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水田面積の拡大―開田ブーム―



               60年代の水稲生産力急上昇(7)

               ☆水田面積の拡大―開田ブーム―

 1960年代は、水稲の単収が急上昇しただけでなく、水田面積が急激に増加した。とくにこの年代の半ばころから開田ブームが巻き起こり、東北の農家は自己資金であるいは政府からの補助・融資を受けて争って原野や畑の水田化を進めたために、それは加速化された。
 これを可能にしたのは水田造成・揚水の技術とその機械化の進展であったが、それ以上に大きかったのは米価の上昇であった。開田費用をまかなうために借金をしても十分に返済できたのである。さらに、畑作物が自由化の波にさらされて価格が低迷し、とくに63年以降米価の畑作物価格に対する優位性が明瞭になり、これは畑の開田を促進した。青森県三沢市の開田などはその典型例であろう。

 三沢市は典型的なやませ地帯で繰り返し冷害にあってきた。したがってかつては水田が少なく、ヒエ─麦─大豆の輪作(註1)を基軸とした畑作中心の経営をいとなみ、それに馬産を結びつけていた。
 戦後馬産は衰退したが、畑作振興政策に沿ってナタネ・麦・大豆等に力を入れた。だから春になると一面の菜の花となり、それはそれは見事な眺めだったという。7月初めから半ばまでがナタネの刈り取りだが、ちょうど入梅の時期で、雨が三日も降れば発芽するので刈り取りは戦(いくさ)のようだったと農家の方はなつかしそうに話をしていた。
 しかし麦・大豆は外国からの輸入で価格が低下し、これに依存していては生計がいとなめなくなる。ナタネも食用油が自由化され、しかも連作障害問題が起き始めたので採算が合わなくなった。
 そこに勧められたのが酪農だった。畑作地帯だったため一戸当たり経営耕地面積が相対的に多いので、そこに牧草やデントコーンを栽培すればかなりの頭数を飼育できるからである。とはいっても北海道などからくらべたら面積は少なく、規模拡大には限界がある。そこでビート(甜菜)栽培と酪農を結びつけるよう勧められた。ビートは砂糖の原料として売れるし、その搾り粕のビートパルプは乳牛の濃厚飼料となり、ビートトップつまり茎葉は粗飼料となって飼料の自給率を高め、酪農の所得を増やすので、一挙両得だという。それで農家はビートと乳牛の導入に取り組んだ。もちろん暖地でのビート栽培は病害虫の発生等で容易ではなかった。それでかなり苦労したが、ようやく定着させた。
 もう一つ取り組んだのが開田であった。保護苗代による早撒き早植えや早生多収品種の開発等の寒冷地稲作技術の進歩で安定多収が可能になっていたので、かつては冷害等による低反収で水田にするわけにいかずに畑にしていた土地の水田化に取り組んだのである。
 1966年の夏、酪農経営の調査で三沢市の調査に行ったときは農家がこの二つの道のどちらをいくか選択しつつあったときだった。私としては酪農+ビートという集約的な酪農が定着することを期待しながら調査を終えた。
 ところが翌年、八戸にあるフジ製糖の工場が閉鎖された。砂糖の輸入自由化で経営が成り立たなくなったためである。農家は困った。ビートを買ってくれるところがなくなったのである。北海道には製糖工場があるが、そこに輸送していたら引き合わない。売れないビートを作付けするわけにはいかない。ということは酪農をやめざるを得なくなることを意味する。飼料畑にする土地を多くもっている農家は別にして、ビートを基軸とする畑地酪農の展開はあきらめるより他なくなった。
 その時に勧められたのが開田だった。当時の米価上昇のもとでは開田しても十分に引き合うし、お釣りさえ来る。そこで農家は飛び付いた。政府の補助や融資、あるいは自費で畑や原野を一斉に水田にした。
 こうして1970年ころにはかつての畑作地帯は米単作地帯に変わってしまった。
 ところがちょうどその年から減反政策が展開される。また80年代には厳しい冷害に見舞われる。農家経済は大きな打撃を受けた。三沢市の農家はまさに農政に振り回されてきたといえよう。それでも農家はこうした状況から脱却すべく努力し、今はかつて開田不可能地に導入したナガイモ等の根菜類の産地として名声を馳せるようになっている。この経緯はまた後に述べるが、三沢のような例は東北の畑作地帯の各所で見られたことであった。

 話はまるっきり変わるが、ご存じのように三沢は基地の町である。調査に行ったときもアメリカ兵が街の中をうろうろしていた。そして基地の近くには原色でけばけばしく飾り立てられた英語の名をつけたバーやキャバレーが並んでいた。
 調査の最後の夜、駅前の宿でいっしょに飲んだ市と農協の職員の方が、三沢の飲み屋にはホワイト、ブラック、イエロウの三種類があると教えてくれた。ホワイトは白人専用で、黒人は絶対に入れないと言う。もしも入ったりしたら半殺しの目に遭うらしい。ブラックは黒人専用だが、白人も入れる。なお、日本人はホワイト、ブラック両方に入って飲める。白人は日本人を自分たちと類似の人種と見ているからか、日本に来ているのだからあるいは接客の女性が日本人なのだからしかたがないと思っているからなのかわからないが、ともかく問題にしないという。いうまでもなく日本人専用の飲み屋がイエロウということになるが、ここには白人であれ黒人であれアメリカ兵は絶対に入れない。これは何も法律で決まっているわけではないが、自動的にそうなっているという。飲んだ勢いでそれを確かめようという話になり、二次会でホワイトの店に連れて行ってもらった。確かに入ることができた。接客の女性は歓迎してくれたし、なかにいた客の白人兵も何も言わなかった。前金を出さないと注文しても酒は出ないという西部劇でしか見たことのなかったことを体験したり、接客の女性の話をいろいろ聞いたり、ともかくおもしろかった。
 人種差別のことは聞いていたが、やっぱりそうだった。ちょうどそのころアメリカでは人種差別反対の運動が展開されており、1964年には公民権法が成立していたのだが、差別はまだまだ残っていたのである。
 ところが今は黒人が大統領になる時代になっている。09年1月、黒人初のアメリカ大統領が誕生したのである。奴隷解放宣言から150年、公民権運動から約50年にしてようやくだった。その苦しく悲しい歴史を考えれば感無量である。変わったものだ。人間も捨てたものではないのかもしれない。もちろんアメリカの政策には大きな問題がある。差別もいまだに残っている。しかし、いろいろ往ったり来たりはしながらも社会は確実に進歩している、やはり未来は明るいのだ。こんなことも感じさせるうれしい出来事だった。

