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働く農家の子どもたち(1)

    

                ☆家事の手伝い

 十四、五年前になろうか、仙台でタクシーに乗ったとき、私と同年代の運転手さんと昔話になった。山村生まれだという運転手さんはこんな話をした。
 子どもの頃、畑仕事はもちろん山仕事も手伝わされた。忙しいときは学校を休まされた。それでも朝こっそり家を抜けだして学校に行く。すると、学校から帰ってから親にさんざん怒られた。手伝いたくないから、遊びたいから学校に行ったんだろうと。実はそうだった。ともかく学校に行くのが楽しかった。ところが今は逆で、学校に行きたくなくとも行けと親は子どもたちに言う、おかしな世の中だ。そう言って彼は笑う。
 当時はまさに子どもは労働力だった。子どもには子どもの仕事があった。小学校に入る頃から仕事が与えられる。その仕事は年齢に応じて変わり、一つずつ増えていく。大人はもちろん、子どももそれが当たり前と思ってやっていた。
 学校もある程度はそれを認めた。田植え休みや稲刈り休みをつくって家の仕事の手伝いをさせたし、弟妹をおんぶして学校に来ることも許した。
 老若男女どころか老幼男女、すべてその能力に合わせて生産・生活にわたる家の仕事を分担せざるを得なかったからである。

 手労働段階、せめて畜力段階という状況のもとでは、さらに堆肥等の生産資材の自給が必要な段階では、農業生産に多くの労働力が必要とされた。ともかく忙しく、労働力はいくらあっても足りなかった。農繁期などはましてやそうだった。
 さらに家事労働がある。現在のように電化製品はなく、水道すらない状況の下で、しかも大家族を抱えての家事労働はすさまじいものであった。
 また、自給できる生活資材は何でも生産しなければならなかった。金があればよそからものを買うこともできるが、金がないので自分の家で生産しなければならないからだ。それで年中暇なしだった。
 だから子どもも働かせなければならなかった。ましてや高等教育などを子どもに受けさせる暇も金もなかった。
 子どもの労働はまた、身体で仕事を覚えさせるためのものでもあった。当時の経験と熟練がものをいう技術段階では、子どものころから技術を叩き込む必要があったのである。そして伝統的な技術を身につけて働けば食ってだけはいけた。だからとくに教育などなくともいいと考えられていた。

 私も、小学校(註1)に入るころからまず家事を手伝わさせられた。
 庭と土間の掃除が毎朝の仕事となる。今考えてみればせまい場所なのだが、子どもにとってはかなり広く、毎日の日課がつらい。また朝夕の縁側の雨戸の開け閉めがある。立て付けの悪いしかも重い板戸を十枚も動かすのはけっこう大変である。ときどきは縁側の雑巾がけを命じられる。
 こうした掃除は初夏と秋の大掃除のときに家族ぐるみで大掛かりにまたていねいになされるが、とくに初夏の場合には畳上げや畳叩きがあり、子どもはその手伝いをさせられる。これは大変だがおもしろい。畳の下に敷いてあった古い新聞紙を読むのも楽しみだ。障子貼りも子どもの仕事だ。糊と刷毛で障子紙を貼り付けるのは非常に難しくて大変だけど、いつもは固く禁じられている障子破りがおおっぴらにできるのが楽しい。年末には煤払いの手伝いがある。
 台所仕事は、かつお節削り、大根おろし、とろろすり、ごますり、クルミ割り、みがきにしん叩き、正月の餅切り等々の細かい手伝いが命じられる。ただし料理の手伝いは絶対させられなかった。男は台所に立つものではないというのが祖母の口癖だった。それでも食べ終わった自分の茶碗や皿は家長の祖父以外男も台所まで運んだ。
 少し大きくなると、ご飯焚きだ。ご飯はわらで炊いていた。かまどの前に座り、祖母か母にくるっとまるめてもらった稲わらの束を一つずつかまどの中に入れ、燃え終わるとまた入れるを繰り返す。沸騰してくると、わら入れをやめる。真っ赤になったわらの燃えかすが残り火となり、いい味に炊きあげる。
 籾殻を燃料にする糠窯(ぬかがま)もあり、この籾殻を小屋から石油の空き缶に入れて運び、円筒形をした窯をいっぱいにするのも子どもの仕事だった。
 それから水汲みがあった。

