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春先の田んぼの作業風景の変化



               60年代の水稲生産力急上昇(2)

               ☆春先の田んぼの作業風景の変化

 酒田の駅裏に通し苗代がなくなったころ、東北の苗代はほとんどが保温折衷苗代(註1)になっていた。これと歩調を合わせて田植えの時期が早まった。かつての6月上中旬田植えから5月下旬へと1週間から10日早まった。
 1950年代後半に確立したこの保護苗代による健苗育成、早播き早植えは生育期間の延長と冷害回避を可能にし、60年代の安定多収の一つの基礎となった。
 この早植えを容易にしたのが動力耕耘機(註2)であった。雪解けから田植えまでの短かい期間に牛馬耕で耕起・砕土・代掻きを終わらせるのは非常に大変なのだが、馬力があり、しかも耕起と砕土を同時に行える耕耘機によるスピードアップはそれを解決し、早植えを容易にしたのである。
 こうしたこともあって60年代に入ると耕耘機が急速に普及した。それと並行して牛や馬の姿が消えた。

 田んぼ一面じゅうたんを敷き詰めたようにスズメノテッポウが群生する早春、かつては、田起こし(耕起)をする牛や馬が後ろに犁(すき)をつけて田んぼを行ったり来たりしていた。田んぼの表面は乾いているが、下の土は湿っている。鋤(す)き起こした田んぼの黒い土のなかからときどきどじょうが出てきたりする。時には犁の刃先で胴体が切られたどじょうまで出てきて、私たち子どもは大騒ぎしたものだった。また、モズが田んぼに降りてきて、土の中から鋤き起こされて外に出された虫などを探し、またついばみながら、ちょこちょこと歩く。
 なお、私の小さい頃は、犁へらの向きを変えて両方に土をひっくり返すことのできる「双用犁」が用いられていた。
 鍬き起こした田んぼの土が乾く頃、ハローやマンガンなどの砕土機をを牛馬につけてひかせ、細かく土を砕き、また田面を均平にする。
 田植えの2、3日前ころから、水を張った田んぼにマンガンをつけた牛馬が入り、代掻きをする。このマンガンは生家の近くで使われている言葉で、全国的にはマンガ(註3)と言われているものである。それにしても何で外国語のような変な名前がついているのかと子どものころは不思議に思ったものだが、それは馬鍬(まぐわ)のことで、どうしてか知らないがそれがマングワと呼ばれ、やがて詰まってマンガとなり、これもどうしてかもっとわからないが山形ではマンガンとなったようである。
 雪が消えてから田植えまでの限られた期間にこの耕起・砕土・代掻き、それに苗代等の作業を終わらさなければならない。だから、一刻でも早く作業を終わらそうと人間も牛馬も気が立っていた。
 しかし、あちこちの田んぼに点在している牛や馬の姿は遠くから見ると何とも静かなのんびりした風景をつくっていた。
 こうした春の風景は1960年ころに完全に変わった。耕起・代掻きは畜力から機械力に完全に移行したからである。そして耕耘機のエンジンの音が何とも小忙しく田んぼに響くようになった。
 当然耕耘機は牛馬耕よりも深く耕すことを可能にする。この深耕も60年代の耕耘機導入と反収上昇の一要因となった。

