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貧しい食と厳しい労働(6)



            ☆足踏み脱穀機止まりの機械化

 私の望んでいた農業の機械化のはしりともいえる人力による作業機械の導入は戦前から始まっていた。たとえば足踏み脱穀機である。私が生まれたころにはすでに家にあった。
 棒掛けした稲が乾燥し終わったころの晴れた日、脱穀機が田んぼに運ばれる。母や子どもの私は、棒から稲束を外し、田んぼの真ん中におかれた脱穀機の脇に運び、積み重ねる。脱穀機の下についている板を足で踏んで脱穀機を回している父は、それを一束ずつつかんで、稲穂の方をうなりをあげて回っている回転胴のなかにつっこむ。一秒もしないうちに籾はすべて落ちる。父は一粒の籾も残っていない稲わらを澄みわたった秋空に高く放り上げ、正確に斜め後ろの一定の場所に積み上げていく。それを祖父や母が何十束かずつを一つにきれいにくくりまとめ、田んぼのなかに何段か積み上げていく。
 秋晴れの田んぼに足踏みのグィーングィーンという音、籾粒がはじけてぶつかるパシャパシヤという音がひびく。私たち子どもは稲束のなくなったはざ棒にのぼってまわりを見回し、汽車が遠く走っているのを見たりする。ちょっとひまになればいなごを取る。
 夕方暗くなる頃、籾を入れた南京袋を牛車に積んで帰る。また、稲わらを田んぼにきれいに積み重ねておく。農作業が一段落したころ、この稲わらを牛車に山のように積んで家に運び、小屋に収納する。わらは縄やむしろ、俵、しきわら、堆肥等の原料として、また燃料等の生活資材として当時はきわめて重要なものだったからである。
 この足踏みが動力脱穀機に変わったのは戦後すぐだったような気がする。動力は電力だったので、稲束を田んぼから家に運んできて脱穀するようになった。
 なお、動力の籾摺機、精米機は私が生まれた頃、つまり戦前からあった。近所の農家との共同所有で、わが家の小屋が大きいのでそこに保管していた。利用は持ち回りで、順番を決めて自分の家の小屋に運んで利用する。この共同には小作農も入った。機械精米で米の検査に通った米でないと小作料として地主が受け取らなかったからである。カネがあろうとなかろうと導入して利用せざるを得なかった。戦後もこの共同利用はかなりの間続いていた。

 一九六〇年ころ宮城県内で農家調査をしたとき、「賃摺り業者」という言葉を聞いた。動力籾摺機を持ち、料金をとって農家の籾摺りをやってやることを一つの仕事にしているものを言うとのことだった。さきにも述べたようにどうしても動力籾摺機が必要だが、高価で買えないので、小金をもっているもの(農家である場合もあればそうでない場合もある)が機械を購入して籾摺りを受託する業者が生まれ、そこにみんなが頼んで籾摺りをやってもらうようになったのである。
 家内の実家のある宮城県南の町では賃摺り業者のことを「発動機屋さん」と呼んでいたらしい。石油発動機と籾摺機を持ってきて委託農家の庭に据え付け、籾摺りをするのだそうである。エンジンをかけるために紐を何回もまわし、そのうち大きな音を出し始めるのを家内はおもしろがって見ていたという。山形では電動機だったのだが、宮城県南の方は石油発動機だったようである。移動の簡単さや電力の関係からだろうか。
 私は、共同であれ個別であれ、機械は農家が所有し、利用するものであり、労働力があるかぎり農作業は自分の家でやるものだと考えていた。だからこうした作業の受委託は初めて聞くことであった。しかし籾摺りの受委託という形態はよその地域では普通にみられたのである。
 その後個別所有・利用が普通になったが、このような作業委託の経験が宮城にはあるのだから、九〇年前後に林立したカントリーエレベーターに乾燥調整作業を農家が委託するかと思いきや、宮城県のカントリー利用率は東北一低かった。何とも奇妙に思ったものである。

 機械とまでは言えないけれども唐箕と米選機が普及していた。
 唐箕は、手回しハンドルで羽根車を回転させて起きる風力で、脱穀した籾に混入するわら屑、ごみ、未熟粒を選別する機具である。ちょっと説明しにくいが、これは麦、大豆等の穀物の選別にも使われたものであり、農業博物館などでよく見られる。
 米選機は、籾摺りをした玄米を大小に選別するもので、銀色の細い金属線がすべり台状に斜めにたくさん張り巡らされ、その上から流されてくる玄米のうち十分に熟していない米や砕けた米などが金属線と金属線のすき間から落ち、一定の大きさ以上の米粒だけが残って滑ってくるようにして選別するのである。その金属線を爪で弾くと竪琴に似た何とも不可思議な音がするので、子どもの頃はよくそれを聞いて一人で楽しんだものだ。
 このように人力・動力による作業機の開発が進んでいたが、これはすべて脱穀調整にかかわるものであった。そして耕起・代掻き、田植え、除草、稲刈り等の本来的な作業工程、そしてもっとも苦役的であった労働過程の機械化は進まなかった。つまり、戦前の機械化は、農業労働を軽減するためのものではなく、米を有利に販売したい地主や商人のためのもので、半ば強要されて導入したものだったのである。
 また、足踏みの縄ない機、手動のわら打ち機、俵編み機、むしろ編み機等も導入されていたが、これも本来的な労働過程のものではなく、労働を大きく軽減するものでもなかった。

 農業は草との闘いだった。ちょっとでも放置しておくと作物よりも草丈の方が高くなる。大学院時代、西欧などとは違ってわが国はモンスーン地帯であり、褥耕(中耕)的風土であるということを教わったが、まったくその通りだった。水田の三回にわたる除草、何回かのヒエ抜き、畦畔の草刈り、そして畑の草取りと春から秋まで絶え間がなかった。明治中期から水田用の手押しの人力除草機が普及し、かなり省力化されたとはいえ、ぬかるんだ田んぼを何百回となく往復する労働はきつかった。しかもそれは一度だけであり、後はやはり腰を曲げて除草しなければならなかった。
 もちろん闘わなければならないほど草が生えるということは、それだけ自然条件に恵まれていること、農業生産力が高いことを示すものであり、本来からいうと喜ばしいことである。しかし実際に草取りをする身になれば喜ぶに喜べなかった。
 こうして、せっかく草を取り、田畑をきれいにしても、虫と病気にやられる。しかしこれとは闘うすべがない。草とは過重労働という武器で闘うことができても虫と病気に対してはすべがない。虫などに対する憎しみは激しく、殺しても殺したりないほどの思いだった。

 土壌養分維持のための闘いもあった。農家はわら等の副産物、林野の落ち葉、草葉、家畜の糞尿、生ゴミを始めあらゆるものを肥料にして土地に帰した。
 人糞尿などは最高の肥料だった。自分の家のものでは足りないので都市の人糞尿を求めた。ただし、求めたからといってすべての農家が得られるわけではない。山形市の場合で言えば、牛車で早朝一ないし二時間で往復できる範囲内の農家しか利用できなかった。肥え汲み(山形ではこれを「ダラ汲み」といった)で本来の農作業に差し支えるようでは何にもならないし、汲み取り先の迷惑にもなるので朝飯前に汲み取りを終わらさなければならなかったからである。したがって肥え汲みは都市近郊農家の特権とでもいってよかった。肥桶に汲んできた人糞尿はダラ桶(肥だめ)に容れられ、そこで腐熟させ、田畑に直接もしくは堆肥に混ぜて散布する。それが都市近郊の米の単収の高さと野菜生産を支えた。かつて名著といわれた鎌形勲『山形県稲作史』では戦前の山形市の単収の高さを人糞尿とのかかわりで述べている。また市内はもちろん東京や仙台にも出荷された野菜にとってもダラ(下肥)は不可欠であった。だから農家は争って手に入れようとした。そして汲み取り先の確保のために、米何升かを対価として払うことを汲み取り先と契約して手に入れた。人糞尿は労働の成果物でもないのに価格をもったのである。つまり農家は他人の尻の始末をしてやって、汚い仕事をしてやって、カネを受け取るどころか払う。こんな矛盾した話はない。しかも臭い、汚いと軽蔑され、ダラ汲み百姓と馬鹿にされてだ。
 決まった日になれば、雨の日であれ雪の日であれ、朝まだ暗いうちに起きて牛車、冬は牛そりに肥桶をつけて父が出かける。たまたま目を覚ましていてその音を聞くのがとってもいやだった。父に申し訳なかったからである。

 こうして土壌を豊かにすると、雑草はもっと生えやすくなる。とくに畑がそうだ。草との闘い、腰を曲げた労働はまた厳しくなる。
 田んぼの三回にもわたる除草も大変だ。なかでも三番草は辛いものだった。田んぼを這いずりまわりながら両手で泥をかき回して草を取り、土の中に押し込んだ。夏の暑い日差しは容赦なく背中に照りつけ、目の中に汗が流れ込み、伸びた稲の葉先が目をつつき、目はウサギのように赤くなった。
 除草ばかりではない。田植え、稲刈りなど一日中腰を曲げていなければならなかった。畜力や人力作業機が農業に導入されつつあったとしても、基本的には手労働であり、農業労働は苦役的ともいえるものだったのである。

 子どももこうした農作業の手伝いをさせられた。農家の子どもが働くのは当時は当たり前だった。

 (次回から、戦前の働く農家の子どもたちについて述べる)。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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