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減反への抵抗と行政の圧力


               戦前段階からの転換期の70年代(2)

                 ☆減反への抵抗と行政の圧力

 1970年1月上旬、政府は米の生産調整の目標数量を各県に示した。この米の1割減反の話は前年から出ていたのであるが、それが東北の農村に現実のものとなって襲ってきたのである。
 当然農家は減反に猛反対した。増産、開田と米に力を注いできたのに、そして国もそれを推奨したのに、先祖代々営々と維持してきた田んぼを荒らせ、カネはやるからともかく米をつくるなというのは、一寸の土地を惜しみ、一粒の米を大事にする農家の肌身に染みついている心情からして許せるものではなかった。
 私も農家とともに反対した。過剰をもたらした原因は政治にあったからである。アメリカ農産物の輸入が米以外のものをつくれなくさせ、米に集中せざるを得なくさせて米の供給を否応なしに増やさせ、また消費構造を変化させて米の需要を減らしたもので、まさに『食卓のかげに星条旗』があった(註)のである。政治的に引き起こされた問題は政治的に解決すべきであり、農家に責任を負わせるのは筋違いである。
 米に大きく依存していた東北の農協も当然のことながら強く反対した。とくに生産調整の条件が不明確であること、全国一律に減反するのは東北の主産地という特殊性を無視していることを強調した。この要求は若干満たされた。減反奨励金がアップし、1割の目標が東北の場合7%に下がったのである。その時点で農協県連は態度を変え、やむを得ず協力するというようになった。そして単協を説得した。たとえば秋田県では米が余っている現状に目を覆うわけにいかない、余った米を大量に抱えると食糧管理制度は赤字で崩壊し、価格保証ができなくなる、食管を守るためにも減反しよう、このように全国段階で申し合わせたのだから了承してもらいたいということで単協組合長会議で説得している。それで多くの単協は協力するようになった。ただし達成の責任は行政が負うべきであるとした。
 一方自治体は、当初は積極的に減反を支持することなく、静観の態度をとった。
 これに対して政府は、協力しなければ報復措置があると脅す等、あらゆる手段を用いて減反目標の達成をせまった。
 そのうち自治体も「避けて通れない」として協力するようになった。そして、これまで増産、安定多収のために努力してきた普及員が、また県や市町村の職員が、わずか一年前とまったく逆に米をやめろと言って歩かされた。この苦しみ、悩みを何人かの人から聞かされた。
 やがて東北の農民のなかでこんな言葉がささやかれるようになった。
 「減反に協力すれば自殺で、協力しなければ他殺だ」
 そして宮城県の開田農家の1人はこう言って自殺した。
 「殺されるのを待つより自分で死んだ方がいい」
 こうしたなかで、東北地方の減反目標はほぼ達成させられた。 
 そうなった経緯を山形県の庄内地方、とくにもっとも抵抗が強く、その反面行政の圧力ももっとも厳しかった余目町農協管内(現・庄内町)の例を、日時を追いながら少し詳しく紹介してみよう。

