Entries

三種の神器、格差の縮小、中流意識


               変わり行く生産と生活の仕組み(8)

               ☆三種の神器、格差の縮小、中流意識

 1950年代後半、「三種の神器」という言葉が流行った。電気洗濯機、電気掃除機、電気冷蔵庫がそうだという説と、白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫だという説があるが、いずれにしてもこの「三種」は生活の豊かさを示す象徴として日本人の憧れの的であった。だが、一般庶民にとって、ましてや農家にとってこれは夢のまた夢であった。
 しかし60年代に入ると、それが夢ではなくなってきた。電化製品が相対的に安くなってきたからである。そして月賦でも買えるようになってきた。
 こうしたなかで農村部にまず入ってきたのはテレビだった。女性がもっとも欲しかったのは洗濯機だったが、テレビは子どもを始め家族全員の希望だったからあきらめるより他なかった。これは農村部ばかりでなかった。町場でも普及が早かったのは白黒テレビで、一番遅かったのは冷蔵庫だったという。しかし、時間は若干かかったが、洗濯機も掃除機も冷蔵庫もどこの農家でも見られるようになってきた。
 60年代後半にはカラーテレビ、クーラー、カーの「3C」が「新三種の神器」と呼ばれた。このうちの二つは農家にも一挙に普及したが、クーラーはあまり普及しなかった。農村部の住環境は過密化した都市にくらべると格段によかったから、また家が大きかったからであろう。
 さらに、家の新築・改築も進み、前に述べたように燃料は薪炭・わら・籾殻などから石油・ガス・電気へと変化し、生活様式は都会とほぼ同様のものとなってきた。

 1970(昭和45)年、10年目の更新期限を迎えた日米安保条約が自動延長するのを阻止して条約破棄を通告させようとする運動が展開された。東北大学職員組合の役員をしていた私もその運動の先頭に立ち、毎週のように市内をデモ行進した。
 あるときふと感じたことがある。60年安保のときと何か街の雰囲気が違うと。街の人がデモを邪魔もの扱いしている感じなのである。前はそんなことはなかった。当時、いわゆる新左翼と称する暴力集団が大学を封鎖したり、街頭で石を投げたりするなどとしていたので、それと同類かと思われ、いやな顔をされているのかとも思った。たしかにそれもあったが、それだけではなさそうだ。よくよく見てみたら、60年のときと街の風景が違っている。デモをすると警察が来て交通整理をするが、われわれが道路を横断しているとき、それで止まらされている自動車の数が60年のときとまるっきり違う。延々と並んでいる。まさに渋滞である。その原因はデモにある。忙しい人たちにとってはいい迷惑だ。デモにいやな顔をするのは当然である。60年のころはデモで渋滞するほどの自動車はなかった。道路のまんなかで行進を止めて1~2台の自動車を通してやることもできた。しかし70年代はそんなことはできない。そこに違いがあるのではなかろうか。そのとき、しみじみと感じた。日本は車社会になったのだなと。
 農村部にもそれが波及していた。60年代半ばころから軽トラックが農家の庭先で見られるようになり、やがて乗用車が普及し始めてきた。
 私の仕事の一つである農家調査もそのころから少しずつ変わり始めた。それ以前は公共交通機関で行けるところまで行き、そこから調査地点まで歩くというのが普通だったのであるが、役場や農協が車で迎えにきてくれたり、案内してくれたり、さらには調査が終わると農家の方が車に乗せて宿まで送ってくれたりするようになった。
 71年ではなかったかと思う、宮城県北のある村に行ったとき、いっしょに飲みに行こうと農協青年部の人たちに誘われた。列車に乗り遅れると断ったが、家に泊まればいいとむりやりその青年の車に乗せられ、隣り町の飲み屋まで出かけた。ヨークシャー豚舎に入ったと見まがうばかりの接客の女性がたくさんいるキャバレーとかにつれていかれ、さらに居酒屋に行ってさんざん飲み、さて帰ろうということになったら、その青年の車で帰ると言う。いっしょに行った普及員はオートバイで来ていたが、その彼もそのまま乗って帰るという。酔っぱらい運転ではないかというと、大丈夫だ、慣れているし、車は来ないし、お巡りも文句を言わないという。運転代行などそのころはもちろんない。とうとう車に乗せられ、まだ舗装されていなかったでこぼこ道をがたがた揺られながら、対向車もない真っ暗な田んぼの中の道を帰った。お宅に着いて床の間に飾ってある額縁をふと見たら、そのなかに優良運転手の表彰状があった。優良運転手が酔っぱらい運転とは何事かと驚いたが、私も共犯者、警察に告げ口するぞと冷やかすしかできなかった。
 当時は村の中での道交法違反は珍しくなく、問題にもされなかった。新しく転勤してきたばかりのある村のお巡りがいばりくさり、交通違反など厳しく取り締まったら、祭りの夜に酔っぱらった村の青年たちに袋叩きにされて川に沈められ、その後はおとなしくなったなどという話を聞いたこともある。当時はまだ車の数は多くなく、道路も十分に整備されておらず、車のスピードもそれほど出ず、今のように大きな問題とはなっていなかった。
 72年、愛知県の稲沢に大学院生2人といっしょに調査に行った。農協の職員がいろいろ協力してくれたのだが、調査2日目の日には職員の慰安旅行でいないので案内できない、農協の車を貸してあげるからそれで移動してくれとのことだった。ところがである、私はもちろんのこと院生も免許を持っていない。それを聞いた農協の職員が驚いていた、若い方3人もいて1人も免許を持っていないなんてめずらしいと。言われてみればそうかもしれない。時代は変わっていたのだ。結局調査はタクシーと歩きで何とか終わらした。
 私が子どもの頃は農家が車をもつなどということは考えもしなかった。運転免許をみんながもつ世の中になるなどとも想像したこともなかった。そんな夢みたいなことが実現したのである。

 21世紀に入ってのことである、農大の学生との研修旅行で沖縄に行くとき、女満別空港で家に腕時計を忘れてきたことに気が付いた。困っていると、若い教員から安いのがあるから乗り換えの千歳空港で買ったらどうかと言われた。たしかに安い。1000円からある。しかし買えば二つになってしまうし、むだになってしまう。迷っていると、いまは使い捨ての時代なのに何を迷っているのかと言われる。それでも踏ん切れない。
 いくら安くなったといっても、自分の感覚からするとどうしても時計は高価なものというイメージがあるのである。今は小学生まで時計をもつ時代となっているが、1960年以前は大人にならなければもてなかった。大人になってももてないものが多かった。ましてや農家には腕時計などはなかった。高くてもてなかったのである。またもったとしても農作業のときに時計をしているわけにはいかない。当時の時計は、水でちょっとでも濡らしたり、激しく動かしたりするとすぐに故障するものだったからである。
 また、時計をもたないと不便だと言うような生活はしていなかった。太陽の動きや周囲の音・香り・動き、腹の空き具合、同じく野良に出ている人たちの動きなどで判断した。線路が見える田畑では、往き来する汽車が時計代わりであった。何時の汽車が来たから、そろそろ昼にしようとか、3時(休憩)にしようとか、声をかけあったものである。
 高校に入ったときの1951(昭和26)年、祖父から腕時計を買ってもらったが、そのときも父はまだ腕時計をもっていなかった。近所でも、役所などに勤めに出ているもの以外、ほとんどもっていなかった。
 1960年代後半からはだれでももつようになった。時計の性能もよくなり、農作業の形態も変わったこともあって、やがては田畑にも腕時計をしていくようになった。それどころか携帯ラジオを腰にぶらさげて歌を聴きながら農作業をする姿まで見られるようになった。
 それから40年、もっと時代が変わったのに、私はまだ時計が買えないのである。さんざん迷ったあげく、旅行から帰ったら小学生の孫にやればいいではないか、今は小学生まで時計をもつ時代になっているのだからとあきらめ、ちょっと高めの3000円の時計を買った。

 山形にはデパートがなかった。だから中学3年(1950年)の修学旅行のコースには東京の三越デパートがあり、そこに立ち寄って買い物をすることになっていた。迷子になったらライオンの銅像のある場所を店員さんに聞いて、そこで待っているようにと注意された。私たちばかりでなく、修学旅行で来ていた他県の中学生もたくさんいた。これが初めてのデパートで、エレベーターに乗ったのも初めてだった。
 1960年代ころまでは、山形や岩手の農村部の小学生が修学旅行で仙台のデパートに来ていた。もちろん車社会になって町場にすぐ出られるようになってからはこんなことはなくなったが。
 ビヤホール、戦前読んだ本の中にこんな言葉が出ていた。山形にはない。ましてや子どもだからよくわからない。でも何か大人しか行けない秘密めいたモダンな場所というイメージであこがれていた。仙台に来たら盛り場の東一番町通りの真ん中にキリンビヤホールがあった。ようやくあこがれのビヤホールに入ることができた。もちろん当時はビールの値段が高くてほとんど行けなかったけれども。
 1970年代に入ると、小さな町の飲み屋でもジョッキでビールを出すようになり、ビヤホールがめずらしいものではなくなった。
 私が高校を卒業するころまで、山形には喫茶店もなかった。何か軟派青年がいく都会的なしゃれた店らしい。当然コーヒーを味わったことも、見たこともなかった。
 仙台に来たら喫茶店があった。その夏、しゃれたふりして喫茶店に入って、コーヒーを頼んだ。帰りぎわ、食堂でいつもやっていたようにテーブルでウエイトレスに勘定を払おうと思ったらレジへどうぞという。レジというのがわからない。意味がわからず、うろうろしていた。説明されてようやく会計のしかたがわかり、恥ずかしい思いをしたものだった。
 コーヒーは苦くてまったくおいしくなかった。それで砂糖とミルクをたくさん入れた。コーヒー代は高いので入れないと損する気がしたし、食生活の貧しかった学生時代、それを栄養の補給源にしようとしたからでもある。
 1960年代後半には山形にも喫茶店ができ、農村部の町にもみられるようになり、コーヒーも安くなり、さらにインスタントコーヒーも普及し、70年代にはどこに行ってもコーヒーが飲めるようになった。
 このように巨大都市と地方の中小都市との格差は縮まってきた。農村と都市の生活水準の格差も以前のようなものではなくなった。もちろん、この裏には自動車の借金を返すために自動車工場に出稼ぎに行き、自動車産業から往復びんたで収奪されるというようなことがあった。つまり農家の出稼ぎがあり、低賃金不安定兼業があり、さらに借金もあったのである。
 しかし、ともかく60年代は格差が是正されつつあった。やがては家庭でまともにコーヒーを入れて飲める時代にまでなった。

 1970年の総理府の世論調査によると、「自分の生活程度が世間一般からみて『中程度』」とするものが9割を越し、そのうちの「中の中」だというのは全体の6割近くを占めたという。それで「一億総中流時代」と言われるようになった。かつてあこがれの的であった三種の神器をみんなと同じようにもつことができ、白米を始め肉、魚も食べることができるようになった、上流とは思わないがみんなとだいたい同じなのでとくに貧しいとも思わない、こんなことから自分を中流階級だと考えるようになったのであろう。しかし、この裏には働き過ぎや公害などの問題があったし、高齢者世帯や母子世帯の暮らしはきわめて苦しかったし、農村部では出稼ぎや過疎化などの問題があった。また、そもそもこんな程度の貧弱な暮らしが中流なのか、そんなちゃちな中流に満足していていいのかと私は頭にもきた。
 そうはいっても、この中流意識はともかくかつてのようなすさまじい貧富の格差がなくなったことを意味する。かつては皇族だ貴族だと言う身分だけで、地主や財閥のように金を、土地をもっているというだけで、働かなくともぜいたくな生活を送るものがいた。一方、いくら働いても、いくら能力があっても、極貧の生活を送らなければならない人々があり、それが圧倒的多数だった。しかし、戦後の民主主義は、みんな豊かに生きていく権利があるという意識を高めた。戦後すぐのころ大蔵大臣が「貧乏人は麦を食え」と言ったときすさまじい批判が起きたことはそれを示している。そしてみんなそろって豊かになろうということから、累進課税で所得の低い人たちの税金は安く大企業等に対する法人税は高くし、相続税を高くして格差が代々続くなどということがないようにし、生活必需品には課税せずに贅沢品にのみ物品税(いまの消費税)をかけるなどしてきた。また社会保障の充実や労働関係法規の整備を図って働く人々の所得の確保を容易にし、さらに地方交付税や農業振興政策、地域振興政策などで地方と中央の格差をなくそうともしてきた。もちろん不十分な点は多々あった。それでもこうした所得格差是正の政策が一定の成果をおさめたことが「中流意識」形成の一因となったということができよう。そしてそれが個人需要を伸ばし、日本の高度経済成長を支える大きな柱ともなったのである。
 このことは評価できるであろう。そしてそれは70年代以降も引き継がれ、戦後めざした新しい民主主義社会へとさらに前進してしかるべきであった。
 ところが近年、またもや格差が拡大してきた。歴史は逆戻りしている。戦後の民主主義はどこに行こうとしているのだろうか。私の望んできた「働くものが報われる社会」は再び遠のいてしまうのだろうか。

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR