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自給生産の壊滅


               変わり行く生産と生活の仕組み(3)

                  ☆自給生産の壊滅

 少なくとも1950年代までは自分の家で食べるだけの量の味噌をどこの農家もつくっていた。
 大きな釜で煮た豆をこれまた大きなたらい桶に入れ、わら靴をはいて踏みつぶし、麹と塩を入れて樽に移し、保存する。これが私の生家での年に一度の行事だつた。
 もちろん大豆は自分の畑でつくるし、麹も自分の家でつくる。蒸し上がった米に麹菌を入れ、小屋(納屋と言うのが一般的なのかもしれないが、私の生家のある地域ではそう呼んでいたので、これからもそう呼ぶことにする)に敷いたむしろに広げて発酵させる。何日かするとむしろから暖かく甘い匂いがしてくる。一つまみ手にとって口に入れてみる。たいして甘くないが、砂糖など甘いものが少ないときはおいしいと思ったものである。
 私の生家ではできあがった味噌を1年くらい寝かせて食べる。だから白味噌である。味噌汁は好きだが、よその家でごちそうになる味噌汁はうまいと思わなかった。母の実家などでは3年以上もおいた黒みがかった味噌だが、どうしても好きになれなかった。このように自分の家の味噌が一番うまいと思うことを「手前味噌」と言うことは大きくなってから知った。
このように味噌は自給だが、醤油(「たまり」と呼んでいた)は近くの八百屋から買っていた。一升瓶を持って買いに行くと、柄のついた四角い木製の一合枡や二合枡で量って何回か漏斗(じようご)を通じて瓶に入れてくれる。
 食用油は自分の家でつくったナタネを搾ってつくった。なお、大豆を搾って油をつくったという記憶はない。よく四合瓶を持たされて八百屋に油買いに行かされたが、それはナタネ油より安い大豆油(満州や朝鮮から大豆が安く輸移入されていた)だったのではないかと今は考えている。たらりたらりと黄金色の液体が枡から漏斗を通じてゆっくり垂れ落ちて瓶に入るのがおもしろく、じっと見ていたものだった。
 私の生家ではこうしていたのだが、味噌はもちろん醤油や食用油等々すべて自分の家で加工し、自給している農家もあった。
 たとえば、味噌を搾って醤油をつくっている農家があった。戦時中の醤油不足のとき祖母がつくったこともあった(この醤油が本来の「たまり」なのだと子どものころ聞かされたことがある)が、甘ったるくてあまりおいしいとは思わなかった。
なお、私の生家では豆腐は近くの豆腐屋から買っていたが、地域によっては豆腐も自給していた。それがわかったのは、1960年ころ、戦前の農民運動の調査で宮城県の不動堂村(現・美里町)に通ったときであった。貴重な資料を写させてもらいに(当時はコピー機などなかったから手で書き写した)、またいろいろな話をおうかがいするために、ある農家に何回も通わせてもらったのだが、冬のある日お訪ねしたとき、小屋から湯気が出ていてそこで何かつくっていた。何かと思って聞いたら豆腐だという。それを夜に凍らして凍み豆腐(凍り豆腐)をつくるのだそうである。売るわけではなく、自給用だという。帰りにおみやげにもらったが、とってもおいしかった。この農家は特別なのかと思ったら、どうもそうではないらしい。かなりの農家が豆腐を自分の家でつくって食べ、冬には凍み豆腐をつくっていたようである。宮城県南に住む家内の母も冬だけ凍み豆腐をつくっていた。形は悪かったがうまかった。

 梅干しも自分の家でつくった。梅雨の晴れ間のある日、太陽がカッと照りつけて急に蒸し暑くなり、くらくらとめまいしそうな気分で学校から帰ってくると、庭に棚がつくってあってそこにござが敷いてあり、その上に去年庭の梅の木から採って漬けておいた梅干しが並べて干してある。梅干しの陽の当たっている側は真っ赤になっているが、裏側はまだ茶色っぽい。それをひっくり返して全部きれいに赤くする。
 塩の白く噴き出した赤紫のシソの葉っぱのなかからからからに乾いたのを選んで口に入れる。塩っぱくて、酸っぱくて、日なたの匂いのたっぷりこもったシソを、顔をしかめながら、つばをたっぷり口の中に出しながら、味わう。このシソの葉っぱの一部をさらに乾かして粉々にし、保存しておいておにぎりにつけたり、ごはんのふりかけにしたりする。梅干しは酸っぱすぎて食べられなかったのにこれだけは食べられたから不思議だ。
 どこの家にも梅の木が一本あり、梅干しをつくっていた。

