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変わらない農村女性



               変わり行く生産と生活の仕組み(9)

                  ☆変わらない農村女性

 宮城県中新田町平柳(現・加美町)に集落を基礎にした全面共同経営がある。1962(昭和37)年、集団栽培の導入を契機にして設立され、現在まで続いている非常に優れた経営である。できてから14~5年たったころだと思うが、調査に行ったとき組合長に聞いてみた、共同を進めていく上で一番苦労したのは何だったかと。そしたら笑いながら次のように言う。
 「カアチャンをいかに黙らせるかだった」
 共同作業をして家に帰ると、どこの家でも必ず奥さんが仲間の悪口をいう。あの人はいかにさぼつているか、この人はいかにだめか、あの人はこういうことを言った等々の話をしょっちゅうやる。また、たまたま風の日に共同田植えの順番に当たった田んぼの持ち主の農家の奥さんは自分の家の収量が落ちてしまう、不平等だなどと組織運営にも文句をいう。男というのは奥さんの影響を受けやすく、それをまともに聞いているとどうしてもそのように思えてくる。するとみんなのなかに不満が芽生え、不信感がでてきてまとまらなくなり、共同がうまくいかなくなる。だからといって、奥さん方の口を封じることなどできるわけはない。
 そこで男性陣が次のように申し合わせた。
 「カアチャンの言うことは台風が来たつもりで黙って頭の上を素通りさせよう、知らないふりをして聞かないようにしよう」
 もう一方でともかくご婦人は大事にすることにし、ご婦人たちだけの一泊旅行もさせ、しょっちゅう集まって話し合う機会をつくったりした。こうして3~4年もしたら奥さん方は不満をまったく言わなくなった。
 この話を聞いてからまた14~5年たった(90年)ころ、世代交代をしたこの共同経営が宮城県農業賞の受賞集団として推薦を受け、選考委員だった私はその選考のための調査に行った。そのときもうリタイアした当時の組合長にしばらくぶりで会い、前に来たとき「共同をこわすのは女だ」と言っていた話をしたら、そんなことを言ったかなあと頭をかいて笑っていた。もう忘れてしまうくらい農村の女性が変わったということなのだろうか。
 この中新田に似たような話、新しいことをやろうとすると女性が足を引っ張る、男の足だけではない、「女が女の足を引っ張る」という話は当時あちこちで聞いた。女性は男性だけでなく女性もだめにする。女性は組織人とはなり得ないのだろうか。
 しかしこれは女性のもつ特性からくるものではない。当時の女性を取り巻く条件が女性をそうさせていただけなのである。