 60年代も半ばを過ぎた頃から、春の田んぼの景色がさらにまた変わってきた。苗代が田んぼで見られなくなってきた。苗が畑で育てられるようになったのである。
 こんなことは考えもしなかった。稲は水のあるところでしか育たないもの、ましてやまだ幼い弱い苗にはたくさんの水をやって大事に保護しなければならないものと考えられてきたからである。通し苗代などはだからこそつくられたものだった。ところが畑で稲の苗を育てるという。これには驚いた。この方が丈夫に苗が育ち、根の水を吸い上げる力も強くなるというのである。そして水苗代のときよりはもちろん保温折衷苗代のときよりも小さい苗を水田に植える。
 生家では家の前の畑にこの「畑苗代」をつくった。畑に保温折衷苗代と同じように短冊状に苗床をつくり、そこの土を細かく砕いてふかふかにし、水をたっぷりまいて播種をし、保温保水のために直接その上をビニールで被覆し、さらにそれをビニールトンネルで覆うのである。生育状況や温度、水分等を見ながら、ビニールを外したり、かけたり、水をやったりの管理をする。家の前だから、またそのころは水道が通っていたから、こうした管理は簡単にできる。田んぼからは遠くなるが、苗運びは普及し始めた小型トラックでやればいい。
 これで苗引き作業はこれまでよりずっと楽になった。ぬかるみのなかでの腰を曲げた労働から解放され、乾いた土の上で座りながら作業ができるようになった。
 この畑苗代そして幼苗での移植はさらに田植え時期を早めることになり、それはまた田植機の稚苗(ちびょう)移植技術の基礎となり、当時考えられもしなかった連休田植えへとやがて進むようになる。

 このように春先の田んぼの風景が若干変わったのであるが、田植えそれ自体は、時期が早まっただけで、その作業風景はいままでと変わりなかった。
 ちょっと話が脇道にそれるが、この田植えの風景について疑問に感じていたことがあった。
 あの有名な映画『七人の侍』の最後に、田植えの場面が出てくる。そこでは男が笛や太鼓ではやしたて、女が田植えをしている。最初これを見たとき(大学に入ったばかりの頃)、これは野武士たちを追っ払い、田植えが無事にやれるようになったことを祝ってやっている特別の行事なのだろうと思った。山形の生家の集落にはこうした行事はなかったからである。
 いつのころだったろうか、それがそうでないことがわかった。豊穣を願う農耕儀礼として早乙女が横一列に並び、田植え歌に合わせて田植えをするという地域がかなりあった。
 それでもわからないことがあった。なぜ男が笛太鼓で女が田植えなのかということである。田の神様がそうすれば喜ぶからなのか、男よりは女性がいっせいに並んで植える方がきれいだからだろうか。いずれにせよ、女性が田植えをするのはそうした特別の時だけで普通は男性がするものだろう。私はそう思っていた。
 私の生家の旧山形市がそうだったからである。女が苗引き、男は田植え(苗引きの人数が多過ぎるときには女も田植えをするが)であった。田植えはかなりきつい労働だからである。泥田の中を何百㍍も歩きながら植えなければならない重労働なのである。これに対して苗引きは一日腰を曲げていなければならないという点ではきついが、歩かなくていい分だけ楽である。また、田植えの直前にやる代掻き、枠転がし、苗運びは男で、田植えをしている人の前に苗を投げて渡す苗打(なえぶ)ちは子どもの仕事だった。
 ところがその逆の地域がある。たとえば秋田などでは女性が田植えをする。紺の絣に赤い襷(たすき)をかけ、手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)をつけ、手拭を姉さんかぶりにし、一列に並んで植えるという。男は苗引きと苗運びである。なぜあんな大変な田植えを女にさせたのだろうか。指先の器用さが必要だから女性にさせたという説もあるようだが、それほど器用でなくとも慣れさえすれば田植えは上手にできるので、これには納得できない。ともかくいまだにわからない。

 なお、いま代掻きは男の仕事だと言ったが、そのさいの牛馬の鼻取り(生家のある旧山形市内では「さしぇこ」と呼んでいた)には女・子ども・年寄りが従事した。牛馬につけた手綱(たづな)に竹竿を取り付け、女もしくは子どもがそれを持って牛馬を誘導し、まんべんなくていねいに代掻きができるようにするのである。この鼻取りは田植えの時の子どもの重要な仕事だった。
 ただし、私は鼻取りをしたことがない。私の生家では「さしぇこ」を使わなかったからである。父が馬鍬で代を掻く役割と牛を繰る役割の両方を一人でしていたからである。つまり、一般的には両手で馬鍬を土に強くおしつけてかきまわさなければならないので牛を操ることはできず、それで鼻取りが必要となるのだが、父は両手で馬鍬を操作しながら右手にもった手綱で牛も繰っていたからである。このように父は一人二役をこなしたのだが、これは当時名人芸と言われたらしい。
 といっても、一度だけ祖父と母がかわるがわる鼻取りをしているのを見たことがある。それは近所から購入した小区画の3枚の田んぼを1枚に、つまり区画整理をしたときのことである。畦畔をとって若干の段差をなくしたが、完全に均平にするためには代掻きを徹底して行わなければならない。そのさいにはでこぼこを見つけながら相当強く馬鍬を土に押しつけて平らにしなければならず、普通のように一人ではすべてできない。そこで父は祖父と母に鼻取りをしてもらったのだろう。今なら機械で簡単に均平ができるのだが、それでも基盤整備をした直後の代掻きにはかなりの時間をかけている。

