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通し苗代―もう一つの駅裏―



               六〇年代の水稲生産力急上昇(1)

                ☆通し苗代―もう一つの駅裏―

 その昔、駅裏には田畑があった。それは農村部の駅ばかりではなかった。今は考えられないだろうが、県庁所在地の都市でさえそうだった。
 一般に主要な道路は家々の間、町でいえば町の真ん中を通る。しかし国鉄の線路は町はずれを通って敷設されるのが普通だった。だから駅は町の端っこに接してつくられることになる。そして改札口と駅舎は町に接した方つまり家のある方につくられる。ここが駅の表となる。したがって駅の裏には家はなく、田んぼか畑、あるいは林野が広がっていた。

 山形県酒田市の駅裏もかつては田んぼだった。ただしその田んぼは私には見慣れないものだった。庄内の水田は10㌃区画で整然としているのに、ここの田んぼだけは区画が非常に狭いのである。山形内陸のきわめて狭い区画よりもっと狭い。さらに不思議なのは、夏に行くと水が湛えてあるだけで、稲はもちろん何にも植えられていないことだった。
 これは「通し苗代」というものだとわかったのは研究者になってからのことである。本を読んでいてこの言葉が出ても最初はその意味がわからなかったが、これは「苗代にだけ使用する土地」(「大辞林」三省堂)のことで、ここは苗を取ったあと作物を作らず、緑肥を入れて土を肥やしておくのだということを教わった。
 つまり、水に恵まれた場所にある田んぼの一部を苗代として固定し、そこは苗がよく育つように刈り敷き(田んぼの肥料にするために刈り取って敷き入れる山野の草、こうしたものを「緑肥」ともいう)などを入れて肥沃にしておき、また雑草など一本も生えないように、苗取りのしやすい柔らかい土にしておくために、絶えず水を湛え、また耕すなどの管理をする。そこに田植えをしてもいいが、そうすると今言ったような管理ができない上に、肥沃すぎて植えた稲は青立ちして実らない。そこで一年中苗代にしておく。このように年中通して苗代として維持しているので通し苗代というのだろう。
 20世紀に入る前の東北の苗代はほとんどがこの通し苗代だった。しかし私は見たことがなかった。山形の生家を始め近くの農家の苗代の場所はそれぞれ水の便のいいところに固定はしているが、苗をとり終わるとそこにも田植えをして稲を育てていたからである。いつだったか田植えの手伝いをしていたとき、父に通し苗代を見たことがなかったと言ったら、そうだったか、そう言えばおまえの生まれた頃にはもうやめていたと言っていたが、昭和に入ると東北地方ではほとんどなくなっていた。ところが、なぜかわからないが酒田の駅裏には戦後まで残っていたのである。

 1960年代に入ってだったと思うが、酒田の駅裏の通し苗代はなくなり、普通の苗代に、そして夏は稲の生育している田んぼになった。
 と思ったら、70年代にはその田んぼが住宅地に変わった。酒田ばかりでなく、そのすぐ近くの鶴岡も、山形、秋田、福島等の県庁所在地の駅裏も同様に宅地化が進んだ。東北にも高度経済成長の波が押し寄せてきたのである。そしてここも、前に述べた仙台と同じように、駅の裏と表の差は少なくなった。ただ盛り場はやはり表で、裏には人が少なかった。
 ところが中小都市の駅ではやがてその表からも人が消えた。90年ころだろうか、朝の通勤通学が終わった9時ころに鶴岡や酒田の駅に行ったら、駅前の道路には人っ子一人いなかった。これには驚いた。かつてのにぎわいはまったくない。21世紀に入ったら酒田駅前のデパートが撤退した。しかもその建物の入居者がまだ決まっていないと言う(註1)。これではまるでゴーストタウンだ。
 盛り場がないということだけで言えば、駅の裏と表の差はなくなった。しかしさきに述べたような仙台で差がなくなったというのとは何という違いであろう(註2)。

