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選択的赤字拡大


               変わり行く生産と生活の仕組み(2)

                  ☆選択的赤字拡大

 国内の普通畑作物やその加工品に対する需要は外国からの輸入によって激減したが、野菜、果実等の生鮮食料については国産に対する需要はあり、それなりの価格がつく。たとえば大豆は売れなくなっても枝豆は売れる。当時の為替相場と輸送・貯蔵技術の未発達のもとで生鮮軟弱野菜等はまだ輸入されていなかったからである。
 もしも何とか畑を利用して所得をあげようとするなら、そうした野菜等の作物に力を入れるより他ない。
 さらに当時は生乳や肉の輸入も困難だったし、需要も伸びていたので、畑に飼料作物を栽培して用畜を導入する道もある。
 政府も、麦・豆などに替わるものとして野菜、果樹の生産拡大を勧めた。また、役畜に替わるものとして肉、乳、卵等の生産、つまり用畜の導入と拡大も勧めた。政府はこれらの作目・部門を「成長農産物」と呼び、この「選択的拡大」を推奨しようとしたのである。
 このように野菜・果実・畜産に力を入れることそれ自体はまちがっていなかった。高度経済成長下での都市勤労者の増加、肉体労働が少なくなり、狭い場所で一部の神経のみを酷使させるように変わってきた労働様式、厳しい通勤ラッシュ、狭い住宅と軽労働化した家事、そして所得水準の上昇等々は、野菜、果実、畜産物等の需要を増加させるものなので、それに応える必要があったからである。なお畜産物については、前にも述べた食の欧米化の推奨、欧風化しなければ文化にあらずというような風潮、欧米式の生活スタイルへのあこがれ等も需要増の一因とはなっているが、ともかくこの生産拡大に取り組む必要はあった。
 ただ、麦、大豆等に替わるものとしていわゆる成長農産物のみを選択的に拡大しようというところに大きな問題があり、70年代後半の世界的な食糧危機のときにその欠陥がさらけだされることになる。さらに80年代後半からは成長農産物と言われたものも輸入で苦しめられることになるのだが、それはとりあえずおいておく。
 ともかく農家は、売れないあるいは低価格の普通畑作物をやめ、稲作に力を入れると同時に、成長農産物の導入と拡大に取り組んだ。平場では野菜、果樹、中小家畜、中山間地帯では工芸作物、大家畜、菌茸類等の導入と規模拡大に走ったのである。また農家は、後で述べるような自給生産の解体で過剰になった労働力を何とか農業生産で燃焼させ、所得を拡大しようというような面からも選択的拡大に取り組んだ。

 しかしなかなかうまくいかなかった。
 果樹を例にとれば、西日本はミカン、東北を中心とする東日本はリンゴの導入と拡大に取り組んだが、1963(昭和38)年に競合果実のバナナが自由化されて大量に輸入され、スーパーの目玉商品として売られるようになった。ろくに食べたことのなかった子どもたち、20年以上も思いっきりたべていなかった大人たちは喜んでバナナを買って食べた。当然リンゴの需要は落ちる。そこにリンゴの豊作が重なるとリンゴの価格は急落することになる。68年には、そうした状況に加えてミカンが大豊作となったために、買い手の付かないリンゴが大量に発生した。そしてそれは川に投棄され、あるいは山に野ざらしにされた。川はリンゴで赤く染まり、山には赤い山が築かれたという。こうしたようすからこの年のリンゴの相場は「山川相場」とか「山川市場」と呼ばれた。