 減反の話が村内にもちこまれた時、農家は「外米や外麦の輸入をやめず、また米飯給食に補助金も出さず、米の需要拡大に力も入れずに、米の生産を減らせとして農民に犠牲をおしつけるのは納得できない」として、また「これまでの政府のやり方からみて減反でもって食管がまもられるという保証はまったくない」として強く抵抗する姿勢をみせた。当然農協も減反に反対し、協力しないとの態度をとった。
 こうしたむらの雰囲気を反映して69年12月に町議会は満場一致で減反反対を決議し、町当局も強制はしない、自主調整にゆだねるという態度をとった。
 70年2月上旬、知事は県下の全市町村長を集めて協力を要請し、市町村に目標面積を指示した。そしてこれを推進するための「生産調整協議会」をつくるよう要請した。そこで余目町当局は、町と議会、農業委員会、二農協(町には新余目農協と余目町農協の二つあった、これから農協という場合は後者を指す)、生産組合(=集落)代表、酪農家代表等々で協議会を組織しようとしたが、反対を決議している議会は入らないという。そこで3月議会まで結成は待とうと言うことになった。
 こうしたなかで農協は、農協としてどう対処するかを組合員と話し合って決めようと、2月27日、組合員集会を開催した。組合員農家940戸すべて集まり、会場はいっぱいになった。役員、青年部、婦人部代表がそれぞれ問題を提起し、それをもとに討論し、出てきた意見を集約して次のような点で意思を統一した。
「一、政府の失政による生産調整と食管堅持とを結びつけることは誤りである。
 二、場当り的農政の生産調整は原則として進めない。
 三、公約に反する生産調整の強制強権、あるいは報復措置には強く反対する。
 四、農民の主体性において生産された米は、組合組織の責任においてこれを全量買入する。
 五、もし転換休耕の希望者があれば農協的立場で団地化のなかで指導する。
 六、今後、食管制度をめぐるいかなる事態にも対応出来る美味しい米づくり運動に意志を結集し、主体性
  をもって推進する。
 七、農業をとりまく厳しい事態であればあるほど農政を学習し、農民を守る立場から多面的農政活動をよ
  り積極的に推進する」。
 一方、議会は協議会に参加しないという態度を変えなかった。それで、学識経験者として議会の議長、常任委員長が入ることにして3月20日に協議会を発足させた。そして、生産調整目標面積を個別農家におろすことにしたが、「これは押しつけではない、期待目標面積である、4月10日締め切りとするので十分に考えて自主申告してくれ」という姿勢で臨むとした。
 いよいよ締切日の10日となった。結果は惨憺たるものだった。協力するという農家は7.3%しかいなかった。これは当然のことだった。転作は土地条件からしてできないし、休耕で荒らし作りをしたらやがて減反奨励金がなくなったときどうしようもなくなるという問題があるからである。さらに田んぼを休むなどと言うのは堕農のやることであり、隣近所に堕農的な印象は与えたくないということもあった。結局は安定兼業に従事したりしている労力不足農家だけが休むということになったのである。
 こうした減反目標達成状況が各市町村から県に報告されてくる。県はあまりの低さに驚いた。当初は静観していた県も態度を変えざるを得なくなってきた。これでは農林省に対して顔が立たない、未達成の場合には農業予算の確保等で不利な待遇を受ける危険性があると、市町村に対して報復措置をほのめかしながら強く協力を要請するようになってきた。そこで市町村はやむを得ないということで協力するようになり、少しずつ達成率があがっていくようになった。しかし、余目町はその後13%に伸びた程度で、きわめて低い上に県内で最低である。
 県はこれを放っておくわけにはいかない。他の市町村の目標達成にも悪影響を与える危険性があるからである。それで5月9日、県の農林部長と農政課長が直接町に来て目標達成を強く要請した。農協の組合長SYさんのところにもきた。SYさんは農協の性格からして組合員の意思に反して組合長一個人でどうこうすることはできないと断った。これでは目標達成には行かないと見た県はさらに圧力をかけることにした。
 田植え直前の12日、県の農林課長、農政課長、庄内支庁副支庁長等々大挙して町におしかけて来た。そしてその夜、生産調整対策協議会を開かせ、協議会として個々人に目標をおろすことにさせた。翌日からそれをもって各部落をまわることになったが、県は「農協もいっしょに部落に行って説得してくれ、県職員が全面応援するから」という。これに対して農協は、説得はできない、ただし県が行政ベースで農家にお願いに行くのにまでは反対しない、だけどいっしょには行かないという態度をとった。
 翌13日から早い田んぼでは田植えが始まったが、そのなかを県と町の職員が何班かに別れて部落まで出向き、実行組合長、田植え班長等の役付きの農家を集めて説得した。集められない場合にはその農家の田んぼまで行き、苗代だけでもいいから休んでくれと頼んだ。農家は動揺した。普及員、土地改良課・畜産課職員、役場職員等々の身近な人、お世話になっている人がくるので、むげに断れない。しかも、総合資金を借りるときなどどれだけ県や町が協力したか、協力しなければ報復措置でそうした低利融資などはこなくなる、農協は米の販売収益が減るのがいやで反対しているだけだ、他では減反が進んでいるのに余目だけ取り残されていいのかと言われる。どうしたらいいか、農協に電話が殺到し、町は大混乱となった。
 そこで農協は17日の夜に理事会を開き、どうするかもう一度組合員に図ろう、集会を開いて決断しようということになったが、田植えの最中ですぐは開けない。その間も連日連夜説得にくる。田植えをしている農家のすぐそばまで行ってスピーカーで協力を訴える。県の幹部は町に泊まり込んで深夜まで達成状況の報告を受ける。まさに選挙戦さながらであった。
 こうした圧力と異常な状況のさなかの20日、町の臨時議会が招集された。そして、いいことも悪いこともみんないっしょにやろう、その上で国にお願いすることはお願いしよう、一歩後退三歩前進だとして、12月の反対決議を取り消すことにした。
 一方農協理事会は、あくまで筋を通そうという意見、このまま行けば農家は分断されてしまう、非協力を取り消すより他ないのではないかという意見の二つに割れた。話し合いのなかで次のようになった。
 いま抵抗しても県はあきらめないだろう。現に個々人に当たって切り崩している。その結果町内・集落内が協力・非協力ばらばらになったら混乱してしまう。組織が分断されてしまう。農協がここで何もしないで放置しておいたら、農協に対する不信感が生まれてくる。また、他の市町村がやっているのに自分のところだけ我が道を行くでいいのか、他の市町村の農民から余目は何だということで争いになったら困るのではないか。町とこれ以上争うのにも問題がある。議会も態度を変えている。ここと一定の歩調をあわせよう。
 そして、これまで達成した13%とは別に、目標の5割達成を農協が主導することにした。そのかわりに、これ以上県や町は農家に入らないでくれ、もうこれ以上混乱させてくれるなと要求した。同時に、減反でむだになった種籾代や肥料代については町が補償することを要求することにした。
 こうした結論をもって農協役職員が一斉に各集落に入って論議し、了承を受けた結果、5月末には69%まで上昇した。まさに農協は約束をまもったのである。
 しかし結局は目標を達成しなかった(最終的には72%)。これは余目ばかりではなかった。庄内では三川町、酒田市、鶴岡市も未達成であった。それでも当初の抵抗は行政の圧力で抑えられて目標面積に近いところまで行き、庄内全体としては達成した。

(註)
 11年4月6日掲載・本稿第一部「☆忍び寄る小麦色の影」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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