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米価の急上昇と増収意欲の高まり


               60年代の水稲生産力急上昇(4)

               ☆米価の急上昇と増収意欲の高まり

 1950年代から始まり60年代に入って進展した稲作技術は、これまで述べたような田んぼでの作業風景の変化をともないながら、東北の農村に定着していった。これらの新技術は東北の水稲単収を大幅に上昇させ、また安定させた。もちろん単収上昇は全国的なものであったが、東北においてそれはとくに顕著だった。東北の諸県の水稲収量水準は、全国平均はもちろんのこと、かつて最高水準を誇った近畿等の西日本の府県も大きく追い越して、全国の最上位を占めるにいたったのである。

 戦前の水稲単収は、西日本の高位、東日本の低位が特徴となっていて、とくに近畿と東北の格差は大きかった。たとえば戦前の1930年代後半の東北の単収(10㌃当たり収量)は300㌔(5俵)前後であり、近畿などの諸府県より1俵も低かった。それもあって先進的農業の「近畿段階」、大地主の支配する後進的な性格をもつ生産力の低い「東北段階」として戦前は対比された。
 それが逆転した。すでに1955(昭和30)年に東北の単収は400㌔段階に入っていたが、60年代に入ると450㌔となり、さらに66(昭和41)年に山形県が517㌔となったのを契機に67年からは東北全体が500㌔を越え、戦前と比べると200㌔(3俵)以上、55年と比べても100㌔以上と驚異的な伸びで増収したのである。そして戦前とは逆に、全国平均より1俵以上、佐賀を除く西日本の諸府県より2俵も多い単収をあげるようになった。さらに、東北のなかでも単収がきわめて低かった岩手、青森県も全国トップクラスを誇るにいたった。
 このような驚異的ともいえる単収の上昇の背景となったのは、先にも述べた戦後の農地改革、肥料・農薬・機械等の農業生産資材工業の発展、食糧増産政策にもとづく土地改良事業・試験研究開発・改良普及事業等の展開によるものであったが、60年代にはそれに加えて米価の上昇とその相対的有利性、それに刺激されてさらに強まった農家の生産意欲によるところが大きかった。

 さきにも述べたように、1955年ころから農家所得が都市勤労者の所得を下回るようになってきた。それで農業基本法は農工間の所得格差の是正をかかげた。そしてそれは農家戸数を減らして経営面積を増やすことで実現するものとした。しかしそんなことで簡単に格差が是正されるわけはない。そこでこの前の数年間据え置かれてきた生産者米価の引き上げを政府に要求する声が高まってきた。当時の生産者米価は食糧管理制度にもとづいて政府が決定することになっていたからである。
 ちょうどそのころ、国内は日米安保条約の改訂をめぐって大きく揺れ動いていた。当時大学院生だった私も、1959年から60年にかけて、大学院生会を組織したり、職員組合と共闘を組んだりして、連日のようにデモや集会に、その組織化と説得にかけずり回っていた。6月の仙台の街は東京と同じように連日デモ行進の波で埋まった。
 こうした改訂反対運動に対して、それに参加しているのは国民のごく一部であって大多数の「声なき声」は改訂を支持しているとして、当時の岸首相は国会で採決を強行した。
 この「声なき声」には当時国民の多数を占めていた農民が含まれていた。農民の中からあまり反対運動が起きなかったからである。しかし農民や農業団体は、これまでの単なる陳情運動だけでは要求は通らず、大衆的な運動のなかで要求はかちとるものだということを、この安保闘争や三池闘争から学んだ。そして米価闘争を本格的に展開するようになってきた。もしもこの農民の要求を拒否し、その結果農民が政府与党に背を向けたりしたら政権はもたない。
 それで政府与党は農民の米価引き上げ要求に応じざるを得なくなった。
 しかも当時は米が不足していた。国民が米を食べることが当たり前のことになりつつあったからである。
 こんなことをいうと不思議に思われるかもしれないが、かつて貧乏人はまともに米を食えなかったのである。後に首相となる池田勇人蔵相が1950年に「貧乏人は麦を食え」と議会で発言して大問題となったことがあったが、まさに貧乏人はそうだった。しかし、戦後の労働者の権利の拡大、労働力需要の拡大、国民の間の所得格差の相対的縮小、そして食管制度による消費者米価の低位安定のなかで、やがて国民のほとんどが米の飯を食べられるようになったのである。
 それで当時、米の需要が急激に増大していた。しかし生産量はそれに追いついていない。そのために1964、5年には米不足となって外米を輸入せざるを得ないという状況も出てきた。しかし当時は国際的な米不足の時代で簡単に輸入できない。これを解決するためには米価を引き上げて生産意欲を高めるより他ない。
 こうした諸事情から、政府は1960年から生産費及び所得補償方式を導入して生産者米価を毎年引き上げるようになる。そして60年の一俵4千円が68年には8千円となった。8年間で2倍にも引き上げられたのである。もちろんこれは高度経済成長にともなうインフレ(賃金・物価の激しい上昇傾向)を生産者米価に反映させざるを得なかったこと、しかも50年代後半から米価が押さえつけられ過ぎてきたことの反動からくるものでもあった。また、食糧管理法のいう「米穀ノ再生産ヲ確保スルコトヲ旨トシテ」生産者米価を定めるとしていることからも、また農業基本法の言う所得格差是正の面からしても当然のことであった。だから異常なものでなかったことは言うまでもない。異常と言えば、米以外の農畜産物価格がそれほど上がらなかったのが異常だった。

