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消えた麦畑、菜の花畑



               変わり行く生産と生活の仕組み(1)

                ☆消えた麦畑、菜の花畑

 1955(昭和30)年の春のこと、蒸気機関車に牽かれた列車に乗って仙台から東京に向かった。福島県の白河を過ぎて丘陵地帯を越えると関東平野に入る。やがて青々とした麦畑が広がる。東北では何も植わっていない寒々とした田んぼが広がっているのと比べると大きな違いだ。関東平野には田んぼがないのだろうか。畑しかないのだろうか。
 この疑問は夏にまた東北線に乗ったときに解消した。春に麦畑だったところに稲が植えてあった。そこは水田だったのである。要するにあの麦は水田の裏作だったのだ。
 しかし、徐々に麦が見られなくなってきた。そして東北と同じく冬は何も植わっていない田んぼが広がるようになった。
 前に述べたように、50年代後半には東北の麦作はほぼ壊滅しており、麦畑のなかからひばりが飛び立って青い空高く消えていき、啼き声だけがピーチクピーチク聞こえてくる、こんな情景が見られなくなっていたのであるが、それが麦の適地の関東にまで及ぶようになったのである。
 このころ生まれた子どもが育って大学に入ってきたころ、学生に聞いたことがある、麦を見たことはあるかと。麦は知っていたが、見たことはないという学生がほとんどであった。農家に生まれた学生でさえそうだった。農学部の学生が、農家生まれがこんなことでいいのかと怒りたかったが、怒るわけにはいかなかった。田畑に麦がないのだからしかたがないのである。それでもさすがに「米麦(べいばく)」を「アメリカむぎ」と読む学生はいなかつた。そう読んだ方が正しいのかもしれなかったのだが。
 日本の主穀物だった米麦のうち麦はなくなったと言っていい状況になってしまったのである。麦の需要がなくなったのであればこれもやむを得ないであろう。しかし国内の需要は増えている。にもかかわらず壊滅状態になる。まさに奇妙な現象だった。

 麦が消えると同時に、山間部に残っていたヒエ、アワ、ソバなどの雑穀も消えた。ソバ粉は外国からの輸入で売れなくなるし、米が買えなくて雑穀を食べなければならない時代ではなくなったし、さらにそんなものをつくるなら開田した方がいい、あるいは当時増えていた出稼ぎで金を稼いだ方がいいからである。
 大豆も同じである。1977年に北上山地の海岸寄りにある岩手県野田村の調査に行ったとき、農家が65(昭和40)年ころを振り返ってこんなことを言っていた。
「昔からやっていたように販売用・自給用として大豆を50㌃つくっていたがまったく売れない。何とか売っても全部で6万円の収入にしかならずただみたいなもの、自給用の味噌・豆腐にするために大豆をつくっているようなものだった。それで大豆などやめて出稼ぎに行った方がいいということになった。みんなそうだった」
 これも輸入がもたらしたものだが、こうして畑から大豆が消えていった。
 田んぼのあぜ道に植えていたあぜ豆もなくなってしまった。