 それから、さきほど言った「枠転がし」(型つけ、枠回しと言うところもある)であるが、これは田植えの前に木製の「枠」という道具で苗の植え付け場所がわかるように印をつけることをいう。この枠(型枠、転がし枠、田植え定規と言うところもある)とは、長さ2~3㍍、直径50~60㌢の六角形もしくは八角形の円筒状に組まれた細い木の枠のことで、これを回転させながら田の表面に縦横のすじを付け、そのすじの十字に交差したところに苗を挿すようにするのである。この枠転がしは曲がったり、間隔を開けすぎたりしないようにしなければならないので、かなり重要な仕事であり、また技術を要する。それでこの作業は経営に責任をもつ経営主もしくは技術の中核的担い手となっている後継者が担当した。
 こうした田植えを見ていた大学時代の同級生の一人が自分の生まれた群馬では縄を張って田植えをするのだと言う。つまり等間隔に印をつけた縄を田んぼの縦と横に張る。その前に植え手が一列に並び、印のついたところに苗をさす。植え終わった頃に植え手は後ろにちょっとだけ下がり、列の両端の人がその縄を一定の間隔をもって後ろに移動させ、みんなはまたその縄に沿って植える。この縄張り役が下手だと田植えはうまく進まない。また、植えるのが一人でも遅れると縄の移動も遅れ、仕事がはかどらないので、植え手は必死になって遅れないようにしなければならず、自分の能力に合わせて植えられる枠植えよりも大変だと彼は言う。後でわかったが、東北にもこうしたやり方をするところがあった。
 問題は、枠も入らないような、縄張りもできないような小さな田んぼである。それから不整形のために枠で印をつけられずに残る田んぼの隅である。ここはカンで適当に植えるより他ない。この隅植えが上手だったのは祖父だった。何の印もついていないのにほぼ正確に間隔を取って後ずさりしながら植える。後ずさりするのは前の間隔にきちんと合わせるためである。なぜこのように上手なのかがわかったのは大学院に入ってからのことだった。祖父の若い頃は枠などはなく、経験とカンで植えていたらしいのである。うまいわけである。これは全国そうだったらしい。若い頃の私は枠植えなどはその昔からやっていたものだと思っていたが、そうではなくて明治中期以降のものであり、これは「正条植え」と呼ばれて明治農法の一つの中心をなしたものだったのである。この正常植えにすると、田植えがしやすいだけでなく、苗の列や株間の距離がそろい、稲にむらなく日が当たり、風通しもよくなり、除草作業の能率も上がるとして普及したのである。この正条植えに対してそれ以前の植え方を乱雑植えと呼んだようである。もちろん乱雑と言ってもめちゃくちゃに植えているわけではない。後ずさりしながら前の行・列に合わせて植えている。ただ、枠植えほどには規則正しく行かなかっただけであろう。なお、枠植えでは前に進みながら植えるが、地域によっては枠植えでも以前のように後ろに下がりながら植えるところもあったようである。
 このような枠などはもう農業博物館のようなところでしか見られなくなった。今言葉で説明してみたが、写真でもなければ何とも説明しにくいものである。

