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消えたわらの文化



               変わり行く生産と生活の仕組み(4)

                 ☆消えたわらの文化

 『わらしべ長者』という民話がある。この話は稲わら一本たりとも粗末に扱うな、どんなにつまらないものでも大事にしろと子どもたちに教えている。しかし、かつて稲わらはつまらないものなどではなかった。きわめて貴重なものだった。だからこの話は稲わらの大事さを教えているものでもあると私は考えている。
 稲わらは農家の生産資材として、生活資材として必要不可欠であると同時に、都市住民の生活や商工業でも不可欠のものとして広く利用されていたのである。北海道の入植者が米をつくりたいと念願し、またつくろうと努力してきたのは、主食としての米の確保のためだけでなく、それ以上に生産・生活資材としての稲わらの確保が目的だったとさえ言われている。
 そしてこのわらを原料とした製品の加工、つまりわら仕事は農家の大事な就業機会だった。雪国の冬は田畑の仕事はなくなって閑になるが、この農閑期にわら加工という農村家内工業に従事していた。そうした面からも稲わらは重視されたのである。

 わら仕事にはさまざまあるが、その根幹をなすのが縄綯い(なわない)である。
 縄は、結わえたり、束ねたり、背負ったりするときの紐として、稲作ばかりでなく、畑の作業を始めあらゆる農作業に必要不可欠であり、また俵や草履などの他のわら工品を編んだり、組んだりするときの材料としても必要だった。いうまでもないが、生活にも縄は欠かせない。また縄は、都市住民や商工業者の荷造り、結束等々でも不可欠だった。
 したがって、冬の間につまり本格的な農繁期になる前に、一年分の縄を綯(な)っておかなければならなかった。また販売用としても生産した。だからけっこう大変だった。子どもも手伝わされた。
 小屋にむしろを敷き、そこに座ってまずわら打ちをする。太い木の幹を輪切りにした台にわら束をのせ、それを少しずつねじりながらわらがやわらかくしなやかになるまで木槌でたたくのである。子どものころは力がないので、それは父か祖父にやってもらった。そのわらを何本か両手に取り、手のひらで摺り合わせて縄にしあげていく。用途によって縄の太さや長さ、精粗さをいろいろ変える。もっとも細くてきれいで丈夫なのはわらから芯のミゴを抜き取って綯ったミゴ縄であった。
 夜なべ仕事になって、寒い小屋から引き上げ、家の土間のいろりの近くにむしろを敷いて父や祖父が縄綯いをすることもあった。薄暗い電灯の光がやっと届く土間から、トントンとわらを打つ音がする。しばらくしてカシャカシャと縄を綯う音が聞こえてくる。これが繰り返される。いくらいろりの近くとはいえ土間は寒いのだが、小屋よりは暖かいだろうと思うと、また父や祖父が近くにいると思うと、何となく安心で、縄綯いの音を聞きながら寝床に入ったものだった。
 私が小学校に入る前、1940年ころのことだと思うのだが、足踏式の縄綯い機(製縄機)と手回しのわら打ち機が入った。どんなものか言葉だけで説明するのは難しいので省略するが、これは速かった。戦後は電動式となり、子どもでも簡単にできるようになったが、縄綯い機のスピードに合わせて左右にある機械の穴に代わる代わるわらを挿入するのはけっこう大変だった。これでできる縄は少し太くて粗く、一般的に使えるものだが、用途によってこれではだめな場合があり、そうした縄は今まで通りに手で綯った。
 次に菰(こも)編みがある。これは細縄でわらを編んでむしろのようにしたもので、俵の主材料として、あるいは梱包、被覆に用いられる。夜の寒さを防ぐために夕方温床にかけたのもこの菰だった(註1)。菰は俵編み器(菰編み器ともいうが、菰つくりの重要な目的が俵つくりなので、俵編みと呼んだのだろう、また俵編み台と呼ぶところもあった)という道具でつくる。やはり小屋で俵編み器の前にむしろを敷いて座り、左右の木の脚で支えられた1.5㍍くらいの長さの横木4箇所に木のコマをつけた細縄を吊り下げ、横木の上に乗せたわらを順次その細縄で縦に織っていくというものであるが、これも言葉で説明するのは容易ではない。農業博物館などで現物を見てもらいたい。子どもの頃はこれを編むのを見るのが面白かった。
 それから俵つくりである。今述べた菰をつないで円柱をつくり、その両端に当てるつまり上と下の底をふさぐ円いふた(桟俵・さんだわら)をわらと縄で編み、その二つを最後につなぎ合わせて俵とするのである。この俵も次年度収穫する米や麦、雑穀の容れ物として編んでおかなければならない。
 むしろ編みもある。これも俵編み器と似ている編み器を使って細縄を縦糸にしてわらを編んでつくられるが、むしろは敷物用、梱包用、被覆用として生産・生活両面で利用される重要なものだった。なお、穀物などの容れ物の叺(かます)はこのむしろを二枚折りにしてつくったものである。
 さらに草履(ぞうり)、草鞋(わらじ)などの履き物をつくる。田畑ではこれを履いて作業をした。地下足袋はすでにあったが、高価なのでやはり草履、草鞋が中心だった。何日も履いていると擦り切れるので何足もつくっておかなければならない。私たち子どもも作り方を教わった。細縄二本を草履作り台または足の指にひっかけて四本になった細縄にわらを編み込んでいき、最後に鼻緒をつける。鼻緒をつけるのが難しく、ましてや不器用な私がつくるので、本当に不格好なできだった。もう忘れてしまったのでつくることはできなくなっているが。
 履き物としてはわら沓(ぐつ)もあるが、私が小さい頃は味噌造りのとき大豆をつぶすために使う程度だった。
 なお、古い俵を半分に切り、それぞれの半俵に縄をつけた雪沓があった。雪が深く積もった朝、祖父や父がその二つの半俵にそれぞれ脚を入れ、縄を手に持って半俵をかわるがわる引き上げながら、雪を踏んで道をつけ、私たち子どもが通学できるようにしてくれた。
 雨具としての簑(みの)もわらでつくられるが、私の家ではつくらず、どこからか知らないが売りに来る農家の方から買っていた。前にも述べた(註2)が、蓑は雨や寒さの中での農作業には欠かせなかった。
 それから容器兼運搬用具である「はけご」も編んでおく必要がある。これは山形独特のもののようだ。他の地方で見たり聞いたりしたことはないからである。前にもちょっと触れたが(註3)、「はけご」とはわらで編んだ籠で、手提げ、腰提げあるいは背負い籠として用いられるものである。大小さまざまあり、用途や容れるものの大小、使う人の身体等に応じて使いわける。わらでできているために軽くしかも柔軟で、閉じたり開いたり、膨らませたり縮めたりが容易にでき、非常に便利なものだったが、今はほとんど見られなくなっている。なお、竹や蔓でつくったものをはけごと言っている地域もあるようだが、わらで作ったはけごとはその形状がちょっと違う。と言ってもその形状を説明するのはきわめて難しい。現物がどこかに残っていないだろうか。
 また、養蚕の飼育道具(これについては後に述べる)、牛馬の沓(くつ)もわらでつくった。
 その他、赤ん坊を入れておく「えずこ」(註4)、釜敷き・鍋敷き、おひつに入れたご飯を保温する入れ物(普通こうしたわらでつくった入れ物は「ふご」と呼ぶのだが、これに関しては別の呼び名があったのではなかろうか、忘れてしまった)等々の身のまわりのものもわらでつくられた。
 こうした大小さまざまのわら工品は、必要なだけ自分の家で作って使うのであるが、労働力の事情やわらの必要量等からよその農家から購入する場合もあった。逆に、余剰分を都市住民や商工業に販売もした。販売を主な目的として、他の農家からわらを購入までして、大量につくる農家もあった。わら工品は都市住民の生活資材、商工業等の生産・流通のための資材として不可欠だったからである。そしてそれらは町場の雑貨屋などで売られていた。

