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増収意欲の復活とうまい米づくり



               戦前段階からの転換期の70年代(4)

               ☆増収意欲の復活とうまい米づくり

 1970(昭和45)年の夏、前回書いた山形県庄内の櫛引町(現・鶴岡市)に行った。土地基盤整備の通年施工で休耕している田んぼには一面草が生えていた。何百年とこの土地を草一本も生やさずに維持してきた先祖はこの情景をどう見るだろうか。何か悲しかった。それでもここは来年は美田となって帰ってくる。これが救いだった。
 この櫛引に行く途中の列車の窓から田んぼを見ると、緑の稲のなかにぽつりぽつりと穴が空いたように何も植えられずに黒い土を見せている田んぼがある。単純休耕田である。田んぼの端に白い紙を挟んだ細い棒が立てられている。普及員と役場の職員が立てた減反確認の立て札である。何と不毛の仕事をさせられるのだろうと普及員たちはよく嘆いていた。
 翌年になるとこうした田んぼがまた増えた。71、72年には2割減反と目標が大幅に引き上げられたからである。この減反面積は1965年以降開田した面積と匹敵し、急上昇してきた東北地方の稲作生産力はここで停滞させられることになった。
 しかし、農家は休耕田に草を生やさなかった。山間部の一部の町村では休耕田の耕作放棄が始まりつつあったが、ほとんどの農家はいつでも米づくりに戻れるようにしていた。まだまだ米づくりの意欲は強かった。
 そして農家は増収の努力をやめなかった。70年には「1割減反、2割増収」というかけ声すら村々で聞かれた。1割の減反分=減収分を2割の増収で補おうというのである。庄内では例年にない密植を行なって増収を図ろうとしたところもあっという。秋田の五城目町では減反さなかの70年から各集落の農事研究会が750㌔への挑戦ということで試験田を設置し、先進地視察を継続する等増収に取り組んでいるが、これなどは東北の農家の増収意欲いまだ衰えずを示す典型事例といえよう。

 そうこうしているうちに過剰在庫米は減ってきた。それに対応して1973(昭和48)年から減反目標面積は減らされてきた。
 ちょうどこの73年から74年にかけて世界的な異常気象が襲い、穀物の国際価格が異常に高騰し、アメリカは大豆の輸出を禁止し、世界はいわゆる「食糧危機」におちいった。その価格高騰に拍車をかけたのが同じ73年の第4次中東戦争、それに伴う世界的なオイルショック=「石油危機」であり、また商社等の買い占め売り惜しみであった。
 当然のことながら、穀物をアメリカに依存し、エネルギーを石油メジャーに依存しているわが国は大きな打撃を受けた。豆腐は連日のように値上がりして短期間のうちに2倍近くにはねあがり、トイレットペーパーが手に入らなくなるかもしれないと消費者がスーパーに買い占めに走るなど、消費者は狂乱物価と言われた異常な物価高騰で大パニックにおちいった。畜産農家は飼料価格上昇で打撃を受け、飼料がこないために家畜が餓死寸前に追い込まれたりしたものすらあった。
 しかし、かつての米騒動のような事態にはならなかつた。米だけは自給しており、食管制度で消費者米価の暴騰は抑えられており、ともかく食えたからである。
 この食糧危機の影響もあって減反目標はさらに少なくなり、達成の圧力も弱まってきた。また、諸物価高騰の影響もあって米価はふたたび上昇に転じた。

 こうしたなかで農家の増収意欲はさらに高まった。庄内地方では73年から良質米高位多収800㌔実証田を設置する等、各県の増収への取り組みも再開された。
 その結果が1975年の史上最高の豊作であった。山形県は612㌔で全国第1位となり、2位は秋田の576㌔、3位青森、そして宮城の9位516㌔まで東北6県すべてベストテンに入った。戦前には考えられないことが起きたのである。
 こうして増産に取り組んだにもかかわらず、75年には米の需給が逼迫する事態になった。そこに76年の異常気象による減収がある。そこで減反目標面積は最高時の71年50万㌶から76、77年の2万㌶まで大幅に減らされた。この2万㌶の4分の1が通年施工による目標達成であるから、多くの農家にとって減反はないに等しかった。
 こうしたなかでふたたび開田意欲がよみがえり、75~78年の毎年5千㌶強ずつ水田面積が東北で増えていった。
 それも一因となってふたたび米過剰が大きな問題となり、78年から第2次減反が始まることになるのだが、東北の農家の多くは減反は一過性のものであると考え、稲作に対する意欲を失わなかったのである。

 増収に力を入れる一方で、農家は「うまい米づくり」にも力を入れるようになった。69年から自主流通米制度が取り入れられ、いわゆるうまい米でないと高く売れないという状況が出てきたからである。
 幸いなことにそのうまい米は東北にあった。1970年から東北トップの作付面積となっていたササニシキがそうだった。当初は単なる多収品種でしかなかったのだが、銘柄格差が導入されたのを契機にうまい米に変身したのである(註)。そして当時ササニシキはコシヒカリ以上に人気が高かった。ササの産地である宮城仙北の農協幹部に「自主流通米の売れ行きからみて政府にたよらなくとも農協単独で米を売りさばく自信がある」と言わせ、米穀集荷業者の激しい買いあさりぶりから「つくればつくるほど売れる」と宮城の農家に言わせ、さらに庄内の農民に「食管がはずれても庄内米の名声は生き残る、食管以後をきりぬける自信がある」とすら言わせたほどであった。
 そしてササニシキの作付面積はまずその育種をした古川農試のある宮城で急激に増加した。また、庄内では76~78年にササニシキ作付80%、800㌔取りの運動を展開している。その他山形内陸、福島、秋田由利、岩手県南で一挙に増えた。さらにササニシキの山登りと言われるように不適地と言われているところにさえ導入されるようになった。
 ただし、東北の北部や山間部ではササニシキを導入することはできない。そしてまずい米地帯といわれている。そこで相対的においしいと言われる品種、たとえば青森ではアキヒカリに集中することになる。しかしその人気はササニシキに遠く及ばなかった。

 こうした状況のなかで、宮城などの農家のなかに次のように言う人も出てきた。
 「北海道や青森のようなまずい米の地帯は米をやめろ、減反はそういうところですべてやれ、適地適産で行こう」
 全国の青年のある集まりで宮城の青年がそう発言したという。そしたら北海道の青年が次のように答えた、
 「うん、それはいい考えだ、おっしゃる通りにこちらは米をやめよう、そのかわりに内地は酪農をやめてくれ、適地適産なら北海道に酪農はすべてまかすべきだ」
 宮城の青年はぐうの音も出なかったという。

 後に述べる青森県黒石市の調査の時、農家がこう言って怒っていた。
 「米にはうまいまずいなどというのはない、うまい米とは商人にとってのうまい米、商人にうま味のある米のことなのだ、それにだまされて青森の米はまずいなどと悪口をいう宮城の農家はけしからん」。
 その夜、その農家の方といっしょに飲んだ。いいあんばいに酒がまわったころ、
 「川を挟んだ隣の集落の米はまずい、黒石で一番うまいのはうちの集落の土地でとれた米だ」
と、大声で自慢する。
 うまい米などはないといいながら、あるとも言う。これは矛盾している。しかし両方とも正しい。ササニシキが後にだめになったのは商人にうま味がなくなったからだったし、やっぱり土や気象、品種によって味の差はあるものだからである。

 こうしたなかで各県の試験研究機関は食味のいい品種の開発とその普及に力を入れることになった。品種改良は増収から良質へと大きく転換し始めたのである。宮城でも弱点の多いササニシキをこえる品種の開発に取り組み始めた。しかしそんなに簡単に改良品種がつくれるわけはない。各県の試験場の研究者にとってはまさに苦難の年月が続くことになる。
 さらに、東北南部でのササへの集中、北部でのアキヒカリへの集中の弱点は80年の冷害で暴露されることになる。

 このように東北は減反をめぐってさまざまな動きをしたのであるが、そのさなかにあるにもかかわらず中型トラクターが普及し始め、そのうちバインダー、そして田植機、さらに自脱コンバインが急速に普及し、稲作の中型機械体系が70年代後半に確立した。これは画期的なことだった。

(註)
 ササニシキについては下記の掲載記事を参照されたい。なお、かなり後になるが、このササニシキが凋落する過程について述べる予定でいる。
 11年3月9日掲載・本稿第一部「☆水田二毛作と用畜の導入」(1、4段落)、
 11年4月26日掲載・本稿第二部「☆夏から秋の稲作技術の変化」(2段落)


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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