 長い間差別・抑圧されてきた女性(註1)は戦後の民主化で参政権を得る等、法的政治的にその地位を大きく向上させた。その男女平等を実態がともなったものとすべく、また社会的経済的な地位向上を図るべくさまざまな施策が展開され、農村部では前にも述べた生活改良普及事業の展開(註2)などで農村女性の地位向上を図ろうとした。
 一方、田畑と台所に縛り付けられていた女性の解放は大きく前進した。農業労働は、機械化・化学化の進展、自給生産の衰退等で、田植えと稲刈りを除くと本当に楽になった。家事労働も電化・機械化・化学化の進展などで省力化した。このように生産や生活の様式が高度経済成長のなかで大きく変わり、女性に時間的ゆとりが出てきた。
 にもかかわらず、60年代の農家の女性の地位はまだ変わっていなかった。
 たとえば女性は自由に外に出られなかった。農協婦人部や生活改善クラブの集まりがあっても嫁さんは舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)の目や主人のいやがることが気になってなかなか出席できなかった。行っていいかなどと口に出すこともできなかった。そもそも嫁は意志をもたないもの、もってはならないものであり、こうしたいと言うこと自体意志をもっていることを示したことになるので、言うわけにもいかなかったのである。
 もちろん姑は自分が嫁の時代に押さえつけてきた自分の舅姑がいなくなっているか力をもたなくなっているので相対的に自由に出かける。それで農協婦人部などは姑の集まり、嫁の悪口を言い合う場となっていた。こんな集まりには、たとえ行ってよいと言われても、嫁は出る気がしない。
 しかも姑たちは一度握った婦人部などの役職はしがみついて絶対に手放さない。10年経っても20年たっても、60歳、70歳になっても、若い人たちに譲ろうとはしない。地位にしがみつくというのは男にももちろんあるが、女にもある、というより女の方が強いようである。外に開かれた口は、女性に許された名誉職は、それくらいしかないからである。それが唯一の生きがいになっているのに、やめたらなどと辞退勧告などしたら大変なことで、何を言われ、何をされるかわからない。波風をたてないようにするには、黙っていた方がいい。そこでいつまでも年寄りや大先輩がとりしきることになる。これでは当然若い嫁さん方は発言しにくいし、意向も反映されない。これではおもしろくない。そこで出席が承諾されている家の嫁さんも会合には出たがらないことになる。これがまた若い嫁さん方をうちに閉じこめることになる。
 それなら町にでも遊びに出れば良いではないかと言っても金はない。小遣いももらえないからだ。嫁ばかりではなく息子も自由な金もたないただ働きの労働者だった。それでもたまに外に出たりすれば近所の年寄りがあそこの嫁は遊んでばかりいる、姑が畑で真っ黒になって働いているのに隣の嫁は化粧をしてよそにでかけたなどと悪口を言う。
 もちろん部落の寄り合いなどには出られない。女は家の代表者ではないからだ。
 よく開かれる稲作講習会や税申告の研修会などにも嫁はもちろん姑もでられない。女性は技術者・経営者ではなく、男の言うことを黙って聞いてその通りに働く労働者でしかなかったのである(註3)。
 指導者と言われる人たちの側もこうした状況にとくに疑問を抱かなかった。
 たまたま宮城県の生活改良普及員の女性の方々と会議でいっしょになったときのことである、彼女らが「経営主」という言葉をよく使う。注意して聞いていると、それは農家のご婦人の旦那さんのことを指している。そこで発言した。
 何で旦那を経営主と呼ぶのか、おかしいではないか。奥さんが経営主である場合もあっていいのに、経営主はイコール男性だと考えるのは問題ではないか。生活改良普及員たるものが、女性の地位向上の先導者自らが、経営主は男性だということを前提にして指導するから宮城県の女性の地位は低く、農業が悪くなるんだ。
 こんな皮肉を言ったことがあるが、こうした状況が普通だった。
 農村の女性はまだ家の中に閉じ込められていた。さらに地域の監視を受けていた。

 高度経済成長の東北の農村部への波及のなかで、さきにも述べたように女子型の零細企業が農村のあちこちにつくられ、嫁さんもそこに働きに行くようになった。ある人がこんなことを私に言った。
 あそこの嫁さんは近くの工場に働きに行っている、経営規模の大きい農家で農業専業で十分に食っていけるのに、家でゆっくり農作業でもしていればいいのに何たることか、まさに低賃金のパートでしかないのにそんなわずかな金でも欲しいのだろうか、高度経済成長の影響を受けて金を得ることだけを考えるようになったのは嘆かわしいと。
 これに対して私はこう言った。金の問題ではないのではないか。毎日毎日舅姑と顔をつきあわせ、一日中家にじっと閉じこもっていたら息が詰まる。ところが働きに行くと、同年代の女性はもちろん上の年代、下の年代もいる。多くの仲間と働き、休み時間にいろいろなおしゃべりができるのは本当に楽しい。これは金にかえられない喜びだ。同じ仲間といっしょに働きたい、雑談したい、笑いたい、これは共同の動物である人間としては当然のことだ。まわりでああだこうだ言わないで暖かく見守ってあげたらどうかと。

 こうした状況の下では女性は社会性をもち得なかった。
 これに対してまだ男の方が社会性があった。ともかく外に出ており、多くの人と付き合っているからである。たとえば、みんなそれぞれ癖があるのでそれはそれで認め合いながらいっしょにやっていくより他ないのだなどと考える。また多くの人とのつきあいによる刺激で新しいことをやろうとも考える。
 ところがそうした社会性のない女性はそんなことは考えない。隣近所しか見られないから、その一挙手一投足を見て悪口を言うより生きがいがなかった。そして足を引っ張る。女性自身が非常に古い体質をもっていた、というよりもたされていたのである。

