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稲作機械化一貫体系の確立


               戦前段階からの転換期の70年代(5)

                ☆稲作機械化一貫体系の確立

 戦前、宮城県鳴子町(現・大崎市)川渡温泉の北側の山のなかに陸軍の軍馬補充部が所有・利用する広大な林野があった。戦後これが東北大学農学部の附属農場となり、その林野の一部を畑地と草地にし、若干の水田もつくった。この農場に私どもは学部の3年になると、7月中旬と10月初旬の2回、それぞれ1週間泊まり込んで実習をした。
 畑地と草地はきわめて広く、北海道にいるような気持ちがするくらいだった。春に行ったときその畑の中耕作業をさせられたが、それを北海道のように馬でやる。東北での牛馬耕は田畑に作物がないときに行なうものであり、作物が植えてある畝の間を牛馬を歩かせるなどというのは一般的には見られない。だから私にとってはこれが初めての体験だった。
 トラクターを見たのも初めてだった。キャタピラーで動くドイツ製のと、大きなタイヤをつけたアメリカのフォードソンのトラクターがあった。このドイツ製のトラクターの運転実習もあり、みんな大いに喜んだ。1956(昭和31)年のことだから自家用車の時代でもなく、みんな生まれて初めて「運転」なるものを体験することができたからである。
 そのとき農業機械の先生が私どもに次のように教えた。日本ではトラクター化はできない、火山灰土壌と水田という条件のもとでは無理なのだと。
 私もそうだろうなと思った。こんな大きな重いトラクターが日本の湿った田んぼに入って耕したり、代掻きをしたりすることはできないだろうと考えたからである。田植えや稲刈りの機械化はましてやである。あの手作業を機械で置き換えることなどできるわけはない。実際に60年代初頭の第一次農業構造改善事業で導入した外国製の大型トラクターや大型コンバインは失敗した。
 ところがである。農場で話を聞いてから10年も過ぎないうちにそれらの機械ができあがり、一挙に普及し始めたのである。

 まず60年代の終わりころから乗用の「中型トラクター」が急速に普及し始めた。田んぼの中にずぶずぶ沈んだりしないし、車輪のわだちも傷のように残らない、耕耘機より性能はいいし、泥の中を歩き回らなくともすむので仕事は楽である、何とすごいものだろうと思ったものだった。
 そのうち稲の「刈り倒し機」が見られるようになる。これには人力、動力の二種類あったが、ともに稲を刈って倒しておくだけで、腰を曲げて手で稲を束ねるのは変わりなく、作業効率はさほどよくないのであまり普及しなかった。人の手で行う結束を機械化するのはきわめて難しく、収穫過程の機械化はやはり無理なのだろう、そんなことを考えているうちに刈り取りと結束を同時に行う「バインダー」が開発され、70年前後から急速に普及するようになった。わらではなくて輸入麻を原料とする紐で束ねるのには若干抵抗があったが、それでもともかく技術者はよく考えたものだと感心したものだった。
 このバインダーは、《刈り取り+結束→自然乾燥→脱穀→貯蔵・調製》というこれまでの収穫の作業工程を変えるものではなく、刈り取り+結束を機械化しただけだったが、もう一方でその工程を大きく変える機械化が進んだ。
 さきに農業構造改善事業などによる外国製の大型コンバインの導入について述べたが、これは収穫の作業工程を《刈り取り+脱穀→火力乾燥→貯蔵・調製》というように大きく変えるものである。すなわち、コンバインはまず刈り取りと脱穀を同時に行う。そうなると結束は必要なくなるが、これまでのような棒掛けなどによる自然乾燥はできなくなるので生籾を人工的に乾燥させる施設がどうしても必要となる。つまりコンバインは「ライスセンター(大型乾燥調製施設)」の導入と結びついていた。しかし、大型コンバインには先に述べたようにいろいろ問題がある。それでコンバインの利用はやめることになるが、そうするとライスセンターはむだになる。そこで導入されたのが、新たに開発された「生脱穀機」であった。収穫したばかりの稲穂から軟らかい生の籾を傷つけることなく穫ることのできる機械ができたのである。そこで稲を借り倒し機や手で刈り取り、それをすぐに田んぼで生脱穀機により脱穀をし、できた生籾をライスセンターに運んで火力で乾燥することができるようになった。つまり《刈り取り→脱穀→火力乾燥→貯蔵・調製》という行程への変化が可能となったのである。この生脱穀機を初めてみたのは1965年秋田県仙北町(現・大仙市)の構造改善事業地区だったが、まだ開発されたばかりのものだった。
 70年代になると、籾の損傷や損失も少ないというこの生脱穀機の性能と刈取機の性能とを併せ持ち、しかも比較的狭い日本の農地に合わせた中小型・歩行型(後に乗用型もできた)の刈取+脱穀の結合機械、いわゆる「自脱型コンバイン」が開発された。
 ほぼ同時に、個人でも導入できる小型の「火力乾燥施設」も開発された。つまり農協や集落の所有する共同利用施設のライスセンターを利用しなくとも、あるいはそれが地域になくとも、自脱コンバインの導入が可能となった。
 そこでこの自脱コンバインが規模の大きい農家に導入されるようになった。稲刈りと自然乾燥に要する労力を大幅に削減するものだったからである。とくに秋雨が長くて自然乾燥の難しい日本海側の平坦部に導入された。そしてそれで収穫した生籾を集落共有もしくは農協有のライスセンターか個人所有の火力乾燥機で乾燥するようになった。
 一方、バインダーは小規模農家、区画や経営面積の小さい中山間地帯、さらに稲わらをとくに大事に取り扱う必要のあるわら加工農家や畜産農家に導入された。
 かくして70年代が終わる頃には収穫過程はほぼ機械化されるようになった。そしてその主流は自脱型コンバイン+乾燥機となり、秋の作業は《刈り取り・脱穀→火力乾燥→貯蔵・調製》という工程に大きく変化することになる。
 それはまた、棒がけ、はざ掛けの田んぼが一面にひろがる日本の秋の風景を消滅させるものでもあった。山形県庄内平野の棒がけ、新潟県蒲原平野のはさかけの一面に広がる風景はよく写真家によって撮され、写真展や新聞・雑誌などで紹介されたものだが、その見事な風景は見られなくなってしまった。

