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夏から秋の稲作技術の変化



               60年代の水稲生産力急上昇(3)

               ☆夏から秋の稲作技術の変化

 いうまでもなく肥料は増収に直接結びつく。だから農家としては肥料をたくさん散布してさらに多くの収量を得たい。しかし、元肥で大量に散布すると窒素過多等で弱々しく育ち、倒れたり、病害虫の被害にあったりする。また、生育の後期には肥料が足りなくなったりする。
 これを解決するためになされたのが「追肥」であった。この追肥の技術は、硫安のような速効性肥料が開発されたことを契機に戦前とくに山形県農試などの研究をもとに開発された技術であるが、肥料のすべてを元肥として施すのではなく、稲の成長期や開花、結実時など、特に養分が必要な時期に必要な量だけ追加して施すというものである。なお、肥料を何回かに分けて施すことからこれは「分施」とも呼ばれる。こうすると施肥効率はきわめて良く、しかも多くの肥料を投入できる。そして増収できる。かくして戦前からの多肥農業がさらに強化されることとなった。
 この追肥と合わせて重視されたのが水管理であった。
 まず、7月上旬の中干しがある。無効分蘖(註1)を抑制し、根に酸素を供給して根の健全化と倒伏軽減を図り、稲の生育後期の同化能力を落さないようにするために、田んぼの表面に軽くひびが入る程度まで水を落とすのである。また、何日間か湛水しては何日間か落水することを繰り返す間断灌漑がある。さらに、冷害回避、高温対応のための水管理もある。昔のように水さえかけておけばいい、そのために水を絶やさないようにするという水管理ではなくなってきたのである。

 60年代の宮城、山形の米はおいしかった。宮城県古川農試で開発されたササシグレがこの年代の前半に、後半にはササニシキが栽培されていたからである。もちろん一般消費者の米がうまいとは限らなかった。仙台でもそうだった。いろんな地域のいろんな品種が混ぜ合わされるからである。しかし農家でごちそうになるご飯はうまかった。そしてササニシキは後にうまい米として全国的に有名となる。しかし、そもそもはうまい米として育種選抜されたわけではなく、麦の裏作ができるような晩植(遅植え)可能な品種を目標に育種されたものだった(註2)。それが後に耐肥性多収品種として評価され、普及に移されたのである。
 すなわち、多肥にすると、稲の過繁茂、弱体化、病気発生、倒伏などの悪影響が出てくる。とくにそれは冷害などの年に発現しやすい。こうした悪影響が出ない品種、つまり多肥で収量が増加する品種、耐肥耐病性品種、さらに耐冷性品種が求められる。試験研究機関はその開発に取り組んだ。
 東北南部におけるその成果の一つがササシグレであった。さらにこのササシグレの血統を引くササニシキはそうした多肥多収の性質をより強くもっていたので普及したのである。
 60年代後半にはそれに加えて東北農試で開発されたトヨニシキが普及する。これは本州全域にわたって栽培されたが、東北では秋田、岩手の主力品種となった。これは食味の点では劣るが、かなりの多肥に対応できる多収品種として普及した。
 さらに北の青森や岩手県北、山間高冷地で普及したのはレイメイだった。これは青森の品種フジミノリを放射線で変異させてつくった日本初の実用品種であり、そこから「黎明」と名付けられたのだが、東北北部を中心に全国各地に普及し、69年には作付面積が全国5位となるほど普及した。
 こうしたなかで戦前から終戦ころまで普及していた品種、たとえば農林とか陸羽とかの漢字の名前がついた品種はほとんど姿を消し、さらに耐冷性品種として50年代に普及した藤坂5号なども見られなくなった。そして稲の背丈は以前よりもずっと低くなった。