 わら工品の原料としてばかりではなく、さまざまな用途でわらは使われた。
 まず、作物の生産に不可欠な養分の補給材料としての堆肥の原料として使われた。山野草なども堆肥にしたが、雑草の種子などが含まれていない稲わらは堆肥の最良の原料だった。
 また、自分の家の牛馬の重要な飼料として、また畜舎の敷きわらとしても利用した。その結果として出てくる汚れた敷きわらと糞尿は厩肥として堆肥とともに田畑に散布されたが、厩肥は養分があるのでとくに地力の消耗しやすい畑に投入された。
 さらに、稲わらは保温・保湿・雑草抑制のための被覆材料としてそのままの形で用いられた。野菜等の幼苗をわらで覆って保護するなどはその典型であった。稲わらは畑作を支えるものでもあったのである。
 わらは煮炊きの燃料にもなり、その灰は田畑に肥料として散布され、後に述べるように生活においてもさまざまな部面で利用された。
 それから、畳、ござ、壁塗り、冬の雪囲い、わら葺き屋根の材料として、たわしの代わりとして、納豆など食べ物を入れる「つと」として、さらには子どもたちの縄跳びなど遊び道具としてもわらが使われた。ともかくあらゆる面でわらは用いられた。
 このように稲わらは農家にとってはもちろんのことすべての日本人の生産と生活に不可欠のものであった。わらは暮らしの基礎だった。日本の文化は「わらの文化」だったのである。だから注連縄(しめなわ)などとして神々への祈りのさいに稲わらが使われたのであろう。

 しかし、60年代以降、生活必需品であったわら工品は工業製品におきかえられ、わら仕事をするなどということはなくなってしまった。
 縄やむしろは化学繊維や輸入綿・羊毛などのさまざまな素材で用途に応じて工業がつくるようになり、俵は紙袋、その他のわらの容器はプラスチック製品、作業用の履き物は地下足袋や長靴、蓑はビニール製の雨合羽等々、丈夫で見映えの良い工業製品におきかわった。また、飼料は輸入飼料、堆肥は化学肥料、被覆はビニールマルチと安価で効率の良い新製品で代替されるようになった。
 かくして稲わらなしでも農家の経営と生活はやっていけるようになった。都市においてももちろん稲わらなしで暮らしていけるようになった。稲わらは、不要物に、ゴミになってしまった。同時に農家の冬場のわら仕事はいらなくなってしまった。
 そしてわら工品は雪吊り縄や注連縄、お土産の民具などでしか見られなくなった。
 こうして、何千年も農家の経営と生活の不可分の一部をなしてきたわら加工部門、そしてわらに基礎をおいた日本人の暮らし、「わらの文化」は消えてしまったのである。

(註)
1.10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」、
  11年3月11日掲載・ 同 上 「☆「循環型」だった農業」参照
2.11年1月21日掲載・ 同 上 「☆機能的かつ貧困の象徴だった野良着姿」参照
3.10年12月17日掲載・ 同 上 「☆本格的な農作業と技能の伝承」参照
4.10年12月14日掲載・ 同 上 「☆子守り―幼い妹の死―」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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