 田植えの機械化はこの秋作業の機械化より若干遅れた。
 これは当然のことだった。幼苗を何本か指ではさんで田んぼの泥土に挿すという作業を機械化するのはきわめて難しいものだったからである。
 そこで政府は「直播」を普及しようとした。つまり収穫は大型コンバイン、田植えは播種機による直播の導入で省力化を図るとしたのである。そして1961年から各県に機械化実験農場の設置と試験研究機関による試験、構造改善パイロット事業実施地区での試験を行わせた。同時に八郎潟干拓地では全面的に直播を採用させようとした。しかし農家の受け入れるところとはならず、結局定着しなかった。収量が低位不安定だったからである。もちろん全国的に見るとまったく普及しなかったわけではない。たとえば岡山、佐賀の秋落ち地帯の一部で普及していた。1970年に調査に行ったときなぜなのかしつこく聞いたが、簡単に言えば直播で秋落ちの被害が回避でき、反収が増えるからだった。しかし寒冷地の東北では幼苗期の保護ができないし、どうしても収穫が落ちてしまう。ましてやヘリコプターなどで播種したらどうしようもない。八郎潟などでは完全な失敗といってよかった。
 こうしたなかで農機具メーカーは田植え機械の開発に取り組み始め、70年前後には各メーカーが歩行型の動力田植機を開発するにいたった。最初それを見たとき驚いた。機械の上に載せられた苗を金属製の植え付け爪が手指と同じように2~3本挟み、機械が前進するとともにその植え付け爪が動いて田んぼの土にその苗を挿し込む、同時に苗を離す、そしてまた今の行動を繰り返す、よくもまあ考えたものである。
 この「田植機」が70年代後半急速に普及し、手植えはほとんど見られなくなった。
 同時にかつての水苗代、畑苗代も見られなくなった。田植機で用いる苗は、「育苗施設」のなかで育苗箱に播種・育成された稚苗と言われる草丈約10㌢程度の幼い苗に変わったからである。

 こうして耕起・代掻き、育苗、田植え、防除、刈り取り、脱穀、乾燥、調整すべて機械化・施設化されることになった。いわゆる「中型機械化一貫体系」が稲作において70年代後半に確立したのである。
 このように、日本農業に適合した機械、しかも微細な手作業を代替する機械まで、きわめて短期間で開発したことは日本の技術者の優秀さを示すものであった。そしてこれは、欧米の単なる模倣をして機械化を推進しようとした第一次農業構造改善事業などの誤り、アジアという風土に適した技術開発の重要性を示すものでもあった。
 もちろん、いかにこうした機械化体系が開発されてもそれが実際に普及するかどうかは別問題である。
 わが国でそれが普及したのは、低いとはいえ生産費が補償されている米価と兼業収入によるものであった。また戦後の安い石油の輸入に基づく重化学工業の発展、大量生産技術の農業資材生産分野への適応、資本の市場としての農業分野の把握の重視、機械・施設導入にさいしての多額の補助融資、その結果としての機械・施設の相対的低価格であった。この二つがあったからともかく農家は購入できたのである。
 さらにもう一つ、高度経済成長にともなう農村からの労働力流出があった。この点に関しては、宮城県における田植機普及の驚くべき速さからわかるであろう。

