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貧しい食と厳しい労働(5)



            ☆子牛の売られていく日―手労働と畜力―

 小作農は何とかこうした貧窮から抜け出したいと、自作・自小作農は少なくとも小作に没落しないようにしたいと、働いて働いて、また働いた。鍬、鎌などの道具と手労働が中心の段階では、朝暗いうちから夜暗くなるまで、重いものを担ぎあるいは持ち、長時間腰を曲げて働かなければならなかった。そして一粒でも多くの米を生産しよう、わずかな土地から少しでも多くの作物を穫ろうと努めた。
 このような苦役的ともいえる過重労働と栄養失調のために、四十歳にもなると腰が曲がってきた。さらに年を取ると腰は直角に曲がり、地べたを這うようにして歩かざるを得なくなる。そうなっても働いた。もうそろそろゆっくりしてもいいのに働かざるを得なかったのである。
 働くのがもう習性にもなっていた。だから、機械化が進んでそんなに働かなくともよくなった時代になっても、年寄りは働いた。私の祖父母もそうだった。このように悲しい習性になるくらい働いても貧困から脱却できなかった。

 私が生まれたころの農作業は、基本は人力であるが、運搬、耕起・代掻きには畜力が導入されていた。運搬に関しては、リヤカー、自転車も導入されていた。したがって重いものは牛馬車で、軽いものはリヤカーで運搬した。また、道路が狭くて牛馬車が入れないようなところ、小回りがきくことが必要な場合にはリヤカーが利用された。リヤカーを自転車の後ろにつないで運搬するということも行われるようになっており、これは楽な上に速くていいのだが、自転車は現在の自動車並みに高価であり、持っている家は少なかった。
 ただし、冬はいまのように道路の除雪がされないので牛馬車やリヤカーは使えない。それで馬そり、人力で引くそりが主な運搬手段となる。
 なお、耕起・代掻きは畜力でといったが、すべての農家が家畜を所有しているわけではなかった。零細農家は畑は鍬、田んぼは三本鍬(備中鍬)でつまり人力でおこすか、家畜をもっている農家に手間替えで頼んでおこしてもらっていた。

 私の生まれた山形県内陸部は馬ではなく、牛を使うのが普通であった。私の家でもちょうせんべご(朝鮮牛)と称されていた赤茶色の牛を飼っていた。
 幼かった頃、その牛が息を荒くはきながら、よだれを流しながら、畑を行ったり来たりして土を鋤き起こしているのを見ると、かわいそうでたまらなかった。
 もっとかわいそうだったのは、子牛が売られていく日だった。
 牛の子が産まれると聞くと私たち子どもは牛小屋に出産を見に行った。そして生まれたばかりの子牛の全身を親牛がぺろぺろなめるのを、また子牛がよたよたと立ち上がるのをがんばれ、がんばれと声をかけながら、あきずに見ていた。
 二ヶ月してからか三ヶ月してからか忘れてしまったが、子牛が売られていくことになる。親牛が手綱をつけられて外に出され、歩き始めると、子牛は喜んで親の後をついていく。子牛には手綱をつけていない。親の周りから絶対に離れないから大丈夫だ。子牛はぴょんぴょん親牛のまわりを飛び跳ねながらうれしそうに歩いていく。売られにいくことなど知らないから本当に楽しそうだ。
 二、三時間して親牛だけが帰ってくる。後ろを振り返り振り返りしてなかなか歩かない。いつもはおとなしい牛が尻をたたかれ、怒られながら牛小屋に入れられる。牛は鳴きながら子牛を求めて小屋の中をうろうろ歩く。夜になってもその鳴き声はやまない。何回も何回も鳴く。かわいそうで耳をふさぎたくなる。三日くらい過ぎて牛の声もかすれてくるころ、ようやく鳴きやむ。こんなことが毎年続いた。
 子牛は家の重要な収入源であったからやむを得ないことなのだが、たまらなかった。

 私が中学のころ、この牛もかなり高齢になり、回復できない病気にかかった。当然廃牛として売られることになる。業者の小型トラックが牛を連れに来た。いつもはよくいうことを聞くのに、牛はトラックになかなか乗ろうとしない。労苦をともにしてきた父が軽く牛の尻をなでながら、「やろ、さえなら(野郎、さよなら)」とやさしく声をかけた。それを聞いた牛はあきらめたように父を見ながら、私の方を見ながらゆっくり荷台に乗り、またこちらを振り向いて一声ないた。その大きなやさしい目に涙が浮かんでいるように見えた。トラックは走り去った。私は家の中に走った。人に見られないようにするためである。そして、小さい頃からいっしょに過ごし、餌も自分が与えてきた牛との別れに、思いっきり大きな声をあげて泣いた。
 ただひたすら働かせられ、子どもとはむりやり別れさせられ、粗食に耐えさせられ、そして殺されてしまう牛、ともかくかわいそうだった。
 子どもの頃は牛をこうした苦痛から解放するために何かないかと考えた。
 しかし、不思議なことに牛以上に人間が大変だったということに小さい頃は思い及ばなかった。父母や祖父母の過重労働のことを考えなかったのである。さらに、牛が飼えない小さい農家は田んぼを人手で耕しており、これはもっと大変だったことも考えなかった。
 いかに農業労働が大変かを実感したのは、自分が田植えや稲刈りの手伝いをまともにするようになってからのことであった。とくに女性が「角(つの)のない牛」とまで言われる状況にあったことは本当に後になって気が付いた。こうしたなかでやがて、「牛に代わって機械を」から「人間に代わって機械を」と考えるようになってきた。

 その望みは一九七〇年代以降かなえられた。機械化の進展は牛を辛い労働から解放してくれた。しかしそれは牛の追放でもあった。いらなくなってしまった役牛はほとんど見られなくなった。牛にとってどっちがよかったのだろうか。
 機械は人間についても苦役的な労働から解放してくれた。機械はそうした役割をしてくれるものであり、本来からいえばそれだけでいいはずである。ところがそれですまなかった。機械は、少なくてすむようになった労働力を、牛と同じように、農村から農業から追放した。機械は人間労働を節約するため、人間を救うためのものでなく、労賃を節約するためのものでしかないという資本の論理が農業にも働いたのである。

 数年前韓国に調査に行ったとき、しばらくぶりで赤茶の毛をした朝鮮牛を見た。農家が肉牛として飼育していたのである。本当になつかしかった。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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