 90年代に入ってまた三沢に何回も調査に行く機会ができたが、街を歩くアメリカ兵の姿はほとんど見かけなかった。英語の名前が書いてあるアメリカ兵向けの店もほとんどなく、あっても何年も前につぶれたように錆びたシャッターが閉まっていた。基地がなくなったわけでもないのにと思って市の職員の方に聞いたら、円高ドル安になってからアメリカ人はほとんど街に出てこなくなったという。そして基地の中で自給自足している。衣類から食品まであらゆるものが飛行機で直接アメリカから運ばれてくるし、商店はもちろん飲み屋、映画館、ゴルフ場など娯楽施設もすべてそろっているし、三沢の街に出てこなくとも十分に生活できる。三沢の街とはまったく関係無しに生活しているという。
 驚いた。変わったものである。かつてはアメリカ兵が街に金を落としてくれた。しかしいまはそんな恩恵はまったくなく、お互い無関係な生活をしている。関係があるのは基地の騒音、誤爆、墜落、暴行・ひき逃げ等の事件だ。私たちが前に調査した地区の一つは、戦闘機の離発着するルートの真下にあったのですべて移住させられ、その地域は無人の土地になっていた。
 もう一つ驚いたのは、防衛庁の補助金で園芸用のハウスが建てられていたことである。それ以外にも防衛庁からかなりの補助が出ている。農業関係の補助金は農水省と大蔵省(たばこ関連のみ)からだけと思っていたが、防衛庁からのもあったのだ。
 それ以上に驚いたのが、基地内のアメリカ軍人の宿舎である。市役所の人に案内されて基地内を見せてもらったのだが、もう言葉に言えないほどぜいたくな建物である。将校の住宅などはとくにそうである。アメリカに帰って民間人になったらこんな住宅に住めるのだろうかと思うほどである。言うまでもなくこれはわれわれの税金で建てられたものである。立派なゴルフ場もわれわれの税金でつくられ、維持されている。なぜここまでしてやらなければならないのか、アメリカ兵よりもわれわれ日本人に対する「思いやり」が欲しいものだと、ともかくいやな気持ちがした。

 話をもとに戻そう。この三沢のように原野や畑の多かった青森や岩手ではとくに開田が進んだ。
 例をあげればきりがないが、たとえば津軽の五所川原周辺の農家は、1965年前後の開田ブームのときに岩木山麓の原野や畑を安く大量に購入し、自己資金や借入金でため池を個人でつくり、あるいは井戸を掘り、水路をつくって水田を造成している。そして車で通って耕作した。
 第一部の入会牧野のところで述べた岩手県川井村(註2)のような高冷地でも開田が進んだ。開田した農家の方から聞くと年によっては10㌃当たり2~3俵しかとれないこともあるという。これくらいしか穫れないなら、この地域特産の日本短角牛の飼料を得るための草地にした方がいいのではないかとも思うのだが、この程度の単収でも水田にした方が飼料をつくるよりも収益があがったのである。
 岩手の中山間地域のある農協の職員の人から、この周辺では道路工事があるたびに水田が増えるという話を聞いたことがある。
 工事にきた人たちが近くの農家を訪ね、労賃だけで安くやってやるから開田しないかと声をかける。それではお願いすると頼む。すると、昼休みの時間に工事のために持ってきている会社のブルドーザーや燃料をただで使って畑や原野を田んぼにしてくれる。当然開田費は安くなるので農家は得をし、道路工事の人たちも農家からもらう開田代は小遣いとなる。なお、こうして開田したところの多くは雑木林に囲まれた原野や畑だから、道路からは見えない。つまり他人はわからない。こうして役場はもちろん地域の人も知らないうちに水田ができる。
 こう言うのである。この話を聞いたときは貧しいもの同士が金持ちをごまかして助け合う昔話を聞いたような感じで何ともおもしろく、思わず笑ってしまった。

 米どころと言われた秋田、山形庄内、宮城、会津などでも水田を増やした。
 もちろん畑や原野が少ないので畑作地帯ほどではなかったが、宮城などでは家の裏の丘陵地などにあったわずかばかりの自給用の畑や原野もすべて水田にしている。
 庄内の平坦部では開田する土地はもうなかったが、砂丘畑をもつ地帯ではそれを水田にしようとした。しかし砂地であるから耕盤がつくれず、水漏れしてしまうので水稲は育たない。そこで考えたのが耕土の下と畦畔にビニールを張って水漏れを防ぐことである。これは「ビニール水田」と呼ばれたが、ここまでして田んぼをつくる必要があるのだろうかと考えさせられたものだった。
 こうして東北の米どころは文字通りの水稲単作地帯となったのである。

(註)
1.11年3月25日掲載・本稿第一部「☆残っていた焼畑農業」参照
2.11年1月6日掲載・本稿第一部「☆入会林野」、
  11年3月30日掲載・本稿第一部「☆どぶろくから酒へ 」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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