Entries

農村と山村の結合の解体



               変わり行く生産と生活の仕組み(5)

                 ☆農村と山村の結合の解体

 農家はそもそも経営内自給を基本としていた。もちろんすべて自給できるわけではない。たとえば林野がすぐそばにない平坦地帯などでは木を材料とする生産・生活資材の自給はできなかった。
 私の生家がそうだった。たとえば、キュウリやトマト、エンドウ豆等々の栽培にはその蔓をからませたり、まっすぐに伸びるように支えたりする支柱(生家の周辺では「て」と言った)にする柴や細竹が必要となるが、それは近在の山村から購入するより他なかった。野菜を多くつくっていた生家では6~7㌔離れた山麓の農家にそれを頼んでおり、春になると牛車を牽いて行き、2~3㍍の高さに伐ってもらっている柴を一山積んで来たものである。この「て」は何年間か使ってときどき更新するのであるが、もう弱くなって使えなくなった「て」を捨てることはなかった。鉈で30㌢くらいの長さに切って風呂や囲炉裏の燃料の薪にして用いた。「て」は生産資材であると同時に生活資材ともなったのである。まさに再利用であり、無駄がなかった。
 また、農産物の輸送・出荷用の木箱も山村から購入する。私の生家ではリンゴ箱よりも少し小さい木箱を購入し、それにトマトやキュウリなどを入れて東京や仙台に出荷していた。ただし箱として完成したものを買うのではない。箱になる寸前の板を購入し、それを農家が釘を打って組み立てるのである。つまり、間伐材や製材のさいに出てくる端材からつくられたものであろう、幅は不揃いだが一定の長さに切られた2種類の板が、きちんと箱が組み立てられるような枚数だけ、ひとくくりになっている。それを組み合わせて釘をうち、収穫してきたトマトなどを入れて、ふたをする。この箱つくりが子どもたちの夏の夕方の仕事だった。
 野菜出荷用としては炭俵も山村から購入した。山村では萱刈り場から刈ってきた萱で炭を容れる炭俵を編むが、私の生家や近くの農家は秋になるとそれを共同購入し、それに白菜を畑で詰め、駅に運び、汽車に乗せて東京などに出荷したものだった。
 次に薪炭である。 囲炉裏やかまど、風呂の燃料となる薪、火鉢や七輪、こたつなどに使う炭も必要であるが、平場ましてや都市近郊でこれを自給生産することはできないので、山村で生産した薪炭を購入する。農家ばかりではない。都市住民も燃料としての薪炭を必要とした。一部にガスが入っているところもあったが、やはり必需品だったのである。当然それは山村から購入する。
 わらびやぜんまい、きのこ、たけのこ等の山菜も、近在の山村から売りに来る農家から買ったり、自家の農産物と交換したりした。
 その他に木工品がある。山形市では、前に述べた1月10日の初市(註)で、近郷近在の山間部の農家の人たち手作りの臼や杵、まないた、木槌、はしご、鍬の柄などの木工品、林産物を利用した簑や笠、ざる、かご、ほうきなどの細工物を買ったものである。つまり、こうした木工品、細工物は山間部の農家の家内工業の製品だった。なお、新暦以外に旧暦の1月10日にも初市が開かれたが、そのときには主にこうした木工品など伝統的なものが売られていた。
 もちろん、桶や箪笥等の精密な木製品は桶屋さんや家具屋さんが山村から購入した木でつくったものを買う。なお、宮城や福島などでは娘が産まれると畑のわきなどに桐の木を一本植えるという。そして嫁入りの頃にそれを伐り、家具屋さんに頼んで箪笥をつくってもらい、嫁入り道具にした。原材料としての生産であるが、まあこれも自給生産の一種と言っていいだろう。家内が産まれたときも植えてもらったが、そのまま忘れていたら下駄屋さんから譲ってくれと言われ、桐下駄の材料になってしまったとのことである。
 いうまでもないが、家を建てたり、直したりするときの木材は、もちろん大工さんを通じてであるが、山村から購入する。
 このように都市はもちろんのこと平場農村は山村があって生産と生活がなりたち、山村は都市や平場農村との売買があってその生産と生活がなりたっていた。
 いうまでもなく山村といえども、ほとんどの人々が農業をいとなんでいる。山間(やまあい)の零細な田畑を耕作しながら、山林から薪炭、木材、山菜、木工品等を生産して生計をいとなんでいたのである。したがって彼らも農家であり、山村も広い意味では農村である。そうすると、かつての農業は経営内自給と同時に農村内自給で成り立っていたということになる。