 選択的拡大のもう一つの大きな柱であった畜産について言えば、豚や鶏、乳牛、肉牛を新たに導入したり、拡大したりした農家があった。豚の場合は輸入飼料とデンマーク式豚舎飼育で、鶏は輸入飼料を基礎とするケージ飼育で規模を拡大した。酪農家は草地造成や畜舎の増築でやはり規模拡大に取り組んだ。
 しかしこんな言葉が当時農村で流行った。
「豚はトントン、牛・鶏はモウ、ケッコウ」
 この言葉からわかるように、それも必ずしもうまくいかなかった。そして選択的拡大は「選択的赤字拡大」だとまで言われた。
 宮城県内のある農家が言っていた。
「豚は米を食って、牛は田んぼを食ってしまった」
 赤字をかかえて田畑を手放さなければならない経営まで出てきたのである。それですめばいい。命まで手放した農家もあった。
 69年、福島県浜通りで2千羽飼育(当時としてはきわめて大規模だった)している養鶏農家を訪ねた。彼はこう言った。
「朝、コウコウと鶏が鳴くのを聞くたびに今日も一日6千円(当時としては大きな金額だった)損かと思うと、布団から起き上がる気がしねえ」
 さらに続けて笑って言う、
「そのうち鶏が賽の河原でコーイコーイと呼んでいるように聞こえるようになった」
 実際に山ほどの借金をかかえて自殺する農家さえ出てくるようになった。

 1970年の1月、稚内の酪農の調査が終わって札幌に行く夜行列車に乗った。少し経ってから窓の外を見ると真っ暗である。町を過ぎて林野にでも入ったのであろう。そのうち、暗闇のなかにぽつりぽつりと電灯が見えてきた。平坦農地の地帯に入ったのだろう。そしてあの灯りはきっと酪農家だろう。この辺は酪農地帯だからだ。ともかく家がある、人がいると思うとほっとする。
 こんなことをたまたま北海道の農協職員に言ったらこう言われた。
 電灯が点いていることが人がいることを示すとは限らない。電灯をつけたまま夜逃げする酪農家もあるからだ。隣りの農家もそのことに気がつかない。家が遠いのでいつもめったに顔をあわせないから電灯が点いていれば人がいるものだと思っている。そして1ヶ月もたって初めて夜逃げしたとわかることもある。この夜逃げはいやおうなしの規模拡大のつけのせいだ、こう言うのである。
 こうした状況は東北でも同じだった。50年代後半に1~2頭飼育で酪農を始めたのだが、乳価は60年代の高度経済成長下での急激な諸物価の上昇に追いつかず、労働報酬は他産業労賃の上昇に追いつかなくなり、経営は苦しくなってきた。
 この乳価の低迷は脱脂粉乳や乳製品等の輸入に起因するものだった。
 60年代後半、コーヒー牛乳とかフルーツ牛乳とかの色物牛乳、また濃縮牛乳とかの名前のついた加工牛乳が大量に出回った。色物牛乳は甘かった。濃縮牛乳は栄養がありそうに思えた。ところがこれには日本の酪農家が生産した牛乳が一切入っていなかった。それどころかまともな牛乳は一滴も入っていなかった。輸入された脱脂粉乳、乳糖、カゼイン、バターもしくは植物油脂を混ぜ合わせてつくった還元乳・合成乳だったのである。こうしたインチキ牛乳が飲用牛乳販売量の4割を占めた。そればかりではなかった。普通の市乳にも10~25%の脱脂粉乳が入れられていた。しかし消費者はすべてまともな牛乳だと思って飲んでいた。「牛乳」と書いてあるからである。
 もう一方で、学校給食では日本の酪農家の生産した牛乳はまったく用いず、補助金付きでまずい輸入脱脂粉乳を牛乳として子どもたちに飲ませた。
 このように日本政府の援助のもとにアメリカの脱脂粉乳が大量に輸入されていたことが、そして乳業資本がその脱脂粉乳などの安い輸入原料でつくったインチキ「牛乳」を大量に高く売って大もうけをし、また全国の子どもに学校が脱脂粉乳を飲ませたことが、まともな牛乳の消費量を減らし、牛乳が過剰なのだからやむを得ないと言って生産者乳価を抑えたのである。
 こうしたなかで、酪農家は酪農をやめるか、1頭当たり収益の低さを多頭化によって補うかの二つの道のいずれかを選ばざるを得なくなった。
 これに対して政府は多頭化の道を勧めた。そして1960年当時は、4頭以上飼育すれば他産業並みの所得が得られるとした。そこで農家は必死になって多頭化した。しかしそれでも経営は成り立たない。すると政府は、10頭以上でないと他産業並みの所得が得られない、そこまで規模を拡大しようと60年代後半になって言う。しかし10頭以上にするには畜舎の大幅な増改築、乳牛の購入が必要となる。さらには土地も必要となる。しかしそのために必要となる膨大な資金を自己資金でまかなうことはできない。当然借金が増加し、支払い利子は増える。そればかりでなく、固定資本の減価償却費や飼料代等の流動資本も多くなる。それで一頭当たり所得が減少する。それを補うためには頭数の拡大しかない。そうすると労働が過重となる。また生乳の保存、衛生等も問題となってくる。それを解決するには機械・施設の高度化が必要となる。それを導入するとまた所得率が低下する。生活費をまかなうためにはまた頭数を増やさなければならない。やめればこれまでの借金を返せない。いくら政府や農協の長期低利資金といってもそれが累積しているからである。やめようと思えば夜逃げしかない。拡大か夜逃げか、どちらを選択するか。
 やむをえず規模拡大する。しかしこの拡大はいつやめることができるのだろうか。それはまさに「ゴールなき拡大」であった。
 当時の酪農家は自分たちの酪農のことを「かっぱえびせん酪農」と称した。当時流行った「やめられない とまらない かっぱえびせん」というテレビのコマーシャルと同じで、いつまでたっても拡大がやめられない、とまらないというのである。
 これは養豚も養鶏も同じだった。しかし飼料作物の規模拡大は土地の限界からしてできない。そこで輸入飼料依存の施設型畜産で「ゴールなき拡大」を進めていくより他なかった。
 こうした苦労のなかで家畜の飼育頭数が増えていく一方で、せっかく導入した家畜の飼育をやめる農家も増えてきた。もう役畜・糞畜はいなくなっていたから、家畜を飼育するのは本当に一にぎりになってしまった。農家の暮らしは家畜の飼育とほぼ完全に分離したのである。