 私が大学院博士課程の頃の1960年からの2年間、宮城県農業試験場の経営部からアルバイトを頼まれた。農試創立60周年記念誌をつくるのでその手伝いをしてくれというのである。賃金をもらいながら研究できるのだからこんないい話はない。早速お引き受けし、2日に1度ずつ当時仙台市北東部の小田原にあった試験場に通いながら、稲作生産力の変化についてさまざまな資料を収集整理し、原稿を書いた。
 そのさなかのあるとき、経営部長のOIさんから聞かれた。
 「宮城の稲作技術は山形に5年から10年遅れる、なぜなのか」
 そういわれてみれば、私が仙台に来た頃、麦でしか見たことのない黒穂病やめったにお目にかかることのなくなっていたイモチを見て、また山形ではとっくに使っている肥料や農薬を使っていないことで驚いたことがある。それで調べてみたら、たしかに宮城は遅れている。明治期の馬耕や耕地整理の導入から始まって、新品種や脱穀・籾すり機、新しい肥培管理技術等の導入は山形に必ず遅れ、水稲の収量も低い。もう一つ不思議だったのは、10㌃当たり労働時間も少なく、田植えや稲刈りの日雇い賃金が山形より低いと言うことである。
 私にもその理由がわからなかった。そしたら部長は言う。
 「仙台人に進取の気性がないからではないか、労働時間が少ないのはそもそも堕農だからではないか、それしか思いつかない」
 そのときは私も思わずうなずいてしまった。
 しかしそうとばかりはいえなかった。それが何となくわかってきたのはかなりたってからであるが、原因の一つは土地条件にあった。同じ水稲単作地帯である庄内と比較すればよくわかるが、きわめて単純な言い方をすれば庄内は用水不足地帯、宮城は排水不良地帯である。庄内の水田は大河川からの用水なのでその水引が大変だが、宮城の水田は沼の干拓によりつくられたものだから用水はそれほど問題はない。しかし、湿地帯である。そのために基盤整備は難しく、馬耕なども入りにくい。それで耕地整理が庄内よりも遅れることになる。
 それから気象条件がある。宮城は積雪が少なく、春も早く来るので、耕起・代掻きはそれほど急がなくともよい。冬の長い庄内の場合は、田植えの適期を逃さないために耕起・代掻きを早く終わらせようということから馬耕を導入する意欲が高い。また、秋雨が早いために、収穫、脱穀、調整を急がなければならないので、その技術革新に対する関心は宮城よりもずっと強い。
 このように作業の適期が気象条件からして短期間である庄内、内陸では、大量の労働力で田植えや稲刈りを一気に終わらせなければならないので、雇用に対する需要が多く、日雇い賃金は宮城よりも高くなる。
 さらに宮城における6~7月の低温多湿は肥料の分施等の肥培管理の効果を弱めるので、管理に熱心に取り組んでもそれほどの効果は上がらない。それでその投下労働は庄内、内陸よりも少なくなる。働かないのではなく、働いてもしかたがないのである。
 こうしたことが宮城の稲作技術の後れをもたらしていたのであるが、たった一つ、1970年代の田植機の導入と普及だけはすさまじく早かった。山形よりはもちろん全国的に見てもその普及速度は速かったのである。
 これは、高度経済成長の波が仙台にも押し寄せ、急激に兼業化が進んだことからもたらされたものであった。次三男・若い女性が都市に流出したばかりでなく、かつて農業内外の日雇いなどに出ていた零細農家や非農家が仙台市などの農外に恒常的に就業するようになった。それでかつてのように田植えに来てくれる人がいなくなった。何とか探して頼みに行く。すると他の農家とぶつかる。それで奪い合いとなる。こうした雇用労働の奪い合いのなかで、雇われる側は雇い主を選ぶようになる。あそこの家は飲み食いが悪い、こっちの家は飲み食いはいいし金もいい、そうなると飲ませ方のいい農家にはすぐに行き、悪い人には最後に行く。本分家関係とか義理とかはあまり関係ない、金と食い物で動く。当然田植えの労賃は急上昇する。それでも人手が集められなくて田植えが適期にすべて終わらない農家すら出てきた。
 こうしたことから田植機に対する関心はきわめて高かった。それで開発されるやいなや一気に普及することになったのである。
 これに対して、稲刈りに関する機械化はそんなに早くはなかった。人手不足に悩むことでは同じだが、日本海側のように秋雨に追われることはないので適期は相対的に長く、少なくなった労働でも何とかできたからである。それでもやはり全国的な流れと同じく、宮城でも収穫機や乾燥機の導入が進んだ。農業労賃の高騰、その背景にある農業労働力の流出が機械化を進めたのである。
 このように、機械はこれまでの苦役的な労働から自らを解放しようと言うことからではなく、労賃を節約しようということから導入されたものであった。まさに資本主義社会における機械化の論理、つまり機械は労働者の労働を軽減するためではなく、労賃の負担を軽減するために導入されるという論理が農業においても貫徹したのである。
 なお、70年代に進んだササニシキへの異常な集中が田植えと収穫の機械化を異常なスピードで進めたことも見落としてはならない。一品種への集中は田植えや収穫の期間を短くさせるが、その短い適期を逃さず作業を終えるために機械を導入せざるを得なかったのである。