 60年代以降、こうした林産物もわら工品とほぼ同じ運命をたどった。野菜の支柱はプラスチック製品、リンゴ箱や炭俵は段ボール、臼・杵は電気器具、台所用品はプラスチックや金属製品におきかえられた。また木の細工物は山間部のお土産屋で見るだけのものになりさがってしまった。
 また、建築や家具に必要な木材は外材にとってかわられた。
 必需品だった薪炭は石油、ガス、電気に転換された。いろりや火鉢はなくなって石油・ガスストーブになり、炭を使っていたこたつは電気こたつに、鉄砲風呂や五右衛門風呂は石油・ガスを燃料とする循環釜、炊飯は電気釜、煮炊きは石油・ガスコンロに変わり、薪炭はいらなくなったのである。
 かくして農村と山村の結びつき、農村内自給、山村での林産加工は、1960年代に本格化したいわゆるエネルギー革命によって解体してしまった。

 こうして薪と炭のない暮らしとなり、またわらのない暮らしともなった。
 それはまた「灰のない暮らし」になったことを意味するものでもあった。前節でもちょっと触れたが、かつてはいろり、火鉢、かまど、こたつ、アンカに灰があった。そしてそれらは灰を生産もした。この生産された灰は肥料として、油落としやおこげ落としなどの洗剤として用いられた。しかしそれらはもっと効率の良い工業製品で代替されるようになり、灰は不要となった。また灰をつくりだすこともなくなった。いろり、かまど等がなくなったからである。灰は家々から消えてしまった。
 その昔、道路が凍って危ないと灰を撒いて滑り止めにした。子どもの頃はその凍ったところでスケートなどして遊んだので、灰を撒かれるとがっかりしたものである。しかし今、家の前の道路や玄関先が凍って子どもたちが通学のとき危ないから滑らないようにしようと思っても、灰がないのでそれができない。灰のない暮らしというのも不便なものである。

 わが国の農村の自給自足的な仕組みは、資本主義の発展にともなって少しずつ変化しながらも、伝統的に引き継がれてきた。それがこんなに短期間にまた簡単に解体するとは本当に驚きであった。
 もちろん、旧来の自給自足経済からの脱却、商品経済への移行、これは必然的なものである。農村家内工業が機械制大工業などに駆逐されていくのも法則的なものである。そしてそれは大きな社会的進歩でもある。自給生産の生産力は低く、きわめて非合理的な側面ももっていたからである。そして生産も生活も本当に便利になった。このこと自体は喜ばしいことである。
 しかし、その過程は資本主義的な商工業による農業・農村支配の深化の過程でもあった。しかも拙速ではないかと思われるほどその過程の進行は速かった。農村が、農業がじっくりとそれに対応してよりよい移行の過程にしていくことはきわめて困難であった。その結果その過程はさまざまな問題を引き起こすこととなった。
 まず、便利になった生産・生活は、これまでの経営内・農山村内での資源の循環利用の否定、資源・エネルギーの多消費を前提としているために、環境負荷に拍車をかけるものであった。そして世の中の仕組みは石油漬けでないと、資源やエネルギーを浪費しないと生きていけないようにさせた。農山村も石油にどっぷりと漬かるようになった。本来農林漁業は資源を循環利用して資源を保全し、新たな資源・エネルギーを創り出す産業であり、地球環境を保全する産業であったはずなのだが、そうではなくなったのである。
 また自給体制の崩壊は、農林産物の輸入、アメリカを母国とする穀物メジャーの支配によってもたらされたものでもあった。当然これは国内の農林業生産を圧迫する。
 さらに、便利になった生産・生活は農山村から仕事を奪うものであった。しかもその便利さは金のかかるものであった。
 もちろん、かつて自給していたものがいかに外国や工業から安く入ってきても、それを購入できる金がなければ、金を手に入れる就業機会がなければ、自分の家で以前のようにつくったかもしれない。戦前などはそうだった。生産費を計算すると引き合わなくともつくらざるを得なかった。購入する金がないし、これに対して労力は余っていたからである。必要不可欠なものであるかぎりそうせざるを得なかった。
 しかし、高度経済成長は働き口をつくりだしていた。金を手に入れるところはあった。東北の場合それは農外への出稼ぎであった。出稼ぎはこれまで述べたような自給生産の解体が可能にしたものでもあるが、それはまたさまざまな問題を引き起こした。

(註)11年1月27日掲載・本稿第一部「☆二回あった正月―旧暦と新暦―」参照
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR