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減反目標の達成



               戦前段階からの転換期の70年代(3)

                   ☆減反目標の達成

 酒田市広野農協管内の場合は100%達成であった。
 もちろん当初は他の市町村と同じくあまりやる気はなかった。2月末に部落座談会が開かれ、地域への減反目標が伝えられたが、みんなは口を開かず、反対も賛成もしない。他の人がやったら、他の部落がやるならやるより他ないだろう、ともかくようすをみようという雰囲気だったという。4月下旬、生産調整協議会からの個人別割り当てが出てきた。しかし市は、自主調整だからと、お願いはするが強制はしないと積極的に推進する姿勢ではなかった。農協はもちろんやれとは積極的に言えないという。ということで、呑むか呑まないかは個人にまかされる形になった。
 そのうちいろんな情報が入ってくる。徐々に不安になってくる。もしも食管がなくなって米が自由販売になったら農家はもたない、食管は堅持しなければならない、もちろん減反したからといって食管が守れるという保障はない、しかし1年でも2年でも食管を伸ばしたい、減反奨励金も10㌃当たり4万円になったことだし、やむを得ないのではないだろうか。他の地域では減反協力が進んでいるという、もし協力しなければ目標達成した他の地域から「正直者はバカを見る」と自分たちに非難が集中することになるのではないか。こんなことが隣近所と話題になるなかで徐々にやらざるを得ないような雰囲気になってきた。
 こうしてやらざるを得ないと言う農家が一定数出てくると集落のみんながしたがわないわけにはいかなくなってくる。
 とくに広野の場合、共同田植えやトラクターの共同利用、つまり集団栽培をやっていたので自分だけやらないというわけにいかない。全員でやるのかやらないのかを決めなければならない。そうでないとこれまで水田の反別(たんべつ=経営面積)で割り振ってきた機械の維持費や償還金の徴収ができなくなるからである。
 かくして5月20日以降になってから、つまり耕起代掻きすべて終わってから、みんなで減反するということになった。そして目標を達成した。
 この広野の事例は、隣がやれば自分もやろうとする「隣り百姓」的性格(註1)、損するときはみんないっしょでというむらの平等主義、「集落内相互規制」が働いて(註2)目標が達成されたことを示すものである。
 このような相互規制は、東北のどこの町村でも作用し、これが東北の目標達成の大きな要因となった(これについてはまた後でも述べる)。
 なお広野の場合、この集落内相互規制が集団栽培で強化されて働いたことに注目しておく必要がある。つまり、トラクターを集落の共同で所有、管理運営し、田植えなどの作業も共同でやるということは、集落が春作業についての一種の共同経営体になっていることを示しており、その経営を維持するためには構成員の各農家が自分の農地だからといって勝手にその利用のあり方を決めるわけにいかず、経営体の意思にしたがわなければならないのである。集団栽培が普及していた庄内の場合にはこれが目標達成の一因となったということができよう。
 もう一つは、「集落間の相互規制」が働くことによって目標が達成されたことである。余目町の場合もそれが一因だった。周辺市町村の親戚などの春祭りに招かれていくと、こっちは協力したのに自分たちだけいい思いをするのか、余目は他の市町村の脚を引っ張って目標達成を妨害しているなどと皮肉を言われる、こうして冷たい目で見られるのが今後も続くかと思うと耐えられないということが協力の一つの要因だったのである。

 同じ庄内でも、目標を大幅に超過して達成したところがあった。基盤整備の通年施工を行った櫛引町(現・鶴岡市)がそうだった。
 庄内平野の南部9000㌶におよぶ赤川流域水利事業の一環として基盤整備事業が69年から始まり、上流の櫛引町からまず実施されていたのであるが、減反開始の70年、予算請求のための農政局のヒヤリングで計画の8割以上を通年施工(註3)でつまり減反をしてやるように、そうしなければ前年予算の7割しかやらないと局から申し渡された。もしその言うことを聞いて通年施工すると米を全然作付けできない地域や農家が生まれる。だからといって拒否すると昔から待ち望んでいた土地改良がいつまでかかるかわからなくなる。櫛引ではこれまでほとんど土地改良に手をつけておらず、用排水路の整備、水田客土、大型農道、大型区画整理等を内容とする基盤整備が待ち望まれていたので、それでは困る。いろいろ論議されたが、減反目標達成のために単純休耕するなら減反する面積が増えても通年施行の方がいいということになった。しかも夏工事になるために工事費は3割自己負担の15%、10㌃当たり6000円安くなる。もちろん稲作所得は減反奨励金をもらっても減るが、基盤整備の工事人足に出ればその収入が入る。かくして、前年の2倍、全水田面積の3割の水田の基盤整備が通年施工でなされることになり、減反目標達成率は142.8%、超過達成となった。
 この基盤整備の通年施工が東北で急激に増え、庄内と同じようにこれが東北の目標達成の大きな手段となった。

 しかし、こうした通年施工地域を除いて、既成の稲作地帯ではなかなか目標を達成しなかった。
 それを補ったのが開田で水田面積を大きく増やした地域をかかえている市町村であった。たとえば、かつての畑作地帯で60年代に急激に水田面積をふやした地域の多い青森県の場合は249%と、北海道に次ぐ目標達成率で、大きく超過達成した。なかでも新規開田の多い上十三地区では目標の4倍近い面積を減反し、三沢市では目標147㌶に対して976㌶と7倍近い達成率となっており、減反面積はこの数年の開田で増加した面積とほぼ等しい状況になっている(註4)。
 このような目標の超過達成は次のような理由からだった。
 70年ころは、かなりの資金をつぎこんだ開田地での稲作がようやく軌道にのりはじめたころだった。そこに減反である。そして米価据え置きとくる。いつまで食管が続くのかもわからない。その上この地域で栽培している品種トワダはまずくて売れないという。減反に反対して買入制限などのペナルティが政府から課せられたら困ってしまう。うまい米地帯のようにヤミ米業者が買ってくれないからだ。単収もまだ低位・不安定である。これでは一体どこに展望があるだろうか。ササニシキなどをつくれる既存の米どころではまだ米が売れるという展望は残っている。ところがここではひとかけらの展望も残されていない。一割程度減反するのであれば、どうせだから全面休耕して通年出稼ぎにでも行った方がいい。かつての畑作所得以上の減反奨励金が黙って入ってくる上に、通年出稼ぎで稼げば開田のさいの借金も返せる。こうして全面休耕した農家がかなり多かった。それ以外にも、開田地は揚水さえ止めれば容易に畑地化できること、畑作経験があること等から、畑作転作に容易に取り組めることもある。この畑作転作の所得と減反奨励金を加えれば、それほどの所得低下はない。それで減反してもいいということになる。こうしたことが三沢の減反達成率が7倍にもなった大きな理由となったのである。
 また山村の目標超過達成も多かった。山村となると三沢以上に展望はない。面積は零細で経営条件が悪く、過疎化も進んでおり、ここで減反反対などとがんばってもどうしようもない。条件の悪い水田はすべて休んで奨励金をもらった方がいいということになる。
 かくして東北における減反目標が達成されたのである。

(註)
1.11年5月6日掲載・本稿第二部「☆集団栽培・隣り百姓・集落エゴ」(3段落目) 参照
2.11年1月5・6・7・10日掲載・本稿第一部「むら社会(1)~(4)」参照
3.一般に土地基盤整備は作物を栽培する期間を除いて(たとえば水田の場合は晩秋から早春にかけて)なされるのであるが、作物を栽培せず、つまり休耕して、一年中通じて基盤整備の工事を行うことを「通年施工」と言う。

4.三沢市の開田については下記の記事で述べているので参照されたい。
  11年5月11日掲載・本稿第二部「☆水田面積の拡大―開田ブーム―」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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