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農業構造改善事業と大型機械の導入



               60年代の水稲生産力急上昇(6)

              ☆農業構造改善事業と大型機械の導入

 政府は、農業基本法のいう農工間の生産性格差の是正、そのための土地と労働力の流動化、労働生産性の向上のために、外国製の大型トラクター、大型コンバイン、大型乾燥施設等の導入、30㌃区画の圃場整備などを推進する農業構造改善事業を1962(昭和37)年から各地で展開した。しかし、欧米の畑作経営や大規模稲作経営で用いられる機械は日本のまた当時の圃場条件には適合しなかったし、その性能も増収を求める農民の意識とはあわなかった。
 
 64年の冬、会津に調査に行ったときのことである。帰りの列車のなかで、同行してくれた福島県の職員の方が次のような話をしてくれた。
 大型コンバインによる刈り取りの実験のために県がある農家の田んぼを借りた。いよいよ刈り取りが始った。そしたらコンバインの後ろに籾がぼろぼろこぼれる。それを見ていたそこの田んぼの持ち主のおばあちゃんが「やめてくれ、やめてくれ」と泣きながらコンバインの後を追っかけて走った。収量が落ちる分は県がきちんと補償することにしているのだからそんなことをする必要はないのに。
 こう言って職員の方は笑った。
 しかし私は笑えなかった。そのおばあちゃんの気持ちがよくわかったからである。カネの問題ではないのだ。精魂こめて作った一粒一粒の米がもったいないのだ。この農民の意識、もったいないと思う気持ち、米を大事にする意識がこれまでの日本の農業と食を支えてきたのである。その頃まであったこうした日本人のもったいない意識は後に大きく変わってくるのだが、それはとりあえずおいておこう。
 ともかく、欧米の機械の性能は日本の稲作にはあわなかった。秋田県の大曲の近くで大型コンバインの試験刈り取りを生まれて初めてみたとき、私もそれを痛感した。
 こうした農家の間尺にはあわない機械・施設を一律におしつけようとする当時の構造改善事業には農家からかなりの抵抗があった。そしてこの事業でむりやり導入した機械・施設の多くは定着しなかった。当時としてはきわめて高価なアメリカ製の大型コンバインを全国各地に導入して大失敗したことなどはその典型例だった。

 1960年代から70年代にかけて志和型複合農業で有名になった岩手県紫波町志和農協、ここは水争いのところでも紹介した(註)が、ここで増収のための暗渠排水事業を実施した。そのときに農業構造改善事業を利用したが、それに付随して大型トラクター、アメリカ製の大型コンバイン、ライスセンターを導入せざるを得なくなった。
 67年秋、農協からの委託で調査に行ったとき、たまたまそのコンバインで稲刈りをした田んぼのところにいった。稲刈りの後のやわらかい田んぼの土にめりこんでいる太い太いタイヤの跡がぐにゃぐにゃうねりながら続いている。何か傷痕のように見えた。田んぼが悲鳴をあげているような気がした。何だか知らないけれど、田んぼがかわいそうになった。
 田畑の土はできるかぎりやわらかく保つということを農家の子どもは幼い頃からきびしくしつけられてきた。田畑のなかで遊んだりするのはもちろん作業以外で入るのは固く禁じられ、入ったりすると大声で怒られた。何も植えていない収穫後の田畑であっても用事もなく入ることは許されなかった。他人の家の田畑によその子どもが踏み込んでも怒った。雪が深く積もったときだけ自由に田畑で遊び回り、走り回るのが許されるだけだった。作物が根を張る土地はやわらかくしていなければならず、また土地が硬くなっていては鋤や鍬で田畑を起こすとき大変だからである。まさに腫れ物に触るように大事にしてきた。ところがその田に固く踏みしめられた深い轍(わだち=車輪の跡)がついている。それで傷痕に見えたのかもしれない。
 こんなことを思いながら田んぼを見ていたとき、稲刈りが終わったばかりの近くの田んぼのあぜ道に数人の中高年の女性が休んでいた。当時はまだ手刈りがほとんどだったから、その稲刈りに雇われてきた人たちだった。何となくあいさつして雑談になったとき、大型コンバインの話になった。一人が寂しそうにこんなことを言った。「大きい人たちはいいけど、私たち小さいものはいらなくなるんだね」と。この女性たちは経営面積の小さい農家で、農繁期に経営規模の大きい農家に雇われて日銭稼ぎをしているのだが、機械化で自分たちの労働力はいらなくなる、これからどうしたらいいのかとの不安をもらしたのである。
 なぜかいても立ってもいられないような気持ちになった。それで仙台に帰ってから、当時の農協専務のKHさんへの調査結果報告にかかわる連絡の手紙の中に、外国製のコンバインの導入についての感想を書いて送った。最近段ボールを整理したら当時の調査ノートのなかにたまたまその手紙の草稿が入っていた。なつかしく読み返したが、その一部を紹介してみる。拙い文章だが原文のままとする。これがその当時の気持ちだったし、そんなに間違っていなかったとも思うからである。

