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国県営の開田の進展



               60年代の水稲生産力急上昇(8)

                ☆国県営の開田の進展

 自己開田(個々の農家による自主的な開田)ばかりでなく、国営・県営事業による大規模な開田もなされた。秋田県の八郎潟の干拓、岩手県の湯田ダム建設による国営開田などがその典型であった。ここでは湯田ダムを例にしてそれを見てみることにする。
 湯田ダムは北上川の支流の一つである和賀川を湯田村(現・西和賀町)の東端でせき止めてつくられたものだが、その建設は北上川上流改修計画の一つとして戦前から検討されていたものであり、電源開発と農地開発が緊急の課題となっていた1953(昭和28)年にその実施計画がつくられた。そしてそれは64(昭和39)年にダムを完成させ、その後5年間でダムの下流にある2市2町(当時)の4300㌶の畑・原野を開田し、ダムの水を利用して稲を栽培するというものだった。
 1963年に秋田の調査に行くために列車に乗ったときのことである。東北本線から分かれて横黒線(後に北上線に名称変更)に入って30分くらいしたころ奥羽山脈の山ふところにさしかかった。やがて家々はまったく見られなくなり、山また山になってきた。急峻な山に囲まれた狭い谷間を入っていくと突然巨大な工場が現れ、そこに和賀仙人という駅があった。びっくりした。後で聞いたところでは、かつてここに鉱山があってその製錬工場ができ、戦時中には爆撃を避けるために軍需工場が建てられたのだとのことで、私の行った頃はたしか化学工場になっていたのではなかったかと思う。そこを過ぎてまた山と谷だけになり、列車がいくつかのトンネルを越えたころ、突然視野がひろがった。線路は山の中腹を通っており、下の方に田畑が見える。しかしそこはすべて草が生えていて荒れている。さらに注意してみると、廃線になったような線路が下に見え、駅舎の跡のような場所もある。何か不思議な景色だったので非常に印象的に覚えているのだが、そのかつて田畑や線路だったところはダムの下に沈む運命にあったのだということを後で知った。そしてそれが湯田ダムだったのである。
 64年、この受益地域である和賀町(現・北上市)に農家の資金需要の調査で行った。当時はまだダムは完成しておらず、開田は始まっていなかった。町の中心部を縦断している横黒線の列車から見ると両側に田んぼが広がっており、どこに開田する土地があるのかと思ってしまうのだが、ちょっとそこから離れると雑木林が延々と続いていた。そこには畑がところどころに散在し、開拓農家も入植していたが、まさに山のなかという感じだった。そこが開田予定地だった。
 興味をひいたのは、その予定地の一部で田畑輪換の実験がなされていたことだった。それはこういうことからなされたものだった。湯田ダムの水量では予定した開田面積のすべてに水が行き渡らない可能性があった。それを解決する方策として田畑輪換を考えた。半分水田、半分畑にすれば使用水量は少なくてすむからである。しかし田畑輪換の技術は確立していない。そこでその実験をして技術を確立しようと、開田予定地の中心部にその実験地をおき、飼料作物と稲作との輪換を農家に委託してやらせていたのである。私は生まれて初めて田畑輪換というものを見た。非常に興味深かった。しかし、やがてダムの水量が十分にあることがわかってきた。しかも当時は米不足だった。そこで、開田地の全面積で稲を作付することになり、田畑輪換は中止となってしまった。もしもこの田畑輪換の方針が最後までつらぬけていたとすれば、そしてそのための技術確立に努めていれば、新たな水田利用方式がこの地域にでき、その後の生産調整対応、水田農業確立に役だっていたかもしれないのだが。
 やがてダム(今は錦秋湖とも呼ばれている)は完成し、開田が国営・県営で始まった。1968(昭和43)年に和賀町にまた行ったときは、かつての雑木林や畑がなくなっていて、一面田んぼとなっていた。雑木林だったころは山の中のような感じがしたものだったが、林がなくなって見通しが非常に良くなったために、ここはこんなに広い平地だったのかと改めて感じさせられた。同時に、なぜこれまで田んぼにしなかったのかと疑問にもなったが、これは水が得られなかったためであり、ダムのおかげでようやく念願の水田になったのである。
 6月の末だったと思うのだが、当時としては珍しい60㌃区画の田んぼに大型トラクターが入って耕起、代掻きをしていた。開田したばかりなので田んぼの泥の中から開田のさいに倒した木の枝があちこちに突き出ており、これでは大型トラクターでないと代掻きはできない、それにしても田植えはしにくいだろうと思ったものだった。また、田植えの時期が遅れているのでうまく収穫できるのかも心配になった。しかし何とか穫れ、3年たったら田んぼが落ち着いて既成田の収量とほぼ同じになったとのことだった。
 こうして開田は着々と進み、和賀町の場合は原野約900㌶、畑約900㌶、計1800㌶が水田となった。この開田は和賀町の水田を倍増させた。そして町内の農家のうちの半数1100戸が一戸平均1.6㌶の規模拡大をしている。

 こうして進んだ開田は農家を潤した。本格的に輸入に依存するようになった畑作物の低価格を解決してくれたからである。しかも米価は生産費・所得を補償してくれる。開拓農家の場合などは開田でようやく人並みの生活をすることができるようになったと喜んでいた。
 また、開田地帯ではこれまで考えられなかった10㌶以上規模の稲作経営が成立した。既存の稲作地帯では大規模経営の成立がきわめて困難だったのだが、それと対照的だった。当時は米価上昇時代なので水田を手に入れるのは容易でなかったのだが、開田地帯ではきわめて安い開田費用で水田を手に入れることができたのである。とくに原野と畑を多く所有していた農家は開田で水田面積を大きく増やした。しかも技術的に大規模経営が可能になっている。50年代からの除草剤、農薬の導入、60年代後半からの耕起・代掻きのトラクター化が10㌶経営を可能にしたのである。ただネックとなったのは機械化の進んでいない田植えと稲刈りだった。家族労働だけではできないので雇用を入れようとする。しかし、農村からの労働力の流出のもとでその確保は容易でなくなりつつあった。それで田植えの場合などには雇用労働力の奪い合いが起こり、賃金は高騰した。この問題さえ解決すれば、そして土地さえ手に入れば、10㌶以上の経営は十分に成立可能であろうと考えさせる時代となっていた。
 なお、こうした大規模経営の成立は次三男問題が解決していなければできなかったということにも着目しておく必要があろう。かつてであれば土地が手に入ったら農外への行き場のない次三男にそれを分け与え、分家させるので大規模化などできなかった。しかしそれができるようになったのである。それを考えさせたのは、69年の青森県津軽の十三湖開田に関する調査であった。これについては和賀町との比較で第一部に書いた(註)ので省略する。

 こうして東北地方の水田面積は1960年の64万㌶から70年の71万㌶まで増えるに至った。60年代は高度経済成長のもとで水田の人為潰廃面積が全国的に急増したのであるが、東北では拡張面積が潰廃面積を大きく上回ったのである。
 東北で水田造成が進んだのに対し、西日本ではミカン園の造成が進んだ。東の米、西のミカンというこの代表的な成長作目は、ともに70年代に入って過剰問題に悩まされることになる。米の場合は農家の増産意欲と行政の増収推進が米の生産調整となってはね返ってくることになる。しかし、そんなことは当時誰も考えなかった。

(註)11年3月3日掲載・本稿第一部「☆集団就職列車」参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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