 こうした米価上昇に刺激された農家は増収にこれまで以上に積極的に取り組み、経営と生活の向上を図ろうとした。
 注目すべきことは、そのさい公的試験研究機関や普及機関等からの技術を受動的に受け入れ、それを実践するだけにとどまらなかったということである。生産に取り組むなかでぶつかるさまざまな問題を自ら解決し、地域にまた自分の経営に適した技術を開発しようと、農家が個々人であるいは稲作研究会等の組織を形成して集団的に取り組んだのである。そしてさまざまな技術が生み出された。もちろんそのなかには理論的にまちがったもの、普及の可能性のないものもあったが、優れた技術として各地に普及していったものも数多くあった。
 こうした民間技術、つまり「農家もしくは農家集団が自らの実践のなかから開発し、その意義を認めた農家や地域に取り上げられ、もしくは公的試験研究機関等に認められて普及定着した技術」が東北各地に生まれた。とくに肥培管理技術においてそれが著しかった。増収に直接つながるし、農家が取り組みやすいものだったからである。そしてそれが東北の稲作生産力を発展させる一つの力となった。

 この民間技術でとくに注目されたのは山形県置賜地方の川西町だった。寒河江、片倉、大木という三人の農家が、それぞれ若干違った方式ではあるが、地力依存よりも施肥対応で増収を図っていく、とくに出穂前後からの生育後半に追肥と管理の重点をおき、稲の地上部・地下部とも活力があるようにして稔実を高めるという技術をとなえたのである。そして自ら栽培する圃場を公開し、また全国規模での研究会を組織した。この増収技術は試験研究機関にも認められた。こうしたなかで東北はもちろん、全国各地の農家がこの技術に注目するようになる。そして各地の農家が川西町に視察におとずれた。とくに夏になると貸し切りバスが道路に何十台と並び、町内は視察者であふれたものだった。
 もう一つ、民間技術としては米作日本一の技術がある。戦後この表彰事業が朝日新聞主催で始まったが、これで収量日本一と認められたものは当初西日本、北陸の農家であった。しかし、60年代に入ると東北の農家で占められるようになってきた。こうした米作日本一の農家の技術が新聞雑誌や普及機関等を通じて、また直接的な視察を通じて農家に伝わっていった。
 もちろんこれは代表的なものであって、多くの農家、地域がさまざまな技術開発に取り組んだ。そして集落内、町村内でお互いに学び合った。さらに自分の住む地方はもちろんのこと全国各地の優れた稲作農家や地域を視察し、そこから学ぼうとした。

(明日から一週間休載させていただき、次回は来月の6日とする。)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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