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稲作発展の影にあったもの



               60年代の水稲生産力急上昇(9)

                ☆稲作発展の影にあったもの

 水稲単収の急上昇、水田面積の急増と、東北地方の稲作生産力は1960年代に驚異的と言えるほど発展した。そして東北の水田面積は全国の2割、米生産量は3割をしめるようになり、米どころとしての地位を完全に確立した。それはまた米価上昇とあいまって東北の農家の所得水準、生活水準を大きく引き上げた。米をつくっていながら米が食べられないなどということはもうなくなった。山間寒冷地帯、かつての畑作地帯でも麦など雑穀の入っていない白米のご飯が食べられるようになった。低位生産力と貧困、後進性が特徴とされた戦前の東北農業を考えると信じられないような変化だった。
 しかし、この光り輝く成果の裏には影もあった。

 この発展を支えた一方の柱である単収上昇の物質的基礎は、さきにも述べたように、50年代から始まり60年代に入ってさらに進展、定着した稲作技術であった。つまり保護苗代による健苗育成、早播き早植えと生育期間の延長、深耕、化学肥料の増投とそのきめ細かい分施、それに対応する耐肥性品種、徹底した病虫害防除と除草、間断灌漑等の灌排水管理等が増収を可能にしたのである。
 こうした諸技術は品種と肥料を中心とする伝統的な増収技術の延長線上にある。そこから、この技術は「個別小農の集約技術」であり、それが肥培管理の精密化・集約化、流動資本財の増加によってさらに強化されたものである、したがって小農=家族経営の支配する農業構造を変えるようなものでないと主張する研究者がかなりいた。
 しかし、60年代の技術は次のような点でこれまでの技術とは大きく異なっていた。
 まず、家族労働力を排除する技術を含んでいたことである。除草剤や耕耘機などが荒起こし・砕土・代掻き、最低三度の除草に要した労働力をかつてほど要らなくしたことはその典型例である。
 次に、耕耘機や防除機等の固定資本財の増強を伴っていたことである。
 さらに、集団栽培を見てもわかるように肥培管理の諸技術が集落の全員だれでもがやれる技術になってきたこと、つまりこれまでのように経験と勘にたよった主観的篤農的技術ではなくなりつつあり、技術の「規格化、統一化、画一化」が進み、体系化され、客観化された技術となりつつあったことがある。
 こうした諸技術は家族経営と矛盾する。つまり、60年代の稲作生産力は単なる「個別小農の集約技術」ではなくなっており、過剰労働力の創出、家族労働力の土地からの切り離しを進め、旧来の小農経営を大きく変える技術を内包していたのである。
 実際に家族労働力は兼業化という形をとって流出し始め、家族経営を変え始めてきた。そしてそれは70年代に入っての中型機械化技術の導入で決定的なものとなる。

 60年代にさらに進んだ早播き・早植えは、東北で定着させるために努力していた水田二毛作を崩壊させる大きな要因となった。6月中旬だった田植えがわずか10年くらいの間に5月中旬まで進み、これは米の安定多収をもたらしたが、もう一方で裏作を排除したのである。水田生産力を考えずに稲作生産力の発展のみを追求し、水稲の生理生態に合わせることだけを考えて他作目を排除するモノカルチュア的技術の追求がそうさせたとも言えよう。
 なお、こうしたなかで進んだレンゲ裏作の衰退は50年代後半から展開された水田酪農の壊滅に拍車をかけている。
 そうさせた主因は農産物輸入の本格化にあることはいうまでもないが、いずれにせよこれは水田の生産力展開のゆがみということができ、ここに60年代の稲作技術の問題点があったといえよう。

