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水田の基盤整備の進展



               戦前段階からの転換期の70年代(6)

                 ☆零細分散耕地制と耕地整理

 いまから10年くらい前のことである。財務省から農水省に出向しているキャリア官僚が霞ヶ関から出張で宮城県のある農業水利事務所にきた。いろいろ説明をし、現場も見せたところ、非常に勉強になった、田んぼには用水路と排水路の二つが必要だということを初めて知った、稲作とか水田とか一言で言っても大変なものなのだということがよくわかった、これからもがんばってくれと感激して帰った。
 この話を農政局の人から聞き、それをある農家の人に話した。すると彼は憤慨した。稲作をまったく知らないこういう役人がいるから日本の農政はだめなのだと。私もそうは思う。しかし彼を責めるわけにはいかない。いま都市住民のほとんどが田んぼというものを知らないからだ。それよりも、きちんと話を聞き、理解をし、感激して帰ったと言う彼をほめてやっていいのではないか。いい話ではないか。こうした農業の理解者を増やしていく必要があろう。こう私は言ったのだが、実は農学部の学生のなかにも田んぼのことをまったく知らない者がいる。以前はみんながすでに知っていることを前提にして講義してきたのだが、そういうわけにはいかなくなってきた。こうした学生に講義で田んぼをどう説明すればいいのか。とくに畑作地帯の網走で農大の学生に説明するのには困った。
 そこで学生には次のように水田を定義することから話しを始めることにした。水田とは「水稲栽培を目的につくられ、湛水・灌水・排水装置をそなえた耕地」のことだと。つまり水田は畑のようにいろんな作目をつくるためではなく稲作を目的としてつくられたものであり、その水稲に不可欠の湛水をするための畦畔、耕盤、均平な地表面、また灌水のための用水路と水口(みなくち)、さらに排水のための排水路と水口という装置をそなえているのが水田であり、まさに特殊な耕地である。なお、畦畔は農道を兼ねているが、その畦畔で隣の田との境界がつくられる。その畦畔で区切られ、囲まれた土地を区画という。もちろんこんな言葉だけではわからない。そこで図を書いて説明する(このことについては後日改めて詳しく述べたい)。
 いうまでもなくこうした水田を造成するためには畑などとは比較にならないくらいの技術、労力と資材が必要とされるが、かつての低い土木技術水準のもとでは水田の区画は零細、不整形とならざるを得なかった。起伏、急傾斜の多い日本ではなおのことだった。畑でさえ土壌の流亡を抑えるために段々畑のように傾斜に応じて区画を小さくしなければならないのに、水田の場合はそれに加えてその表面=田面の均平化が必要だからである。畑なら若干の傾斜があってもいいが、いま述べたように水田は水をためておかなければならず、地表面の均平化が必要となるのである。しかし地表面が均平な大区画の水田を造成するのは当時の技術水準では無理である。だから傾斜の強いところほど棚田のように区画は零細、不整形となった。
 こうして小区画となったのだが、その方が水確保や水管理にとってもよかった。たとえば干魃のときなど大きな区画の水田であれば全体に水がまわらず収穫皆無になってしまう危険性があるが、小区画の水田に分かれていればそれぞれにきめの細かい水管理ができ、ある場合には少ない水を一部の区画にだけ入れてそこの用水を確保し、収穫皆無を免れることができるからである。
 農家はこうした零細区画の水田の何枚かをあちこちに分散して所有もしくは借入して経営してきた。当然そうなると、各農家の分散した零細な区画の経営耕地が入り乱れて、つまり錯綜して存在することになる。それでこうした圃場の状態を「零細分散錯圃制」と呼ぶのだが、これは水田の性格と造成技術の水準との関係、わが国の土地条件、社会経済の変化等から歴史的に形成され、また引き継がれてきた。
 そしてそれでかまわなかったし、それなりの意味をもっていた。というのはわが国では同じ条件の平坦な土地が広大に広がっているわけではないからである。土壌、気象条件の異なる土地が複雑に交錯している。こうしたところでは耕地を分散させて耕作した方がいい。危険分散ができるからである。たとえば、川の近くで水害を受けやすい土地と川から遠くて干ばつを受けやすい土地をそれぞれ分散してもっていると、水にかかわる危険が分散できる。また手労働段階における作季、適期の厳しさのもとでは労力の分散にもなる。つまり一ヶ所にまとまっていたら限られた期間に作業を終わらすのは容易ではない。しかし条件の違う土地であれば、たとえば田植えの時水の早く来る土地と遅く来る土地とを経営していれば、作業の適期が異なるので労力の分散ができる。
 このように零細分散錯圃はかつての技術水準のもとではやむをえなかったものであり、それなりの合理性も持っていた。
 しかし大変だった。私の生家でも2㌶強の水田がたしか8ヶ所に分散し、そこに1枚1㌃弱から最高5㌃の小さい区画の田んぼの何枚かがあったように記憶している。このようにばらばらだったから、小さい頃はどこに自分の田んぼがあるか覚えるのが大変だったし、移動するのにも時間と労力がかかり、水管理なども大変で、本当に不便だった。それでもこれでまだ良い方で、80枚近い田畑が30ヶ所にも分散しているなどという2㌶経営農家もあった。本当に不便だった。
 「隣の土地は借金してでも買え」という言葉があるが、これはこうした耕地の零細分散のもつ問題点を示しているものでもあるのだろう。
 この零細分散錯圃、これがわが国農業の特徴であり、それが日本農業の発展を阻害する要因となっているとわれわれは学んできたが、たしかにそうした側面ももっていた。

 いうまでもないことだが、水田の装置や区画の状況により、収量や投下労働時間は大きく異なる。そこで農民はいかにこうした土地条件を整備するかを工夫してきた。
 たとえば用排水については、水の掛け流し水田から水路で用排水する水田へ、それから用水路と排水路を分離した水田へ、さらに暗渠排水の敷設へと進歩させてきた(これについても後日詳しく述べる)。
 また区画については、明治期の牛馬耕の普及に対応して水田の区画を長方形にし、区画の面積も10㌃もしくは5㌃に大きくするなどしてきた。また牛馬車による生産物や資材の運搬への移行に対応して農道の整備も進めた。しかしこうした耕地整理は平坦部では進んだが、傾斜のある地域ではなかなか進展しなかった。当時の土木技術が人力・畜力段階にあったことから傾斜のきついところで田面を均平にしたりするのは容易ではなかったからである。
 1960年以前の山形の庄内平野と内陸部などはまさに対照的だった。小学6年(1947年)の修学旅行で湯野浜温泉に行ったとき、陸羽西線の列車が庄内平野に入ったとたん、先生が窓から田んぼをよく見るようにと大きな声でみんなに注意した。みんな驚いた。私たちの住む村山盆地などの内陸部は水路も畦畔もぐにゃぐにゃに曲がり、大小さまざまの小さい水田が雑然としているのに、庄内平野は一面1反歩=10㌃区画で整然としていたのである。
 この庄内平野に、田植え時期の差異を利用して、内陸部から田植えの日雇いに何日間か泊まり込みで雇われていく農民がいた。女性もいれば男性もおり、未婚の場合それをきっかけに雇った農家や地域の男女と結ばれ、親戚になるということもあったらしい。
 その彼らがよく言っていた。庄内の田植えはとっても疲れると。同じ田植えなのにどうしてなのか。彼らは言う。田んぼに入ってから畦にあがるまで延々と100㍍、じーっと腰を曲げて苗を植える、こんなに疲れることはないと。内陸の不整形小区画だと、ちょっと行っては畦にぶつかるので、そこで腰を伸ばして一息入れることができる。小さい田んぼではすぐに終わり、やや大きい田んぼは少し時間がかかるなど、変化があるのであきない。だから同じ時間働いてもあまり疲れないと言うのである。
 なるほどと思った。そうなのである。単純作業の単調な繰り返しは労働の疲労度を高める。不整形小区画の方が人間的なのかもしれない、捨てたものでもないなどと思ったものだった。
 しかし、こんな問題はあってもやはり整形大区画の方がいい。用水と排水の分離や暗渠排水も整形することで容易になる。そしてそれは単収を高める。
 さらにいいのは畦畔に取られる面積が少なくてすむようになることだ。つまり同じ10㌃でも1㌃区画であると畦畔面積が多く必要となり、実耕作面積=稲の作付面積がその分だけ少なくなるが、10㌃区画1枚にまとめると畦畔面積は少なくてすみ、実面積は多くなるのである。いうまでもなく総生産量は整理された10㌃の土地の方が多い。
 そうなると当然農家はこうした区画整理=耕地整理に積極的に取り組もうとするはずである。しかし戦前の農家、とくに小作農家はあまり積極的ではなかった。労働生産性も土地生産性もあがるにかかわらず、また耕地整理に要する費用は土地所有者持ちなのにもかかわらずである。逆に地主の方が積極的だった。
 それは「縄延び」があることによるものだった。