 このようなさまざまな問題をかかえ、また苦労をしながらも、農家はそれを乗り越えて新しい作目・部門を発展させようと努力し、新しい技術を導入しようと挑戦した。たとえば山形庄内や宮城仙北などの米単作地帯では養豚、養鶏の導入に力を注ぎ、青森、秋田・山形の内陸では果樹の振興に、北上・阿武隈丘陵では工芸作物、酪農などの導入・拡大に取り組んだ。
 まさに60年代は、本格的な畜産の始まりを告げる年代であったし、野菜、果樹等の新たな発展の展望も開け始めようとする年代であったし、さらに機械化段階が本格化する年代でもあった。
 しかし、旧来の作物生産とその作付け体系、そして畜産の飼育形態が大きく変化し、水稲単作化を始めとする経営の専門化・単一化が進み、その欠陥が現れ始めつつあった年代でもあった。
 そこで次の年代の課題となるのが、こうした新しい取り組みを推進しながら、経営の単一化の欠陥の克服や伝統的な麦・豆等の生産の復活なども進めて、いかに生産力の全面的な発展を図っていくかであった。しかし、農産物の輸入自由化が急激に進められつつあるなかで、その課題の達成はきわめて難しいだろうことが予測された年代でもあった。
 なお、60年代は、旧来の自給自足的な生産と生活が消えてしまい、さまざまな問題が引き起こされた年代でもあった。そもそも大豆やナタネがなくなるということは農家がこれまで加工して自給してきた味噌や油の生産もなくなることだったのである。それ以外にも自給生産は村から家から姿を消していった。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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