 それはそれとして、ともかくこうした稲作機械化一貫体系の確立と普及は、これまでの苦役的な過重労働からの解放をもたらした。また田植えと収穫の機械化は労働ピークを切り崩した。長年の農家の悲願がかなったのである。
 またそれは農家のむらからの自立化、家族による自己完結経営を可能にした。ゆい・手間替えはもちろんのこと雇用もいらなくなり、末端水路の掃除などの共同作業以外むらのきまりに縛られることもなく、家族だけで自立して自由に経営ができるようになったのである。まさに「独立自営農民」(もちろんかっこ付きだが)となった。これはわが国の稲作が始まって以来のことだった。
 しかし、喜んでばかりはいられなかった。稲作機械化一貫体系の確立はこれまでの歴史的に形成されてきた経営規模と矛盾するものだったからである。田植えと収穫の機械化で完結した機械化一貫体系は旧来の経営規模の限界を打破すると同時に、これまで長く続いてきた1~2㌶規模の家族経営を破壊するものでもあったのである。
 その破壊の過程は機械化が従来の家族経営の規模に適合していた家族労働力の一定部分を過剰にするという形をとってまず発現した。これを解決するために必要となるのは、過剰となった労働力を稲作以外の作目・部門を導入することで燃焼させていくこと、いわゆる経営の複合化を推進することであった。
 また破壊の過程は、従来の経営規模では機械・施設を効率的に稼働できず、いわゆる過剰投資を引き起こすという形をとっても現れる。この解決のためには経営の組織化、つまり機械・施設の共同所有、共同利用を組織化することが必要となった。
 しかし、農産物輸入の拡大のなかで複合化はなかなかうまく進まなかった。とくに湿田などで畑作物の導入が困難な水稲単作地帯では、過剰となった労働力は他産業に吸収され、さらに都市に流出することになった。
 組織化もなかなかうまく進まなかった。それどころか機械化を契機に組織がこわれるところすら出てきた。庄内の水稲集団栽培の解体がその典型であった。70年代に入って田植機が導入され、トラクターの小型化とその相対的低価格化によって中上層農が個人で購入できるようになったために下層農家の田植え期の雇用労働が不要になったこと、つまり自分の家族労働だけで農作業ができるように、経営の自己完結が可能になったことを契機に、ほぼ全面崩壊してしまったのである。これはトラクター作業の受委託と田植えの共同作業への出役をめぐって組織構成員内部に、上層農と兼業下層農との間に矛盾があったこと、上から組織されたという側面の強い組織もあったことからも来ているが、いずれにせよ農家の自己完結意識、独立自営意識がいかに強かったかがうかがえよう。そして多くの農家が機械の個別所有に走ることになる。当然過剰投資である。それを補うために兼業に出る。すると複合化などできるわけはない。労働力はさらに過剰となり、若者は流出することになる。

 このように、機械化は高度経済成長のもとでの労働力流出が一因となって進んだのだが、それは逆に農業労働力を流出させる原因ともなった。原因は結果ともなったのだが、これは法則的なものでやむを得ないことでもある。これまでの手労働と畜力が機械に変わる、農家の仕事だったものが工業の仕事になるのだから、これまで農業で用いられていた労働力が工業等に移動するのは当然なのである。つまり、機械化等で稲作への投下労働時間は減少するが、その代わりに農業機械、施設、除草剤等の生産に投じられる労働時間は増えている。そうなれば稲作で短縮された労働時間は機械製造業等で用いられねばならないことになる。したがって農業人口が減少するのは必然なのである。
 問題となるのは、その人口の減少が農業の衰退と並行して進んだことである。農産物の輸入、その結果としての複合化等の困難を根本原因とする農業の衰退が農業人口を減少させているのである。本来なら、農業人口の減少は農業生産力の発展と並行して進むはずなのに、わが国の高度経済成長以降の農業人口の減少は逆に農業衰退と並行して進んだのである。そしてその農業人口の減少がまた農業の衰退に拍車をかける。こうした悪循環におちいったのであるが、それに拍車をかけたのが、農民の自己完結志向であったといえるのではなかろうか。これについてはまた後に述べる。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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