 今は農村部でも水道をひねれば飲み水はもちろん風呂の水も出てくる。しかし昔は井戸だった。その井戸が家屋敷の中にあればいいが、地域によっては地下水脈が家のところをうまく通っておらず、遠くの共同井戸から水を汲んでこざるを得ないところもあった。
 母の実家がそうだった。扇状地の中腹部に位置していたからである。山形盆地は四方を取り囲む山から流れてくるいくつかの川で形成される扇状地であるが、その川の上流部は川や泉の水を生活用水として利用でき、下流部は伏流水の湧き出る泉、これをわれわれは「どっこん水(すい)」と呼んでいたが、それを利用できるけれども、その中間にある中流部は伏流水が地下深く浸透しているので水の確保が難しい地帯となる。だからこういう地帯の多くは水田地帯ではなくて養蚕地帯(後には果樹作地帯)となるのだが、生活用水のためには井戸を掘らなければならない。ところが相当深く掘らないと水が出ない。水脈を見つけるのも大変だ。だから各家が井戸をもつなどということはできない。それで母の実家には井戸がなく、家から三十㍍くらい離れたところにある共同井戸を利用していた。そこから手桶に水を汲み、それを天秤でかついで運んでくるのである。これは女と子どもの仕事だった。
 手に入れるのにこんなに大変な水を飲料や料理以外に使うのはもったいない。だから、ご飯を食べた後の茶碗やお椀は白湯とたくあん一切れで洗い、その白湯を飲み終わった後に布巾で茶碗を拭き、その布巾で包んで、箱膳に入れて戸棚にしまう。たまに泊まっていっしょに食事をする幼い私にはなぜそんなことをするのかがわからず、奇妙に思ったものだった。
 また、家の庭に小さな池をつくり、そこで米をとぎ、鍋釜や野菜を洗い、顔も洗う。池の水はきれいである。近くの山から集落を縦断してまっすぐ通って流れてくる小川から小さな水路をつくって水を引き込んでいるからである。池の水はまた細い排水路でその小川に戻される。なお、この池では鯉を飼っている。生活用水、養魚用水の両方で使っているのである。
 お風呂の水は、井戸から運んでくるのが大変なので、この家の前の小川から手桶に汲み、家の風呂場まで約十㍍くらいの距離を運ぶ。いくらきれいな水だとはいっても、この水で風呂を沸かすと何ともいえないいやな臭いがした。川魚や蛙などといっしょに利用している水なのだからそれも当然かもしれない。
 川の管理のためにむらぐるみの共同労働でなされる川干しのとき、たまたま母の実家にいたことがあったが、少なくなった水のなかでバタバタ暴れている魚をつかまえるのはおもしろかった。
 しかしその小川で洗濯や洗い物をするものだから上流で伝染病など起きたら下流部にすぐ伝染するという問題をかかえてもいた。
 なお、この小川の水はさらに下に行くと田んぼの灌漑に使われた。したがってそれは生活用水であると同時に農業用水でもあった。

 私の生家の場合は家に井戸があったので、母の実家のような不便はなかった。しかし、近所には井戸のない家も多かった。井戸を掘るにはお金がかかるし、お金があっても水脈が家屋敷のところを通っていないと掘れないからである。井戸のない家はやはり相対的に貧しい家であったことからすると、金がやはり問題だったのだろう。
 私が生まれた頃には旧山形市内には水道が通っていた。それで井戸のない家は数戸共同で道路脇にある水道栓を利用していた。その共同水道には勝手に利用されないように水栓がついておらず、利用する家がそれをそれぞれもっていて、使うときに挿して水を出したり、止めたりしていた。そこに手桶などをもってきて水を汲んで家に運んで利用したのである。
 一方、井戸のある家は水道を使わなかった。水道管を家の中まで引き込むのにはかなり金がかかるし、冬は凍って使えなくなるときがあるからである。それよりは金がかからず、夏は冷たく冬温かい井戸水の方がよかった。それで水道を利用するのは貧乏な家ということになっていた。

 どこの家でも井戸は家の外にあった。私の家でも玄関の前のところにあった。だから、井戸水を台所まで手桶で運び、流しにある大きな甕にそれをあけて貯め、そこからひしゃくで汲んで飲み水や料理、洗い物に使っていた。
 風呂の水も井戸から風呂場に運んだ。その水汲みと水運びは子どもの仕事だった。手押し井戸ポンプなので、木製の取っ手(ハンドル)を手で上下に押して水を汲み上げるのだが、上にあげたときの取っ手は、身体が小さい自分の背よりもずっと高くなる。そこで取っ手にぶらさがって、つまり自分の体重を利用して、思い切り下に下げて水を出し、手桶に注ぐ。こうして水をいっぱいにした手桶を風呂場まで運ぶ。風呂場までの距離はわずか三~四㍍だが、風呂がいっぱいになるまで重い手桶を持って何十回も運ぶのは小学一~二年の子どもにはかなりの重労働だった。
 うれしかったのは、私が風呂の水汲みを始めると、もらい風呂をしている隣りの家の娘さんがその音を聞きつけ、手伝いにきてくれるときだった。大人が手伝い、しかも汲むのと運ぶのとに分業し、時々その役目を交替するので、早く終わる上に、疲れも半分となる。
 とてもではないが、大人でもつらい風呂の水くみを毎日やるわけにはいかない。そんなひまもない。だから一度汲んだ風呂の水は三日ぐらい使う。熱過ぎるとき、お湯が少なくなったときに、水を足すだけである。今考えれば不潔だが、風呂に入らないよりはよかった。
 なお、私が生まれる前までは、生家でも井戸ばかりでなく小川と池の水も生活用水として利用していたらしい。そのときの小さな池が家の前の畑のすみにまだ残っていた。コンクリートでつくられ、近代的になっていたが、わきにネコヤナギの木があり、昔の風情が残っていた。そこは、野菜や道具などの土や泥の付いたものの洗い場として利用していたらしい。しかしすぐ近くに新しくできた小学校のために清流の流れていた小川が遠くに移され、雨が降るとようやく水が流れてくるような水路が近くを通るだけになったので、あまり使わなくなっていた。
 ただし遠くの小川は使った。母が幼い弟妹の汚れたおしめを田畑に持っていき、作業が終わる頃に田畑の近くにある小川で洗濯をして帰ることもあった。その小川は農業用水であったが、生活用水でもあったのである。