 縄延びとは実際の土地面積(実面積)が登記等で公認されている面積(ここでは登記面積としておく)よりも多い場合に生じる超過分の面積のことである。
 なぜこんな縄延びができるのか。その昔一定の長さの縄で面積を測ったとき張った縄が伸びてたわむので実際の面積よりも小さくなってしまったためだとか、年貢や租税などの負担を軽くするためにわざと実面積よりも小さく測定もしくは申告したためだとか、かつての計測技術が未熟だったためだとかいろいろ言われている。どれくらい縄延びがあるかは地域や地目によってかなり違うが、山林の場合などはとくに多くて実面積は登記面積の数倍あるのが普通と言われ、田畑にしても1割くらいあるのが普通だったようである。こうした縄延びがあるとわかっていてもそれは一種の既得権として黙認され、租税や村の負担は登記面積を基準にしてかけられていた。それに対応して、地主のとる小作料もその登記面積に対して決められていた。
 この縄延びが区画を整理するとなくなってしまう。整形した土地をしかも昔と違って精密な測量技術で計測するのだから縄延びはなくなってしまうのである。そして、整理後にその計測面積が登記される。かくして新しい登記面積はこれまでよりも大きくなり、実面積と登記面積とが一致することになる。当然の事ながら固定資産税等の公租公課はその登記面積にかけられるから高くなる。地主はその高くなった部分は小作料を値上げして小作人からとればいい。たとえ値上げしなくとも、小作料をとる面積が増えるのだから、たとえばいままでの1㌶が1.2㌶になり、小作料は1.2倍になり、しかも租税考課の増加分は小作料の増加分よりもずっと少ないので、収入は実質増えるのである。しかも区画整理にともなう用排水路の整備、馬耕による深耕等は安定多収をもたらすので、小作料を安定的に徴収することを可能にし、さらにその引き上げを可能にする。整理の費用を出しても最終的には得になる。こうしたことから地主は耕地整理に積極的に取り組んだのである。しかし小作料を値上げされる小作人はたまったものではない。それで反対運動が起きた地域もあるが、小作人の要求が一定程度受け入れられて、あるいは地主の力で抑えられて、耕地整理が勧められた。
 もちろん、傾斜地などで整理にかなり費用のかかる地域の地主は整理に取り組もうとはしなかった。費用対効果からして損になるからである。ぎりぎりの生活をしている自作農もそんな金を出す余裕はない。そこに庄内などの平坦部で整理が進み、内陸では進まないことの主因があった。
 ただし同じ平坦地でもなかなか進まない地域があった。地主の資金力、農業生産に対する関心の持ち方、地方行政の対応等によって、自小作農から整理の要求があっても取り組もうとしなかったのである。


               ☆水田の基盤整備の進展

 戦後、農地改革で土地は耕作農民のものとなり、自分たちの意志で土地改良が進められることになった。そこに民主的な土地改良法ができ、土地改良に対する資金援助の施策が充実し、東北の場合はさらに積寒法(註1)があったので、各地の未整備地域で土地改良に取り組むようになってきた。縄延びがなくなることによる登記面積の増加、それにともなう公租公課諸負担の増加等の問題などがあっても、土地改良による単収の上昇、労働負担の軽減でそれを補うことができたからである。
 ただし、農地改革は耕地整理にともなう「交換分合」問題をより深刻にさせた。
 すなわち、たとえば10㌃区画に何枚かの田んぼをまとめようと思ってもそこに何人かが分散して土地を所有している。それをそのままにして所有者全員で分けて所有し、利用することにしたら10㌃に区画を整理しても意味がない。そこで必要となるのが自分のこっちの田んぼはやるから、そっちの田んぼをくれというように土地の所有権をお互いに交換してひとまとめにすることである。これを交換分合というが、耕地整理にはこれが必要不可欠となる。ところがこれは容易ではない。水利など条件のいいところを所有していればいくら同じ面積だからといって悪いところと交換などしたくはない。また先祖が何百年もかけて地味をよくしてきた田んぼをもっている農家は手入れを怠っている農家の土地との交換をいやがる。そんなことからいくら耕地整理がいいとわかっていてもふんぎりがつかない。地権者の数が多ければ多いほどまとまるのが難しい。明治期は地権者=地主の数が少なく、土地に対する思いも少ないので、耕作農家がどうあれ整理することができたが、農地改革で土地所有者が増えたのでまとめるのは容易ではなくなったのである。
 しかし、農家の増産意欲と土地改良法にもとづく民主的な話し合いはこうした困難を克服させた。一時的な不利益はあっても、用排水が整備される等すれば自分の土地の条件がさらによくなり、しかも単収が増える。交換した土地はまた肥沃な土地にしていけばよい。耕耘機が入ってくるなかで区画も農道も今までのようではますます困る。かくして戦後各地で耕地整理が進んだのである。

 1961年、農業基本法制定にもとづいて開始された農業構造改善事業は、こうした耕地整理事業を「土地基盤整備事業」と改称し、区画は30㌃にすること、アメリカ製の大型トラクター、コンバイン、ライスセンターを導入すること、そうすれば多額の補助融資をするとした。
 30㌃区画と言っても私にはピンと来なかった。もちろん1㌶区画は見たことがある。ただしそれは大潟村の干拓地であり、ここは特別なところだと思っていたから実感としてその大きさを感じることはなかった。しかし既存の農村地帯で30㌃というとすさまじく大きく感じた。農業構造改善事業のパイロット事業で整備されたのを見たときは驚いた。区画の狭い田んぼを原風景としてきた私だからあるいはとくにそう感じたのかもしれない。しかし私だけではなかった。多くの農家、とくに整備したがっていた未整備地域の農家にしても同じだった。しかもそこに地域に合わない大型機械・施設が付帯事業として導入されてくる。しかしこんな機械・施設はいらない、そうするとましてや区画はそんなに大きくしなくともいい、こんなことから各地で導入反対運動が起きた。もちろん補助融資には魅力はある。そこで山間部の未整備地区で大型基盤整備事業を導入したところもあった。しかし大型機械、とくに大型コンバインはほとんど利用されなかった。
 1970年代に入って、さきにも述べたような日本的な中型稲作機械化体系が確立してきた。そうなるとこれまでのような零細分散ではどうしようもなくなってくる。10㌃区画でも機械の効率的運用からすると狭い。そこで30㌃区画の整備が受け入れられるようになり、さらにかつての5㌃や10㌃区画を30㌃に再整備する動きも出てきた。
 庄内地方でも再整備が進められた。前に述べた月山・朝日山麓の赤川水系を始め、鳥海山麓の日向川、月光川、そして最上川の河川改修に伴う用排水路改良が進められることになっていたが、それにともないかつての10㌃区画をすべて30㌃区画に再整備することにしたのである。上流にあった庄内の櫛引町などはその先頭を切った。減反問題のところで述べたように、1970年に通年施工で大型基盤整備をやったのである(註2)。
 この庄内を始めとして東北各地で基盤整備が進展した。これは労働生産性を大きく高め、稲作の基盤を強化し、東北の米の主産地としての地位をさらに高めることとなった。

 櫛引町で基盤整備を推進したリーダーの方たちは当時こんなことを私たちに言った、「これからは大型基盤整備をして大型機械・施設を入れなければ若い連中は農家に残らない」と。ところが、数年経ってまた行ったとき、「若者不足、オペレーター不足で悩んでいる」という。どうしてそんなことになったのか。
 いうまでもないが、通年施工をすると稲はつくれないので、夏の仕事はなくなってしまう。そこで小さい農家の場合はいままでの季節雇いから恒常的な賃労働へと移行するようになった。また零細規模では機械を購入するわけにはいかないし、省力化も進んだので、整備後は機械作業を委託して兼業に専従する青年が増えた。それでも集落の農家約30戸のうち5~6戸の専業農家の青年は残り、生産組織をつくって兼業農家の機械作業を受託し、大きな機械に喜んで乗り、意気揚々と働いていた。しかし、と彼らは言う。広い田んぼと大型機械、あっという間に作業は終わってしまう。いくらがんばっても農作業のある間間は春1ヶ月、秋1ヶ月だけ、後は仕事がなく、閑になる。金も入らない。春秋の1~2ヶ月オペレーターで高い賃金をもらったとしても、1年間は食えない。そこで鶴岡や酒田に稼ぎに行く。しかし農閑期だけ働く臨時雇いだから日当は安い。当然ボーナスは出ない。わずか1~2ヶ月農作業で仕事を休んだために5ヶ月分のボーナスが支給されないのはばからしい。さらに農作業を委託して働きに出ている青年やかつての同級生がたまたま同じ勤め先にいるともっと頭に来る。おれより給料がいいだけでなく、おれの上にいてアゴでこきつかう。おれだってまともに勤めれば、あいつよりも高い給料はとれるし、えらくなれるはずだ。そもそもあいつは学校時代おれより成績が悪かったではないか。バカらしくてオペレーターなどやっていられない。そう言ってオペレーターをやめる。そして一抜けた二抜けたで最終的には一人もいなくなったというのである。
 もちろん、米以外の作物を導入して若者が年間農業で働けるようにすれば若者は農業に残るはずだし、オペレーター不足など起きない。しかし、当時の基盤整備は稲作のみを考えた整備であり、しかもその省力化をいかに進めるかということを中心とし、稲以外の他作目を水田に入れて農業を発展させるという視点がまったくなかった。そこで基盤整備がなされると一挙に兼業化が進展し、とくに減反とともに推進された通年施工は常勤的兼業化を進めることになったのである。
 まさに基盤整備は労働力流動化政策として見事に成功したということができるであろう(もちろん70年代後半から汎用化水田化を目標とする基盤整備もなされるが、これについては後に述べる)。

