼は許せなかった。高校から大学にかけて劇作家としての彼が好きだったが、この本を読んでからは真山青果自体が嫌いになってしまった。もちろん彼が描いたことは事実である。ただしそうさせたのは農業ではない。貧しさというものが人間をあんなにまで卑屈に、こずるく、醜く歪めたのだ。
 こうした農民を、その本来の姿である芸術家たらしめたい、この心からの願いを宮沢賢治は「農民は真の藝術家である」という言葉にこめたのではなかろうか(私の勝手な解釈なのだが)。しかし農民は芸術家たり得ることはなく、芸術家として自らを認識して誇りをもつこともなく、時代が過ぎてきた。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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