 もう少し大きくなると、風呂焚きも仕事となる。鉄砲風呂だったので、鉄砲に杉の葉を入れてそれに下から火をつけ、木の小枝にそれを燃え移らせ、その火が太い薪につくようにする。薪に完全に火がついたら、亜炭を入れる。亜炭に火がつけば安心である。こううまくいけばいいが、途中で失敗すると、最初から全部やり直しで大変である。
 当然の事ながら、火をつけるのも子どもの仕事である。マッチで、あるいは付け木にいろりの火などを移してきて、火をつける。
 ところが今の子どもは火の付け方を知らない。網走の家の庭でバーベキューをしたとき、東京から来ていた小学一年生の孫がマッチのすり方を知らないのに気がついてびっくりした。ひねれば、あるいはボタンをおせば、火がひとりでに付く時代ではやむを得ないことなのだが。学生の場合、さすがにマッチのすり方はわかっている。しかし薪や炭の燃やし方がわからない。すぐに消えてしまう。「付け木(つけぎ)」がわからなくなっているのは当然としても、火の付け方や燃やし方がわからなくて人間といえるか疑問となる。人間は火を工夫することで人間となったからだ。といいながら、私たちの世代も火打ち石で火をつけることも知らないと何代か前の先祖から嘆かれるのかもしれないのだが。
 ところで、付け木といってもわからない人が多くなっている。これは葉書大の経木(きょうぎ)の上の方一㌢弱に黒緑色の硫黄がついているもので、それを適宜縦に折って細くし、それにいろりや火鉢の残り火を種火として火をつけ、それを燃やしたいもののところにもってきてその火を移すもので、マッチが貴重品だった時代に珍重されたものである。火をつけたときの青い色と硫黄が燃える匂いがなつかしい。
 付け木ばかりではない。いろりはもちろん、火鉢、火箸、十能すら今の若い人たちはわからなくなってきている。時代のせいなのだが、何となく寂しい。

 この風呂の焚き付けにするためのすぎっぱひろい(杉の葉拾い)は小さい子どもの仕事だ。十一月の末頃、冬の訪れを告げる冷たい西風が吹く。それで裏の寺にある大きな杉の木から枯れ葉が落ちる。それを拾って南京袋のなかに詰め込む。
 そのうち杉の葉が少なくなってくる。すると子どもたちは大きな声で謡う。
  「西の山がら 風ゴーンゴ 吹いでこい」
 するとあーら不思議、風が吹き、杉の葉が落ちる(ように見えるだけなのだが)。それでまた西の空に向かって力いっぱい叫ぶ。
  「西の山がら 風ゴーンゴ 吹いでこい」
 こうして唄を謡いながら(註2)、遊びながら、手伝う。もちろん子どもの拾う量だけでは焚きつけには足りない。山間部から買うのだが、少しでもそれを減らすのが子どもの仕事である。
 高学年になると風呂や囲炉裏用の薪割りも仕事となる。まさかりを振り上げて丸太をすぱっと割る、これが上手にできるようになるのはけっこう大変だった。もう何十年もやっていないが、今やっても上手にやれるはずである。もうそれだけの力が残っていないかもしれないが。

(註)
1.後に述べるように一九四一年に小学校は国民学校と改称されるのだが、わかりやすいように小学校と呼ぶことにする。
2.このメロディも採譜して記録しておくことにしたい。素人の私が採譜したので誤りがあろうかとは思うが、大体このようなものだという雰囲気だけでもわかってもらえればと思う。何かあればご指摘願いたい。なお、音符を書くソフトを使いこなせないために、小節の長さが斉一でなかったり、汚くて見にくくなったりしているが、これもお許し願いたい。



西の山
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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