「‐‐‐ライスセンターをはじめ大型機械の導入は私達が予想したように他の構造改善地区には見られないほどうまくいっておりました。失敗した地区のように事業費の負担がかさみ、借金が増える等々で多くの農民が苦しむこともなく、農協もライスセンターなどの赤字に苦しむこともなく、これは専務さんをはじめとする皆さん方の努力、農民の創意性の発揮によるもので、本当に感心いたしました。
 しかし次のような点を私としては指摘せざるを得ません。構造改善事業はうまくいっても、失敗した地区と同じく構造政策の目的とする農民追い出しに一定の役割をはたしていることです。
 毎年稲刈りなどの日雇い稼ぎに出ている規模の小さい農家のご婦人が経営面積の大きいある農家にこう言ったそうです。『あんた方は楽になったべね』。雇用労賃がいらなくなったからです。しかしこの人達の仕事はなくなりました。機械の入っていない隣部落の田んぼの稲刈りに雇われ、あぜ道で一休みしていたご婦人方とたまたま話をしたら、去年までひっぱりだこだったのに、今年はひまで、頼みにくればすぐに応じられるほどだったと言います。彼女らは地元で仕事を得て何とか生きていこうとしていました。しかし機械が入って仕事がなくなったのです。農業の仕事がなくなったからといって遊んでいるわけにはいきません。おそらくそのうち農外で地元以外で何とかして有利な仕事をさがすでしょう。しかしその人達の気持ちはどんなに淋しいことでしょうか。たとえ経営面積が少なくて農業だけで食べていけないとしても、やはり彼らも農民の一員であるからです。ところが彼等は農業からきりはなされるのです。彼等の目にはあの巨大なコンバインがどのようにうつったでしょうか。2匹の巨大な怪獣が自分達を追い出しているような感じがしたのではないでしょうか。
 これは零細農だけの感じではありません。手刈りでやっていこうと思っていた中農層もあの巨大なコンバインに圧倒され、何とかして家族でやっていこうとする気持ちはコンバインの前に立ちすくみ、時代の流れをしみじみと感じさせられたようです。そして機械導入に反対してもしようがない、結局は自分達も農業から足を洗わざるを得なくなると感じさせたようです。そういう意味であの2台のコンバインは中下層農に対する大きな示威になりました。
 機械が農民を追い出す、これは資本主義社会の冷酷な法則です。そしてそれは多くの農民に数限りない苦痛を与えます。1930年代のアメリカで丁度今日本でなされているような農民追い出しが進行しました。スタインベックの『怒りの葡萄』という小説はそれを痛烈にあばきました。私は今この小説を思い出し、日本のばあいとひきくらべているところです。
 志和の水田は戦前水不足のために苦しんできました。しかし戦後の増産政策と農民の要求で水不足は解消され、反収は急激に増加しました。志和の農民の苦しみを何十年何百年とみてきた志和の水田はどんなにうれしかったことでしょう。しかし今この水田は苦しんでいるように見えます。もっともっと志和の農民のために米をたくさんつくってやりたいと思っていたこの水田は、2匹の巨大な怪獣の爪で深く傷つけられ、悲鳴をあげているようです。そうです、志和の田んぼは泣いているのです。
 上層農民は機械化で雇用労力を減らせるので収支はとんとんと計算しています。そうかもしれません。しかし次のことを考えて見る必要があるでしょう。これまで上層農民は雇用労賃を下層農民に支払っていました。つまり同じ百姓と百姓の間のお金のやりとりでした。ところが今度はどうでしょう。これまでの雇用労賃部分は農民の手に渡るのではなく諸機械の経費として機械メーカー、石油精製メーカーなどにわたるのです。つまり百姓の手からアメリカや日本の大きな資本に渡るのです。彼らは大喜びです。機械化で農民を追い出して低賃金労働力を手に入れたばかりでなく、機械や石油の販売でお金を手に入れたのです。ますます強く独占的な大資本の手のひらににぎられてしまったのです。日本の農村をじりじりとしばりつつある独占の冷酷な鎖の音が志和から聞こえてくるようです。
 私も百姓の息子です。まだ百姓の根性は失っていないつもりです。そして私は過重な労働から百姓が解放されることを本当に望んでいます。しかし今の機械化ははたして本当に農民のためになるものなのでしょうか。あらためてこの問題を考えてみる必要があると思うのです。
 一度動き出した限りもうもとにもどれません。後はいかに今入っているコンバインやライスセンターを農民の要求にこたえてよりよく動かしていくかということが問題になると思います。そして増収とコンバイン、労力とコンバインという矛盾を解決していく必要があるでしょう。専務さんをはじめとしてそのために努力されるだろうと思います。私も今度調べたことをもとにしてそれを考えたいと思っております‐‐‐」