 柿の木もほとんどどこの農家にもあった。晩秋になると柿もぎ、渋抜き、干し柿つくりの仕事が待っている。甘いものがなく、お菓子など高くて買えなかった時代、柿は本当に甘かった。戦争中から戦後にかけては、干し柿にするときに剥いた皮も干して食べた。これも甘かった。
 もったいないので実をすべて取り尽くそうとするが、どうしても取りきれなくて残る。冬、真っ白な雪で埋まった村に行くと、農家の庭の柿の木の黒い枝に、取り残した柿の実が一つか二つ、上に雪の帽子をかぶって真っ赤に熟してぶらさがっている。何とも美しく、また寂しい風景だった。
 網走にいるとき、秋田の若美町(現・男鹿市)の農家の方が自分の家の庭にある渋柿を採って段ボール一箱送ってくれた。家内は早速焼酎で渋抜きをし、知り合いの奥さん方にもごちそうした。ところがその奥さん方のほとんどは渋抜きということがわからない。説明をすると驚く。そして渋柿は干し柿にして食べるもので、生で食べる柿はすべて甘柿だと思っていたという。売っている甘い柿の大半はそもそも渋柿で渋抜きしたものだとは知らなかったのである。何とまあ常識がないということになるが、考えてみたら北海道には柿の木がなく、これもしかたのないことだった。そこからいろいろ話になり、ある奥さんがこんなことを話したという。
 高校で府県に修学旅行に行ったとき柿の実が赤くなっているのを初めて車窓から見て感激し、ぜひこのきれいな風景を家族に見せたいと写真に撮った、帰って現像してみたら、当時は白黒写真なので柿の実がよくわからず、全然つまらない写真になってがっかりしたと。そうだったのだ、北海道にはこうした柿の木のある風景はなかったのだ。もちろんそのかわりにまた別のすばらしい農の風景があるのだが。

 かつてはどの農家の庭にも実が食べられる木が植えてあった。今述べた梅、柿以外にも栗、梨、スモモ、ナツメ、グミ、スグリ、ザクロ、カリン等が植えられていた。サクランボやリンゴを植えている家もあったが、それは明治以降に植えたものである。それらは売るためではなく、自分の家で食べるものとして必ず植えるものとされ、飢饉の時にはもちろん平年でも自分の家の重要な食糧、栄養源となった。もちろん土地・気象条件や庭の広さなどですべての果物を植えるわけにはいかなかったが。

 どこの家でも鶏を飼っていた。農家の庭で遊ぶ鶏の姿は農村の風物詩だった。卵を買いに来る商人が来れば売り、本当にたまにだが自分の家でも食べた。卵を産まなくなった鶏は潰されて肉が食卓にあがることもあった。
 山羊を飼ってその乳を飲んでいる家もあった。前に述べたが、私などはその山羊の乳で育った。
 羊は、とくに戦後、普及員に勧められて、多くの農家が飼育した。毛糸不足だった時代なので、羊毛を刈って毛糸をつくり、自分の家で着るためである。
 稲作地帯の農家といえども必要な野菜は自分の家の屋敷畑などでつくっていた。漬け物ももちろん自分の家で漬けた。野菜や漬け物を買うなどと言うことは考えもしなかった。
 自分の家で必要なもの、そして自分の家でつくれるものは、ほぼすべて自分でつくっていた。農家はいわゆる自給自足を基本としていた。自分の家でつくれないものだけやむを得ず買うだけだった。

 しかし、こうした自給生産は、1960年代以降壊滅した。
 味噌や豆腐、食用油、梅干し、漬け物などの自給的な農産加工は、外国からの安い輸入で原料の農産物がつくれなくなったために、また輸入農産物を中心に大量生産する食品工業が成立したために、ほぼ完全に駆逐されてしまった。農家に必ずあった農産加工部門は壊滅したのである。
 いつのころからか柿の実は秋になっても収穫されず、実がたくさんなったまま放置されるようになった。だから、真っ白な雪で埋まった村に行くと、農家の庭の柿の木の黒い枝に真っ赤に熟した柿がたくさんぶらさがり、からすなどの鳥が真っ黒になるほど枝に止まって食べている風景に変わっていた。何とも賑やかな風景になったが、何か荒廃を感じさせる風景だった。そのうち、その柿の木もなくなった。何の役にもたたないので伐ってしまったのだろう。飢饉のときなどのために必ず庭に食べられる実のなる木を植えておくという風習はどこかに忘れられてしまった。
 かつてどこの農家にもいた鶏、庭で遊んでいた鶏の姿は見られなくなった。後に述べるような安い輸入飼料によるケージ養鶏の産む卵に太刀打ちできなかったからである。残飯養豚もなくなった。やはり輸入飼料で飼育される多頭飼育の豚には価格面でかなわなかった。山羊も羊もいなくなった。多頭化した酪農家の牛乳、脱脂粉乳、輸入羊毛や化学繊維にはかなわなかったからである。

 田植えや稲刈りの農繁期には小昼(こびる・昼食と夕食の間、または朝食と昼食の間にとる軽い食事)が必ずある。その時出されるのは自家製の漬け物や煮物、それにお茶だった。たまには地場産の果物や菓子など購入したものやもらい物も出されたが、基本は自家製であった。しかしそれは輸入小麦を使ったコッペパンやお菓子、果汁などほとんど入っていないジュースなどの清涼飲料水に変わってきた。忙しいときはインスタントラーメンで昼をすませる農家さえ出てきた。
 稲作農家は、麦・豆ばかりでなく野菜もつくらなくなった。ほとんどの畑を開田したからである。酪農家も畑のほとんどを飼料畑化したために野菜をつくらなくなった。そして野菜や漬け物を買うようになつた。

 自分の家で生産できるのによそから買うのは馬鹿らしい、永年にわたって引き継がれてきたこんな自給生産の考え方は徐々に通用しなくなり、また消え失せて行ったのである。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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