 1972(昭和47)年、酒田市の南遊佐地区の調査で農家に泊めてもらったときのことである。土間に魚を捕る網がおいてあった。その網を何と呼んだかは忘れてしまったが、木の枝で半円形のワクをつくり、それに網を張ったものである。水の中に入って足を使って魚をその網に追い込んで捕ったり、岸辺からおおいかぶさっている草の間をさぐって捕ったりする。しばらくぶりでこの網を見た。
 私の生家にもこの網があり、子どもの頃は小川に入ってこれでドジョウや小鮒を捕って遊んだものである。しかしもう何年も使った事はなかった。農村調査などで農家に行っても見ることがなくなっていた。当然のことである。50年代後半から田んぼにドジョウや小鮒がいなくなってしまったからである。網は使おうにも使えなくなったのである。タニシもいなくなった。イナゴもいなくなった。食べなくなってからもう20年近くにもなっていた。
 そのかわりに、私の大嫌いなヒルはいなくなった。安心して田んぼに入れるようになった。蚊やブヨもいなくなり、朝晩の田んぼで悩まされたかゆさがなくなった。しかし田んぼにいたさまざまな虫や魚が見られなくなったのはやはり寂しい。小学唱歌『朧月夜』(註1)の二番目の歌詞にあった「蛙の鳴く音」も聞こえなくなり、田植えの後の田んぼは静かになったが、あのうねるような蛙の合唱がなつかしく思えたものだった。
 いうまでもなく、これは農薬散布の結果である。農家はこんなことになるとは知らずに使ってきた。しかもこれだけ強力に小動物を殺すのだから人間にいいわけはない。前にも述べたように、マスクをしろ、直接さわるな、散布した日は酒を飲むな等々、普及員等から注意される。それを守っても、さまざまな健康問題が引き起こされる。さらには死亡事故にまでいたる。
 こうしたなかで農薬の毒性が問題にされるようになり、やがてDDTやBHC、パラチオンなどの農薬、PCPなどの除草剤が販売禁止、使用禁止になった。それでそれにかわるさまざまな新しい農薬、除草剤が60年代に開発され、普及するようになった。さらに1971年には急性毒性の強いものや残留性の高いものは農薬として認められず、製造や販売ができなくなった。
 しかしあまりにも強力な農薬使用の影響は大きく、水田の小動物はなかなか復活しなかった。
 にもかかわらず、南遊佐の農家に網があったのである。聞いてみると、最近になって田んぼで小魚が捕れるようになったのだという。昼休み、大学院生たちといっしょにその網を借りて田んぼの水路に入り、足で岸辺の草や泥をかきまわして網に魚を追ってみた。何十年ぶりかである。あげてみたらドジョウが何匹か入っていた。それからみんなで夢中になって捕った。かなりの量になった。泊まっている農家の奥さんにお願いしてドジョウ汁にしてもらった。おいしかった。なつかしかった。でもときどき背骨の曲がったドジョウにぶつかった。農薬の影響がまだ残っていたのだろう。
 50年代から60年代にかけての稲作生産力はこうした水田生態系の破壊という問題も引き起こしたのである。

 農家の朝は早い。明るくなったらもう外に出ている。もちろん冬は仕事が少ないし、日の出もおそいのでゆっくり寝ている。それでも父だけは5時ころ起きてまだ暗いなか外に出る。町にダラ(下肥)汲みに行くのである(註2)。肥桶をたくさん載せたそりを牛に牽かせて雪道に出て行く。7時過ぎに帰ってきて、ダラ桶(肥壺)に人糞尿を入れ、一仕事が終わり、それから朝食である。まさに朝飯前の仕事だ。
 寒い冬の朝、ふと目を覚ますと、父が外で牛を牽きだしている音が聞こえる。何とも申し訳ない気持ちがしたものだった。ダラ汲みが終わって父が帰ってくる。何かホッとする。外に出て見てみると、雪の積もっている小屋の前でそりを牛から外している。牛は真っ白い息を吐いている。牛のかいた汗が冷たい空気に当たって白い湯気となり、背中からもうもうと立ち上る。
 私は寝覚めの悪い男である。夜はいつまでも起きていられるが、朝が弱い。毎朝家内から何回も声をかけられる。返事はするが起きられない。最後には怒られて、ようやく布団から起きあがる。それほどの寝坊でも家族といっしょの朝飯だけは欠かさなかった。そもそも子どものころからそうしたしつけがされており、朝寝などさせられなかったからである。朝飯は家族全員いっしょが原則だった。また、家族がみんな朝早く起きて働いているのに寝ているなどというわけにもいかなかった。同級生が日曜日にお昼まで寝ていたなどというのを聞くとうらやましかった。病気のとき以外、朝起きないで寝ているなどということはしたことがなかった。朝ゆっくり寝てみたかった。それができたのぱ、仙台に来て学生寮に入ってからのことだった。
 こうしたダラ汲みは60年代に入ってなくなった。人糞尿の果たしていた即効性肥料の役割は化学肥料で十二分に果たせるので、苦労してダラ汲みをする必要がなくなったからである。化学肥料は「ダラ汲み百姓」から脱却させてくれた。都市住民からダラ汲み百姓とバカにされることもなくなった。
 80年代に入ったころだろうか、まだ暗い朝の3時頃に自動車をバックさせる警笛の音が近所の家から聞こえてくる。寝静まっていて物音一つしないような静かさのなかにプーッ、プーッ、プーッとその音がひびく。それがほぼ毎朝である。不思議なので聞いてみたら、魚の卸売市場に勤めている人だという。それで疑問は解けたが、たまたま目を覚ましてその音を聞くと、ダラ汲みを、かつての父を思い出して何か胸が苦しくなった。
 もちろんそのころはダラ汲み百姓といっても若い人たちはわからない時代になっていた。このこと自体はうれしかった。ただ田畑から採れたものを糞尿として田畑に返すというリサイクルがなくなっていいのだろうかという疑問は残った。
 しばらく忘れていたのに、またそのことを思い出したのは21世紀、網走に行ってからだった。
 高台にあった私の家からオホーツク海と網走港の一部が見える。時期によってであるが、朝の2時か3時頃、ポンポンポンという発動機の音、そしてゴーッという波を切る音が、この港から聞こえる。窓から見ると、小型の漁船が明るい電灯をつけて何艘も何艘も連なって出て行っている。やがて港は静寂に戻る。この音を聞くと、朝早く起きて働いている人がいるのにぬくぬくと布団にくるまっているのは申し訳ないと思ってしまってなかなか寝付けなくなる。もう半世紀も前のことで本当に昔話になってしまったダラ汲みのことを網走はしばらくぶりで思い出させてくれた。