  「菜の花畑に 入り日薄れ
   見渡す山の端 霞深し………」
 日本の春の情景を歌った小学唱歌『朧(おぼろ)月夜』は、中高年以上の人たちの心に深く刻まれている。ところがこの菜の花畑がなくなってしまった。
 いうまでもなく菜の花の「菜」はナタネ(アブラナ)のことなのであるが、この若い頃の茎葉は直接食用として、成長した後の種実は食用油または灯油(工業が発展してからは潤滑油・工業用油)として、種実を搾った後の粕(油粕)は肥料として、さらに種実をとった後の茎葉は燃料もしくは堆肥として、きわめて重要なものであった。したがって全国各地で栽培されていた。先に述べた三沢のように商品作物として大規模に栽培する農家もあったが(註1)、ほとんどの農家が自給用+販売用としてわずかであってもナタネを栽培していた。そしてその花は『朧月夜』に歌うような日本の春の風景に欠かせないものとなっていた。
 ところが安い食用油の輸入に押されて栽培は激減し、どこに行っても見られなくなった。ピークだった1957年には全国で26万㌶栽培されていたが、40年後の97年にはわずか600㌶、500分の1にまで減ってしまったのである。
 それでもテレビなどで野原や堤防などに大群生している菜の花が紹介されることがある。それを見るとまだ菜の花があると何となくほっとする。しかし、あれは帰化植物のセイヨウカラシナが野生化したものらしい。当然のことながらその実は油にも辛子にも使われていない。あれは作物ではなく、単なる雑草でしかない(註2)。
 また最近あちこちの転作田や耕作放棄地などで菜の花が植えられているが、これは菜の花畑が復活したようでうれしい。しかし心の底から喜べない。そのほとんどは景観植物として植えられているからだ。何も生産しておらず、これでは作物とはいえない。
 そもそも菜の花は生産のために植えられていたものである。つまり菜種油を生産するためのものだった。さらに搾った後の油粕は貴重な肥料として畑に返され、次の作物の生産に役立った。このナタネの生産過程で菜の花が咲き、それが春の田園景観を形成した。このように農作物はすべて生産を通じて農村景観をつくってきた。だから景観は副次的なものだった。
 しかるに最近の菜の花は景観が目的であり、生産とはまったく結びついていない。余るほど食糧が生産され、菜種油も十分に生産されているなら、生産用では余る田畑に景観用の作物を植えてももちろんかまわないし、そうすべきであろう。しかし現実には日本の食糧は不足しており、菜種油は輸入している。それなのに田畑を生産にまわさず、景観形成に用いるなどというのは何かおかしいのではないか。途上国の人々が飢餓で苦しんでいるときにわれわれは田畑を景観用にまわして景色がいいなどと喜んでいていいのだろうか。

 網走に転勤した99年の秋、畑がところどころ黄色に染まっているのを見つけた。菜の花のように見えるが、秋に菜の花などあるわけはない。ところが近寄って見てみるとやはり菜の花である。聞いてみると「キガラシ」と言い、ナタネと同じアブラナ科で辛子やマスタードの原料となるものであるが、ここでは緑肥作物として植えているのだという。そして麦などの収穫が終わった後の畑の地力を回復するために鋤き込まれる。
 緑肥作物といえばヒマワリもそうである。これも畑に植えられて鋤き込まれる。ヒマワリはじりじりと照りつける太陽の下で咲く夏の花というイメージだが、網走では異なり、これも秋の花である。
 網走では春の花の菜の花が秋に咲き、夏の花のヒマワリが秋に咲く。いずれも広大な畑に植えられるので本当に見事である。観光客はこの畑の前で必ずと言っていいほど記念写真を撮る。新婚旅行できたのだろう、女性を畑のなかに立たせ、花に囲まれたその姿を男性が写真にとっている。何ともほほえましい光景だ。
 このようにキガラシもヒマワリもまさに景観作物としての役割を果たしている。輪作体系の一環としてつまり生産のために栽培しているのだが、それが網走の初秋の景観を形成しているのである。だから市も種子代などを助成している。
 しかし、残念ながら、キガラシもヒマワリも食用として利用する事はできない。気象条件からしてまともに実が穫れるまで栽培していることができないからだ。それでもこの2作物は単なる景観作物ではない。緑肥という立派な作物である。
 この立派な作物にナタネを復権させる必要があるのではなかろうか。単なる景観作物になりさがったナタネを本来の農作物、つまり食糧・油糧・緑肥作物として復活させていく必要があるのではなかろうか。最近は利用し終わった食用油を回収してバイオディーゼル燃料を製造・販売し、農機具などの燃料として利用してエネルギーの自給や温室効果ガス排出の削減を図ることも可能となっているが、こうした面からもナタネの復活は見直されなければならない。そして、1960年代以降忘れさせられてきた菜の花畑の風景、日本の原風景、
 「菜の花や 月は東に 日は西に」
このなつかしい情景の復活を図る必要があるのではなかろうか。そして麦、豆、ナタネ等の普通畑作物と野菜等の輪作体系を新たに確立することができないだろうか。
 こんなことを考える今日この頃である。

(註)
1.11年5月11日掲載・本稿第二部「☆水田面積の拡大―開田ブーム―」(2段落)参照
2.その程度ならまだいい、最近はアメリカからきた遺伝子組み換えナタネも見られるとのことである。これだけは何とかしてもらいたいものだ。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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