 この手紙を受け取った専務のKHさんは、組合員のためと思っていたのがそうではなかったのかと、相当ショックを受けたらしい。そして私の大先輩で志和農協を指導していた岩手大のSTさんのところに行き、この手紙を見せたらしい。後でこの大先輩からさんざん怒られた。一所懸命やっているのに自信を喪失させるようなことをなぜいうのか、実践のなかで少しずつことの本質をわかってもらおうと思っていたのにと。しかし私としては書かないではいられなかった。
 その後KHさんは組合長になり、労働力が追い出されないようにと経営の複合化にさらに取り組み、志和地区の農業は志和型複合として有名になった。

 結局は外国製の大型コンバインは普及しなかった。しかし、これに代わるものとして秋田の仙北村(現・大曲市)などで実験的に構造改善事業で導入した生脱穀機(刈つたばかりの稲から生籾を脱穀する機械、これまでの脱穀機は乾燥させた稲から脱穀するものだった)が後の自脱コンバインにつながったことからわかるように、構造改善事業は70年代に本格化する機械化の進展の先鞭を切り、 日本の稲作に適合した機械開発のきっかけをつくったといえよう。実際に60年代後半には中型の乗用トラクター、バインダー、スレッシャーなどが入り始めるようになる。また構造改善事業のあり方が見直され、その後ほとんどの市町村で導入されるようになり、構造政策の推進に大きな役割を果たすようにする契機ともなった。
 日本の田んぼに適したこうした中小型機械が開発、導入された結果、田んぼが機械の轍で深く傷つけられることもなくなった。農民の増収要求とも矛盾しなくなった。しかしこうした機械であっても、志和の日雇いの女性たちが言う通り、彼女たちのような小規模農家の労働力は田んぼから追い出された。しかし追い出されたのは彼女たちだけではなかった。機械を入れた農家の労働力もいらなくなった。機械化で田植えや稲刈りのときの人手集めに苦労することはなくなったが、逆に農業から追い出された自らの労働力の売り込みに苦労しなければならなくなってきた。ところが、農業・農村には働き口がない。かくして人々はやがて農業から、村から追い出されることになるのである。

(註)10年12月8日掲載・本稿第一部「☆雨たもれ―ヒデリノトキ―」、
   11年3月8日掲載・本稿第一部「☆ヒデリノナツの緩和」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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