 しかし、こうした品種改良だけで稲の病害虫の発生には対応できない。田植えが早まり、肥料を多く撒いているから稲はなおのこと病虫害にかかりやすい。
 これを防いで多収を可能にしたのが農薬であった。さきにも述べたように50年代にアメリカからDDTやBHC、パラチオンなどの農薬が導入されたのであるが、60年代にはそれが大量に用いられるようになった。そしてこれはウンカ、ニカメイチュウ、イモチ病の三大病虫害などの発生を防ぎ、収量の増大を可能にした。また農薬の粉剤化と散粉器、動力噴霧器の開発と普及は防除労働のきつさを軽減し、効率的な防除を可能にした。
 もう一つの問題は、多肥と生育期間の延長が雑草の繁茂を引き起こすことである。これも2・4Dに続いてPCP、MCP等々の除草剤が開発され、実用化されたことで解決した。
 こうした肥培管理技術の変化のなかで、初夏から初秋にかけての田んぼの風景も変わってきた。雁爪もしくは手押し除草機による一番除草、手押し除草機による二番除草、稲のまわりの草を手でとる三番除草、畦草刈りなどに出る人の数は少なくなった。
 かわりに、除草剤散布、何回にもわたる追肥と水管理、散粉機を背負っての農薬散布をする人の姿が多く見られるようになった。それでかつてより田んぼが賑やかになった時期もあった。

 これに対して出来秋の風景はあまり変わらなかった。鎌での刈り取り、棒掛け・はさ掛けによる乾燥は今まで通りだった。
 ただし田んぼでの脱穀、そしてうなりをあげて回っていた足踏み脱穀機は見られなくなってきた。50年代半ばから60年代にかけて動力脱穀機にほぼ完全に替わったからである。
 私の生家の近隣はすべて電動に替わった。それで農業用電力のきている家の小屋に稲束を運んで脱穀するようになった。
 棒がけした稲がほぼ乾燥し終わった頃の天気の良い日、田んぼに行って稲杭(いなぐい)から稲束を降ろし、それをさらに大きく束ね、牛車にうずたかく積み重ねて家の小屋に運ぶ。朝露の乾く時間から夜暗くなるまで、それを何度も繰り返す。
 この時期は日暮れが早い。すぐ暗くなる。それで一日に運ぶ回数はどうしても少なくなる。しかも晴れた日でないと運べない。また、本格的な冬の前触れの秋の長雨が来る前に終わらさなければならない。何とも気がせく。今年最後の忙しさだ。
 何日かかけて運び終わると、今度は朝から小屋の中で脱穀が始まる。田んぼでやるのと違って雨が降っていてもやれるので、この点だけは気持ちが楽だ。モーターの音がグーンとなって電動脱穀機が回転する。稲束が入るとすさまじく大きな音となり、人の声は聞こえない。さらに小屋の外に吹き飛ばされた稲ワラや籾殻のこまかく塵状になったゴミが舞い飛び、働いている人はほこりだらけになる。隣近所にもそれが飛んで行くが、まわりも同じ農家だし、農家でなくともそうしたことはお互い様だと思っている。しかも電動で能力が高いから脱穀の日数もそんなにかからない。それで近所からの文句も出ない。
 残るのは籾摺りだ。供出に向けての最後の仕事だ。これは戦前から機械化が進んでいるし、小屋の中でやるので肉体的にも気分的にも楽である。この点は以前と変わりなかった。

(註)
1.かつて私は「ぶんけつ」と読んでおり、そう読む人も多かったのだが、正確には「ぶんげつ」と読むとのことである。稲の苗の根元付近からたくさんの新しい茎が分かれて出てくることを分蘖という。その新しい茎はそれぞれ穂をつけるが、そのうち穂をつけないもしくは穂をつけても中に実が入っていない茎のことを無効分蘖と言う。実をつけないのに養分だけ吸わせるのはもったいないので、この無効分蘖をいかに抑制するかが一つの技術的課題となる。
2.11年3月9日掲載・本稿第一部「☆水田二毛作と用畜の導入」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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