 「戦後強くなったものは女と靴下」だと言われたが、農村ではまだまだ女性は弱く、とくに嫁の立場は弱かった。もちろん、それは都市においても商工業においても基本的なところでは同様だった。
 とくに商店の嫁などは、程度の差はあるが、農村の嫁と同じだった。
 大企業に勤めに出た女性もさまざまな差別を受けていた。たとえば女性が結婚すれば退職させるのが当たり前だった。女性もそういうものだと思って辞職願いを出した。結婚しても平気で職場に残ったのは教師くらいのものだった。また教師の場合は女性も校長や教頭などの管理職になれた。しかし他の職場で女性が管理職になるなどということは考えられなかった。もう一つ女性が管理職になれたものに大病院の看護婦の婦長があった。ただしこれは女性だけの職場での管理職であり、男子も部下に持つ校長や教頭とはまるっきり違うし、それ以上には絶対になれないものでもあった。
 といっても大学もいばれたものではなかった。東北大には女性の研究者などほとんどいなかった。東北大は戦前に女子の入学を許可し、女性に門戸開放したわが国最初の大学(旧帝大)だったのだが、それにもかかわらずである。これはそもそも女性がきわめてわずかしか大学に入学せず、研究教育の後継者として育たなかったことも一因となっているのだが。ついでにいえば、民主主義の社会になったとはいえ、大学の体質はまだまだ古いものだった。医学部などはその典型で、山崎豊子の書いた小説『白い巨塔』に描かれている以上の封建的なものだった。この大学の封建性について書けばきりがないのでやめるが。

 男女同権は法では保証され、言葉としてはよく言われるようになったが、中味はまだまだともなっていなかった。
 1969(昭和44)年、奥村チヨは『恋の奴隷』(註4)でこう歌った。
   「悪い時は どうぞぶってね
    あなた好みの あなた好みの 女になりたい」
 それから4年後、殿様さまキングスの『涙の操』(註5)が流行った。
   「あなたの決して お邪魔はしないから 
    おそばに置いて ほしいのよ 
    お別れするより 死にたいわ 女だから」
 これをどう解釈するかはここではおこう。
 ともかく女性が生き生きと輝き始めるのにはまだ時間が必要だった。やがて輝けるようになってきた。しかし、そのころには輝くべき女性、とくに若い女性が農村にいなくなっていた。

(註)
1.戦前・戦後の農村女性問題については下記の記事で述べているので参照してもらいたい。
  10年12月18・20・21・22・23日掲載・本稿第一部「農家の嫁(1)~(5)」
2.11年3月28日掲載・本稿第一部「☆台所・風呂の改善」参照
3.80年代になると技術関係の講習会などには女性が主に出席するようになるが、これについては後に述べる。
4.恋の奴隷  歌:奥村チヨ  作詞:なかにし礼  作曲:鈴木邦彦 1969年
5.涙の操   歌:殿様さまキングス  作詞:千家和也  作曲:彩木雅夫 1973年
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コメント

[C70] 勉強させていただいています

 酒井先生、大変お手数をおかけして申し訳ありません。再度投稿させていただきます。私は大学の非常勤講師をしていて、社会学を教えております。私の本来の専門は、モンゴル研究で、家族・親族、ジェンダーとセクシュアリティなどのテーマで本当にほそぼそと研究をしております。
 非常勤の担当の講義でもジェンダーのテーマで講義をする回があり、5年ほど前から先生のこのブログの2010年12月の「農家の嫁(1)~(5)」の記事を、毎回学生に紹介させていただいております。
 不勉強で申し訳ないのですが、今回初めてこの記事も拝見しました。とても勉強になりますし、ほかの記事も改めて少しずつ読んでいこうと思っております。またときどきコメントさせていただくかもしれませんが、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 

[C71] 女性の「社会性のなさ」などについての考察

 続けてのコメント、失礼いたします。前回のコメントでは「勉強になります」という表面的なコメントしか書けなかったのですが、改めて読むと、表面的に見られがちな「女性が女性の足を引っ張る」(「女の敵は女」とも似ていますね)とか、「女性の社会性のなさ」ということについて、決して女性の「生まれつき」がそうなのではなく、そのようにならざるを得ない状況、環境に生きている、ということが(農村の女性に限った例ではありますが)説得力をもって示されていると思います。こういう見方ができるし、そのように見る方が事実に即している、ということが、もっと世の中に知られてよいのでは、と思いました。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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