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集団栽培、隣り百姓、集落エゴ

 

              60年代の水稲生産力急上昇(5)

              ☆集団栽培、隣り百姓、集落エゴ

  米価上昇と増収によって、稲作に関してだけは1日当たり労働報酬が他産業並みとなった。そこで東北の稲作地帯はさらに単収をあげようとする熱気で満ちあふれた。増収すればするほど所得は向上し、生活水準を向上させることができたからである。そしてまた増収は技術者としての農民の誇りでもあった。
 山形県庄内地方に行ったときなどは、4石(=10俵=600㌔)穫りどころか、かつては考えることもできなかった5石(750㌔)どりを目指そうと農家が目を輝かしていた。
 その達成にあたって問題となったのは防除だった。いい農薬、防除機はできたが、いかにそれをうまく用いても効果があがらないことがあるからである。自分の田んぼで適期に防除しても隣にまだ防除していない田んぼがあるとそこから病原菌や害虫が侵入して収量が落ちてしまう、つまり個々の農家がばらばらに防除しても効果があがらないのである。
 そこで普及したのが、集落単位での共同防除だった。大型防除機を導入し、みんないっしょに一斉に農薬を散布するので、効果はこれまでに比べてかなりあがる。
 しかしそれにも限界があった。それぞれの田んぼの品種や植え付け時期が異なると適期防除の日にちがそれぞれ異なるので、一斉防除してもすべての田んぼに効果があるとはかぎらないのである。
 もう一つの問題は、労力不足である。高度経済成長下での次三男労働力の都市流出、小規模農家の労力の農外流出は、農繁期の労力不足をもたらしていた。とくに田植え労働の不足は深刻であった。稲刈りも厳しかったが、適期の短い田植えはさらに厳しく、とくに規模の大きい農家は雇用労働の確保に走りまわらなければならず、確保できなくて田植えの時期が遅れることさえあった。これでは一部の田んぼの収量が落ちるだけでなく、そこは一斉防除の恩恵を受けることができず、他の農家の田んぼに迷惑をかけることにもなる。
 こうした問題を何とかして解決し、単収の頭打ちを打開しなければと考え始めたころの1962(昭和37)年、たまたま愛知県安城市に視察に行った庄内経済連(註1)の役職員が、集落を基礎とする稲作の栽培協定と主要作業の共同化を内容とする水稲集団栽培(註2)を見て、これはいい、この方式を庄内で適用したらどうかという話になった。つまり、集団栽培のように集落ぐるみで協定を結んで品種、田植え時期、初期の水管理、施肥の量や時期等を統一すれば、防除の適期が一致するので効果的に共同防除ができる、また集落の全員が一斉に出て共同で田植えをやれば協業・分業の力で適期に終わらすことができ、労力不足に悩むこともなく、単収をあげることができるのではないかという話になったのである。ただ問題となるのは愛知と庄内は条件が違うことである。愛知の集落は零細兼業農家で構成されており、集団栽培はその問題を解決するためにつくられたものであり、庄内のような兼業化もそれほど進んでいない大規模専業農家の多い地域で集団栽培が育つかどうかわからない、時期尚早ではないかという意見もあった。しかしともかくやってみようということになり、経済連は普及のための予算を計上し、集団栽培の講演会を開くなどして集落に働きかけた。
 それに余目町(現・庄内町)の3集落が応じ、63年に集団栽培を組織した。これは非常にうまくいった。
 ちょうど同じころ、酒田市西荒瀬地区などで労力不足解消のための集落ぐるみの共同田植え、そのための品種の協定などが自主的に始まっていた。これは実質的な集団栽培組織の形成といえた。
 これに自信をもった庄内経済連は集団栽培の組織化に関する集落の話し合いへの助成金を出すなどして積極的な普及に当たった。こうしたなかであちこちの集落で組織化が進んだ。
 それに対応して市町村も推奨するようになったが、酒田市の場合には、この集団栽培に中型トラクターの集落単位での共同利用を組み合わせて推進しようとした。農業構造改善事業による土地基盤整備や近代化施設の導入を進めろという国の圧力に対し、酒田市は中型トラクターの共同利用を含めた水稲集団栽培組織を育成するとしたのである。すなわち、基盤整備は最上川河川改修にともなってそのうちやられるので今はやらない、庄内の秋の特殊な気象条件からして大型コンバイン等は入れられない、大型トラクターは土地条件からして入れられない、当時開発されつつあった中型で十分であるとして、集落での共同利用を前提とした中型トラクター、大型防除機、バインダー等を集落単位に導入する構造改善事業を実施したいと農政当局に申し入れ、それで水稲集団栽培組織を育成することにした。65年ころから始まったこのやり方は構造改善事業・水稲集団栽培の酒田方式として全国に有名になった。
 こうした動きを見た県行政は67年ころから積極的にその推進に取り組むようになり、68年から始まる「山形県60万㌧米づくり運動」では集団栽培を位置づけて推奨することにした。
 こうした行政、農協一体となった取り組みのなかで、集落ぐるみで品種、田植え、施肥、水管理、そして防除等の統一に関する栽培協定を結ぶという水稲集団栽培組織が68年には庄内のほぼ全集落に形成された。
 この集団栽培、つまり集団による肥培管理は庄内の単収を大きく向上させた。適期防除、適期田植えが可能になるばかりでなく、肥培管理がその地域にもっとも適するやり方で設定されるために農家間の収量格差が少なくなったから、つまり単収の下位農家の技術が地域の上位農家の水準に引き上げられたからである。

 山形・庄内ばかりではなく、他の県でも水稲集団栽培に取り組んでいた。私が集団栽培を初めて目にしたのは65年秋のことで、八郎潟の地先干拓で水田面積を増やしていた秋田県井川村(現・井川町)であった。この取り組みはやはり増収を目的としていたものだが、これは農業労働力を追い出す側面をもっているのではないか、単純にこれを勧めていいものかどうかと強い疑問を感じ、そのことを論文に書いて発表した。それがきっかけで全国の研究者といっしょに愛知や佐賀の集団栽培、岡山の直播などの調査をするようになり、さらに70年の日本農業経済学会シンポジウムの報告者にもさせてもらった。そんなことで集団栽培と井川村にはちょっと思いがあるのであるが、それはそれとして、ともかく当時は東北の農家はもちろんのこと行政、普及、農業団体も増収に力を入れ、増産運動を展開した。
 県単位の取り組みについて言えば、山形の「60万㌧米づくり運動」だけでなく、秋田県は「健康な稲づくり運動」(64~70年)、「750㌔どり集団褒賞制度」(66~70年)、青森県では10年後を目標に県平均4石、多収農家6石どりを目指す「4・6米づくり運動」(67~69年)、岩手県は「産米50万㌧達成推進事業」(67~69年)、福島県は4割増収6割省力を目指す「4・6米づくり運動」(64年~)を展開している。
 県当局ばかりでなく、市町村や農協が独自で増産運動に取り組むところもあった。たとえば山形庄内の余目町農協では集落対抗の多収穫競争を主催するなどして増収を奨励している。
 こうした米づくり運動は集落を基礎に展開された。集落単位に米づくりの生産集団を育成し、これを基礎に増収技術の浸透を図ろうとしたのである。秋田の750㌔取りの褒賞などはこうした集落の集団を対象としたものだったし、山形は集落単位の集団栽培の組織化を大きく取り上げており、他の諸県もほぼ同様であった。
 このように集落ぐるみで増収に取り組んだことが東北の水稲反収を高める一つの要因となった。

 私が大学院生の頃、恩師のHS先生から「隣り百姓」という言葉を教わった。隣りが種を播き始めたら自分も種を播く、隣りが肥料をやれば自分もやるというように隣りの家と同じことをする、こうすれば大きな間違いはないと自分で何か新しいことを始めようとしない、これが隣り百姓で、日本の農家の特徴だと。
 初めて聞いた言葉であり、それはどこか一地方で使われている言葉なのかとそのときは思ったが、そうではなくていろいろな文献の中でそういう表現が使われていることを後に知った。そしてそこでは、隣り百姓という言葉が日本人全体の特性を表現する言葉として、つまり日本人は人真似ばかりして個性がない、独創性がないと卑下するさいにそれが使われていた。
 たしかにそうした側面が日本の農家にあったかもしれない。そして隣り百姓でみんな同じことをやっていたら進歩がないこともその通りである。
 しかしそれはやむを得ないことでもあった。たとえば水規制などからみんな一斉に田植えをしないと他に迷惑をかけるので、隣りが始めたら自分もやるというようにせざるを得なかった。つまり他と違う事をやるわけにもいかず、独創性を発揮するわけにはいかなかったのである。ここに問題があると言われればそれはその通りというより他ない(註3)。
 さらに次のようなこともある。稲作は1年1回しかできず、しかもやり直しはきかない。だから、たとえば20歳から還暦まで働くとすると、一生のうちに40回しか稲作を経験できない。しかもその40回は単なる繰り返しではない。毎年毎年天候が違うからである。天候に応じて作業の日時ややり方を変えなければならない。さらに毎日同じ仕事をするわけでもない。多様な作業がある。そしてその経験日数もきわめて短い。そうなると自分の経験はどうしても限られる。そうなれば、親の経験を伝承すると同時に、他人の経験、隣のやっていることを学び、あるときは真似してやってみて、それを自分の経験、知恵に加えることもしなければならない。つまり経験と勘にもとづく農業がいとなまれている低い技術水準のもとでは「隣り百姓」でなければならなかったのである。「隣り百姓」もやれない、真似することもできないものは、失敗するしかなかったのである。だから私は隣り百姓はそんなに悪いことではないと思っている。
 また、人真似をすることがそんなに悪いことだとも思わない。たとえば私のように手先が不器用なものはいくら上手な習字のお手本を示されてもなかなか真似できず、いまだに字が下手であるが、それを考えると真似できるというのは才能なのだろうなと思う。
 そもそも真似が上手にできなくてどうして独創性など出てくるだろうか。子どもも人真似から始まって、つまり基礎ができて、それぞれの独自性が発揮できるようになり、またより高い独創性をもつことができるようになるのであって、人真似がうまいということは誉められこそすれ悪口の対象とはならないはずである。
 そしていいことは積極的に真似しようとするのは進取の精神の表れでもある。
 また、隣りが始めたら自分も始めるということは、隣りに負けてたまるかという競争心の表れであり、こうした隣り百姓精神つまり競争精神も日本の農業生産力を発展させてきたのではなかろうか。
 こう考えると、隣り百姓は決して悪い事ではない。それどころか推奨すべきことなのではなかろうか。

 集落はこうした隣り百姓の集まりである。したがって集落は技術の普及・伝播の単位となる。集落に新しい技術が入り、誰かが試して良いとなると、それを見ていた隣近所が始め、その技術は集落全体のものとなって生産力を高めるのである。また、みんないっしょにやらないとその技術の効果があがらないということもあるので、お互いに技術を教え合って集落全体のものにしていくということもある。
 戦後の民主化のなかで発言権を強めた青年たちは、意識すると否とにかかわらずこうした集落の性格を肌で知っているので、自主的に集落で稲作研究会を組織したり、集落の集まりに普及員を呼んで話を聞いたりして、みんなで技術を教えあい、高めあおうとした。
 行政は米づくり運動のなかでこうした自主的な集落の増収組織を支援し、またその組織化を支援した。つまり集落の性格を活かして集落を基礎とした米づくり運動を展開した。これが一つの要因となって一挙に新技術が普及し、増収が可能となったのである。