 基盤整備はまた水田の様相を大きく変えた。
 私が小学3年になる4月初め、身体を悪くして進学式に行けず、一人寝床で新しい教科書を見ていた。音楽の教科書をめくっていたら何とも心温まる景色を描いた挿絵があった。『春の小川』の曲のところだった。この曲は聴いたことがあったが、改めて歌詞を読み直してみると、そこで歌われている風景は生家の近くの田んぼのそれと非常に似ている(前にも述べた理由かられんげはなかったが)。それで大好きになってその後も何かあると歌っていた。あるとき私たちが教わった歌詞と前の世代の人が習ったのとが違うことに気が付いた。さらに戦後の世代とも違うことがわかった。私が小学校(国民学校)に入った1942(昭和17)年の教科書改訂で歌詞が変えられ、戦後さらに改訂されたのである。だから私の習った歌詞は数年の運命でしかなかった。このことは周知のことなのかもしれないが、もしかして知らない人がいるかもしれないので、私の習った歌詞(といっても一番しか覚えていないが)と前の歌詞(変えられたところのみ括弧内に書く)を書いておくことにする。
  「春の小川は さらさら行くよ(流る)
   岸のすみれや れんげの花に
   すがたやさしく 色うつくしく
   咲いているね(咲けよ咲けよ)と ささやきながら(ささやく如く)」
 なお、戦後は最後のところがまた(咲けよ咲けよ)に戻っている。しかし私には私の習ったときの歌詞が一番よく思える。
 この歌のような私の幼いころの風景は高度経済成長下の宅地化でなくなり、この歌詞のモデルとなった東京渋谷の『春の小川』はとっくの昔に暗渠の下水溝に変わってしまっていた。いうまでもなくこれは最悪の事態だが、他の地域でも基盤整備で春の小川を始めとする水田の風景、生態系が大きく変わってしまった。

 基盤整備に伴って敷設されたパイプ灌漑の場合などは水路をまったくなくしてしまった。これは水の蒸発や浸透を防止して節水を可能にし、パイプの栓をひねるだけなので水管理も容易にし、さらに用水路に取られる土地を節約し、機械を入りやすくするという点できわめて効率的である。しかし、日光や外気の影響をまったく受けないで上流からの水が来るので、冷水がかりになるという問題をもっている。保水性に乏しい砂地、あるいは節水が求められる乾燥地ならよくわかるが、そもそもこの日本でここまでやる必要があるのだろうか。庄内でのパイプ灌漑の導入は農業用水を節約して工業用水に回すためだと言われたことがあったが、こうして用水路をなくしてメダカなどをいなくさせていいのだろうか。
 また、基盤整備でコンクリート水路にし、そこにシジミや小魚もいなくなったところもあるが、これでいいのだろうか。
 だからといって私は昔の用排水路をそのまま残せなどというつもりはまったくない。用水不足地帯などではそうやって漏水を防ぐより他ないところがあるからだ。
 さらに次のようなことも考えなければならない。土を固めてつくった水路だとその補修、掃除、草刈りなどがかなり大変だということである。むらの共同作業で3回もそれをやる上に、個人でも草刈りをやらざるを得ない。炎天下での草刈りなどはとくに大変だ。よくコンクリート水路がけしからんと言う人がいるが、一度畦草刈りをやってみればいい。今は草刈り機があるからまだいいが、それでもかなりきつい労働である。しかも費用もかかる。そんな犠牲をなぜ農家だけが負担しなければならないのか。
 もちろん環境・景観保全は大事だと思う。しかし農業生産力を高めることも重要である。そうなれば農業の生産性向上と矛盾しないような整備を進めていかなければならない。もしも矛盾するようであれば、そして保全がたとえば畦畔管理や水管理などで農家に負担をかけるとなれば、それに要する労賃や資材費をきちんと補償するなどしていくことが必要となる。それが今後の課題となろう。それはそれとして基盤整備は大きな成果をあげつつもさまざまな問題も引き起こした。

(註)
1.積寒法については下記記事を参照されたい
  11年3月8日掲載・本稿第一部「☆ヒデリノナツの緩和」(3、5段落)
2.11年6月15日掲載・本稿第二部「☆減反目標の達成」(2段落)参照

(追記)
 水田とその用排水改良については本稿第五部の下記記事で詳しく述べている。
  13年4月5日掲載・「☆水稲連作」
  13年4月8日掲載・「☆水田の機能整備の取り組み」
                                                (13年5月記)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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