 化学肥料はまた堆厩肥も必要不可欠でなくさせた。5回前の記事(註3)で述べた高畠町の民間技術指導者の3人は堆厩肥に依存しなくとも化学肥料の施肥や綿密な栽培管理で単収5石(750㌔)は穫れると言い、それとほぼ同時期に試験研究機関の提唱した「V字型多収理論」も同様の論理を展開していたほどである(註4)。
 そうなると不要になるのが稲ワラと糞畜としての家畜である。さらに耕耘機の普及は役畜としての家畜も不要のものとしている。
 かくして耕耘機と化学肥料は稲作と家畜の結合を解体した。そして牛馬の飼育頭数(馬は牛に替わっていたが)は激減し、無畜農家が激増した。ほとんどの農家にあった畜舎は無用の長物となって蜘蛛の巣に覆われるようになり、かつてとなえられた有畜農業はどこかに姿を消してしまった。
 家畜がいないのだから敷きワラや飼料としての稲ワラはますますいらなくなる。
 畦畔などの朝草刈りも必要なくなった。無畜農家ばかりでなく、家畜を飼育している農家も草を刈らなくなった。後に述べるように少頭数飼育ではなくなったために飼料作物をつくるようになっており、あるいは輸入飼料に依存するようになっているから、わずかの畦畔草を手間をかけて刈るなどしなくともよくなったのである。
 それでもときどきは畦畔の草刈りをした。畦畔の雑草から種子が落ちて、田んぼに草が生えるからである。ただし、せっかく刈った草はそのまま放置されるか燃やされた。何とももったいない話である。それでも草を刈ればまだいい。刈らない農家も出てきた。朝草どころか昼草も刈らなくなってきたのである。
 あるとき、さきにも述べた岩手県志和農協の組合長のKHさんに雑談で「畦畔の草を刈っているかどうかで精農か堕農かがわかる」と言ったら、KHさんは頭をかきながら「いやまいった、うちの田んぼの畦草は刈っていない、私も堕農になってしまった」と苦笑いする。よけいなことを言ってしまったものだと後悔してもおそい。それにどう答えたらいいのか私の方こそまいってしまった。
 こうした変化の過程は、稲作生産力が農村外部から供給される資材に、とりわけ石油に大きく依存するようになる過程でもあった。この過程は70年代に入ってさらに加速されることになる。

 オカボって何か知っているかと最近の学生に聞くとほとんど知らない。実は若い頃の私も名前は知っていたが見たことはなかった。初めてオカボ=陸稲を見たのは70年ころで千葉の畑作地帯の調査のときだった。畑作地帯でしか見られないものだったからである。しかも今はほとんど見られない。食味も悪く、収量も低いので80年代以降姿を消してしまっている。だから学生諸君が知らないのは当たり前である。そこでオカボとは陸穂(おかぼ)(註6)、つまり陸稲のことだと説明する。そういうとまた驚く。そこで続ける、なぜ普通の稲を水稲というかを考えてみろ、陸稲があるからそれに対比するためなのだと。するとなるほどというような顔をする。
 この陸稲は東北でも一時期かなり栽培されていた。1965年には普通畑面積の7%にも当たる2万㌶で栽培されている。50年代に1千から2千㌶しかなかったものが10倍以上に増えたのである。しかし、陸稲は水稲よりもかなり収量が低い。それでも、価格の低迷している普通畑作物をつくるよりはずっといい。そこで開田できない畑に陸稲を栽培したのである。
 畑が開田されて普通畑面積が激減し、さらにその少なくなった畑に陸稲が植えられる。このことは普通畑作物が衰退していることを示す。もちろん普通畑作物の作付面積が減っても、水稲作のように10㌃当たり収量が上昇しているのなら、その結果として生産量が減っていないのなら、問題はない。ところがそうではなかった。普通畑作物とそれを機軸とした旧来の輪作体系は60年代に壊滅状態になった。
 つまり60年代の稲作生産力の発展は普通畑作物の衰退とも並行して進んだのである。

(註)
1.作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一 1914(大正3)年
2.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」、
  11年3月11日掲載・本稿第一部「☆「循環型」だった農業」参照
3.11年4月27日掲載・本稿第二部「☆米価の急上昇と農家の増収意欲」参照

4.私の大学時代の同級生で農水省から東大に行ったMA君、同じく同級で青森県農試から大阪府立大に行ったMH君などもその理論の確立に大きく寄与している。なお、MH君は下記の記事にも登場している。
  11年2月28日掲載・本稿第一部「☆北海道入植、南米移住」
5.11年5月9日掲載・本稿第二部「☆農業構造改善事業と大型機械の導入」参照
6.これは私の勝手な当て字であり、本当かどうかはわからない。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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