 2月ころではなかったかと思う。そりに堆厩肥を積み、牛に牽かせて田んぼに運ぶ。たまに、牛が牽くそりよりも一回り小さくて手綱をつけて人が引っ張るそりで運ぶ場合もある。そして雪に埋まった自分の田んぼの中の何ヶ所かに小さな山にして積んでおく。
 さらに雪解けが近くなると、籾殻を燃料にする糠窯から出た真っ黒な灰などを苗代などの田んぼの雪の上に播く。雪解けを速めるためと肥料にするためである。
 雪が解け、田んぼが乾き始めた頃、田んぼの中にあるダラ桶(肥だめ)から肥桶にダラ(下肥)を入れて天秤でかつぎ、あぜ道から柄杓でそのダラを田んぼに撒き散らす(註4)。また、堆厩肥を牛車に積んで運び、田んぼに散布する。
 こうした堆厩肥、灰、下肥という昔からの肥料に加えて、耕起の直前に石灰窒素をまき、耕起してそれらを土と混ぜ合わせる。さらに代掻きの直前に硫安(硫酸アンモニウム)、過リン酸石灰、硫酸カリを散布する。
 なお、戦前はこのような元肥(もとごえ・播種や移植の前に施す肥料のことで基肥とも書く)として大豆粕も用いられた。油を絞りとったあとの大豆の粕が、直径50㌢、厚さ10㌢くらい(ではなかったかと思うが、子どもだから大きく見えたかもしれない)の円板状に固められ、その真ん中は五円玉のように穴(直径20㌢くらい)が空けられていた。持ち運びしやすいように穴を空けてあるのだろう。豆だと言われればわかるくらいの黄色味がかった粒々と粉が固まっており、食べられるというので試しに口に入れたことがあったが、おいしいものではなかった。ネズミに食われないようにだったろうと思うが、小屋ではなく籾戸に保管してあり、春先にはその固まりを細かく崩して田畑にまいた(ような記憶がある)。この大半は中国から輸入されたもので明治農法の一つの柱となったものであるが、戦後はまったく見られなくなった。なお、魚粕も用いられたようだが、私の記憶にはない。
 この元肥のなかでもっとも効果の高いのは硫安などの化学肥料だったが、政府の保護的な統制のもとで1950年にはこの生産が戦前をしのぐようになり、前にも述べたように安価に大量に供給されるようになってきた。
 50年代後半のいつごろだっただろうか、これまで見たことのなかった真っ白のきれいな粒の新しい肥料がそれに加わった。これは尿素と言って純粋な窒素分だけでできているので効率が高いと父が説明してくれた。それ以外にも熔成燐肥、塩化加里といった新しい肥料が見られるようになった。こうした肥料は無硫酸根肥料と呼ばれ、土に残った硫酸根が土壌を酸性化するという欠陥をもつ硫安のような硫酸根肥料に替わるものとして、これも安価に大量に供給されるようになってきた。
 こうしたなかで水稲に必要なNPK(植物が多量に必要とする元素の窒素・リン・カリウムのことで、これは肥料の三要素と言われる)の養分は化学肥料の投入で十分に供給できるようになる。つまりダラ(下肥)や堆肥がなくともやっていける。そこで60年代後半から農家のダラ汲みはなくなってきた。きつい汚い労働から解放されたのである。また糞畜として飼っていた牛等がいなくともかまわなくなったので、どこの家にもあった畜舎が消えるようになった。そして真っ白な雪の上に堆厩肥の黒い塊がぽつぽつと置かれている風景も見られなくなってきた。

(註)
1.11年3月4日掲載・本稿第一部「☆サムサノナツ対策の前進」参照
2.11年3月7日掲載・本稿第一部「☆化学化の進展と動力耕耘機の普及」参照

3.約1㍍の木の棒に20㌢ほど(だったと思う)の先の尖った鉄製の刃を櫛のように何本か取り付けたもので、それを横にして土に押しつけ、土を砕きながらかきならす機具。牛馬に牽かせながら人間が操作できるようにその木の棒に支柱や取っ手がついている。言葉では説明しにくいので、農業博物館などで実物を見てもらいたい。
4.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」、
  11年3月11日掲載・本稿第一部「☆『循環型】だった農業」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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