 それでも鶴岡や酒田の駅の中には駅員がいる。ところがいまはいない駅の方が多くなった。その昔は駅員がいるのは当たり前で、どんな小さな駅にもいた。無人駅などというのは珍しい存在だった。
 乗降する客もたくさんいた。ともかく駅には人がいた。
 ちょっとした町の駅にはお弁当から名物のまんじゅうまで売る売り子もいた。弁当などを入れた箱についている帯を首にかけてその箱を腰の前に提げ、ホームを歩いて「べんとう、べんとう」などと声をはりあげて車内に呼びかけながら客車の窓越しに販売する立ち売りがいたのである。たとえば陸羽東線の川渡駅、こんなところ(といっては悪いが、ともかく農村部の非常に小さな駅)にも売り子さんがいた。この宮城県鳴子町川渡(現・大崎市)には東北大の農場があり、学生時代の1956(昭和31)年農場実習の帰りにみんなで売り子さんから名物のまんじゅうを買い、いっしょに写真を撮ったことを今でも覚えている。停車時間が長いのでそんなことをする余裕もあり、買おうとする客も車内にたくさんいた。
 さらに駅前には旅館があった。列車の本数は少なく、駅に往き来するのが徒歩の時代でもあったので、乗りに来るためにも降りてから目的地に行くためにも、泊まるより他ない場合があったからである。われわれも調査の時よく泊まった。駅前には商店もあり、飲食店もあった。調査の帰りに時間があると酒屋に入って一杯立ち飲みしてから汽車に乗ったりもした。駅の表は小なりといえども盛り場であった。
 もちろん農村部の場合都市と違って人口は増えないし、高度経済成長による開発の影響もないので、駅裏は開発されることなく、田畑や林野として残った。
 やがて農村部の駅のほとんどは無人駅になった。急行や特急列車が通過するだけでほとんど停車しない駅も出てきた。停まっても一分もしないで発車するので駅弁やまんじゅうなど買う暇もない駅も多くなった。買おうとする人も少ない。朝晩の通勤通学時間を除いて人が乗っていないからだ。さらには列車の窓が開かなくなった。これでは売れるわけはない。やがて売り子さんはいなくなった。かわりに車内販売員が乗った列車ができた。普通列車にもである。いうまでもなく車内販売員は大都市から乗車し、大都市に下車する。つまり乗客は大都市製造の駅弁やお菓子を買わなければならなくなった。そのうちその車内販売もなくなってきた。
 駅前旅館もなくなった。乗降する人が少なくなったのだから当然である。当然商店も飲食店もなくなる。盛り場ではなくなる。これは車社会の到来にもよるが、そもそもは農村部の人口が少なくなったことによるものである。それに拍車をかけたのが田畑を潰して忽然と姿を現す大型量販店だった。そこに少なくなった人が集中した。
 こうして駅に人がいなくなった。裏はもちろん、表にも、中にも、人がいなくなった。さらには線路すらなくなり、駅が消滅したところもあった。開発どころか荒廃が進んだのである。
 これに対して仙台のような大都市の駅や盛り場は賑わう一方である。郊外の大型量販店には車が田畑に排気ガスをまきちらしながら集まってくる。

 農村部の駅、小都市の駅、大都市の駅、この変化の差異は、戦後是正されようとしていた地域格差がさらに大きくひろがったことを典型的に示すものだった。戦後民主主義がかちとってきたものが少しずつなくなっていくのが何ともやりきれない。こんなことを考えるのは年をとったせいなのだろうか。時の流れとしてあきらめなければならないのだろうか。

 ちょっと話が先のことになってしまったが、次回からはまたもとの60年代の東北農業に話を戻す。

(註)
1.この項を書いた翌年行ったら建物は取り壊されており、跡地は草が生えているだけだった。
2.最近(11年4月11日)掲載した記事の「駅裏-さなぎ女学校-」を参照されたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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