 夏になると虫追いとか虫送りとか言う集落の行事が行われるという。私は経験していないが、記憶になくなってしまったのか、そもそも私の生まれた地域になかったのかはわからない。町場の混住化した集落だったから私の子どもの頃にはなくなっていたのではないかと思う。
 どこで聞いたのだったろうか、新潟ではなかったかと思うのだが、ある村では子どもから大人までみんなで松明をもって太鼓、半鐘を鳴らし、声を出しながら田んぼのまわりを歩き、部落のはずれまで行って稲に付く虫を追い払ったという。これもどこだが覚えていないが、集落の子どもたち全員が松明を灯し、その明かりにおびき寄せられた虫を村境まで送っていくのだという。
 ここで面白いと思ったのは、虫を隣りの集落に追い払うという考え方である。当然隣の集落も同じことをやっているのだが、自分の集落さえよければ他の集落はどうなつてもいいと考えていることを示す。まさにこれは集落エゴである。
 水争いもそうで、自分の集落が生き残るために隣の集落と血を流す場合すらある。隣の家同士では足のひっぱりあいをしながらも、よその集落に対しては団結して当たるのである。こうしたことが子どもにも反映するのだろう、その昔はよその集落の子どもたちとの仲は悪く、隣の集落の子どもが自分の集落の中を通るとみんなでいじめたり、川をはさんで集団で石を投げ合ったりしてけんかしたなどという話を聞いた事がある。
 こうした集落間の対立は戦後少なくなってきた。土地改良事業の進展で水争いは少なくなったし、虫を他の集落に追っ払わなくとも防除できるし、町村単位に新制中学ができるなかで集落を越えた友人関係ができるし、対立する理由はなくなってきたからである。しかも兼業化の進展で集落のまとまりもなくなってきている。
 しかし、集落はまだ生きていた。余目町農協の職員からこんな話を聞いた。むらが解体したなどといわれるようになり、自分たちもそう思ってきたが、何と何とそんなものではない、町の運動会で集落対抗のリレーや綱引きをやるときの集落の団結心、他の集落に対する競争心はすごいものだと。それに気がついた農協は集落対抗の多収穫競争を提起した。そしてもっとも単収が高く、品質もいい集落を表彰することにした。そうしたら各集落は必死になって取り組む。ある集落では稲作係を決め、その人が集落の田んぼを見回り、ここはちょっと水が足りなさそうだとか肥料が足りないのではないかとか気がついたことを農家に注意し、農家はそれにしたがって管理を強化することにした。こんなことを決めなくとも、田んぼに行った人が何か気がついたらお互いに注意しあうようにする集落もあった。これが庄内のなかでも高い余目町の単収の背景になったという。
 よく集落は防衛の組織だという。しかしこれを見ると、集落は他集落に対する攻撃の組織であり、生産力を発展させる攻めの組織だということもできるのではなかろうか。
 60年代の米づくり運動はこうした集落の性格をうまく利用したということができるであろう。

 60年代後半の東北の水稲単収は、山形県が560㌔を越して全国一を誇るようになったのを筆頭にして、かつて低位生産力地帯と言われた青森県まで全国一になるなど、大きく高まった。4石=10俵=600㌔も夢ではなくなってきたのである。
 こうした土地生産性の向上と同時に、労働生産性も向上した。耕耘機の普及、除草剤の導入等が10㌃当たり投下労働時間を少なくしたのである。しかし農業基本法のいう高生産性農業の確立という面からするとそれでは不十分だった。それで政府は農業構造改善事業等で外国製の大型機械・施設を導入して一挙に労働生産性を高めようとした。

(註)
1.戦後から最近まで、農協が経済農業協同組合連合会(経済連)を各県に一つずつ組織して販売・購買分野の県段階での協同活動を展開してきたが、山形県だけは内陸の農協を構成員とする「山形経済連」と庄内地方の農協で構成される「庄内経済連」との二つが組織されていた。これには戦前の産業組合運動とのかかわり等々さまざま理由があるが、その説明は省略する。なお、現在は経済連の全農への統合が進み、山形県の両経済連も統合されて現在は全農山形県本部になっている。

2.水稲集団栽培とは、「集落ぐるみで協定を結んで水稲の品種、田植え時期、初期の水管理、施肥の量や時期などを統一し、耕起・代掻き、田植え、防除などの作業を共同して行う栽培方式」のことで、労力不足対応と増収を目的として1960年代後半に全国各地に普及した。なお、こうした集団栽培がやられているところでも秋作業は従来通り個別でなされるのが普通だった。こうした集団栽培組織の多くは70年代に解体しているが、これについては後に述べる。
3.11年1月5~12日掲載・本稿第一部「むら社会(1)~(6)」参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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