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耕して天に至れなかった東北


               東北農業の後進性からの脱却の展望(1)

                 ☆耕して天に至れなかった東北

 『裸の島』という映画がある。1960年に新藤兼人監督、乙羽信子、殿山泰司主演で製作され、国際的にも高く評価されたた映画である。瀬戸内の島の段々畑を耕す農家の暮らし、水がないために毎日段々畑を上り下りしながら水を運び、かけている姿を淡々と描いているのだが、何とも苦しい。しかしこれは映画芸術という面からはもちろん、かつての農業の姿を知る上でも、必見の名画である。
 こうした瀬戸内の島々の海岸から頂上まで連なる段々畑を見て、日清戦争の講和のために来日した清国の李鴻章全権が驚き、次のように嘆いたという。
 「耕して天に至る。以てその貧なるを知る。しかるに我が国土広大なるも、国力において劣れり」
 しかしこれは私が若い頃に覚えたのとは最初のところがちょっと違っている。本を読んで知ったのか誰かから聞いたのか忘れたが、私は次のように記憶している。
 「耕して天に至る。これ貧なるか、勤なるか」
 私の記憶がまちがっていたのか、教えてくれた人もしくは本がまちがっていたのかはわからないが、いずれにせよ私の方がまちがっているのだろうと思う。それでも私はこの後者、耕して天に至らしめたのは日本の農民が貧しいからなのか、勤勉だからなのかと問うこの言葉が好きだ。急斜面に刻まれた見事なばかりの段々畑や棚田はまさに日本の農民の貧しさと勤勉さを示すものだったからである。
 中四国・近畿の山間部に行くと、こうした段々畑や棚田が見上げるばかりの高い山の急傾斜地につくられ、そうした田畑の間に農家の住居がぽつりぽつりと散在する風景がよく見られる。向かい側の山から見たこの風景、切り立った山のてっぺん近くまで石垣等を積んだ田畑がつくられ、その険しい中腹に家が点在する風景は本当に見事であり、もし私に絵筆の才があるなら描きたいとさえ思う。しかしその一方で、生産や生活は大変だろうなと考え込んでしまう。田畑は家の近くにあるので上り下りはあっても何とかやれるだろうが、村や町の中心部、学校などに往き来するために家の下の谷間に沿ってくねくねと曲がって伸びている主要道路まで急傾斜の細い道を上り下りするのは、いくら慣れているとはいっても、本当にきついだろうからである。
 もちろん今はこのような風景が見られなくなりつつある。60年代から始まった農産物の価格低迷、太平洋ベルト工業地帯の労働力吸収、機械化の進展などに対応できなくなった棚田や段々畑の耕作放棄や植林が進み、家はなくなっているからだ。もう完全に林野化していて、ここがかつての棚田地帯だ、段々畑があった、家があったと言われてももうわからず、田畑の石垣畦畔や昔の曲がりくねった細い道路、井戸の跡等が草木の中に埋もれてちらっと見えることでその話が嘘ではないことがわかったりする。

 こうした中四国、近畿に対して、東北には段々畑や棚田が少ない。もちろんあるにはある。何でこんな谷間に、川の両脇の傾斜地に田畑をつくり、家をつくり、集落をつくったのか疑問に思えるようなところもある。こんなところに田畑があるのか、人が住んでいるのかと驚くところすらある。
 これは水利の便からくるのかもしれない。山間の谷間であれば生活に不可欠な水を得るのに容易だし、農業用水路はそんなに長く引かなくともよいからである。その点では平地に住む方が大変だ。河川から水を引いてくるのが大変だし、井戸掘りなども容易ではないからだ。平地に住んで農業とくに稲作をいとなんだのはこうした山間部よりは時期的にかなり遅かったのではないか、その昔は谷間の方が住みやすかったのではないかとも思える。もちろん後になればこうした土地での農業は不利だし、交通も不便で住みにくいということになってくるのだろうが。だからだろう、そうしたところに行くと平家の落人伝説などがよく聞かれる。
 それにしても東北では中四国のように急峻な山地を頂きまで田畑にし、また居住地にしているのはあまり見ない。棚田や段々畑も小規模で傾斜がなだらかなところにしかなく、西日本なら耕し、あるいは家を建てているかもしれない傾斜地は林野となっている。
 これは東北の山村の住民が中四国と違って貧困ではないことを示すものなのだろうか。それとも勤勉でないのであろうか。もちろんそんなことはない。気象条件が厳しく、生産力も低いので貧困にならざるを得ず、また季節に追われて作業しなければならないので勤勉にならざるを得ないからである。
 ところがこの気象条件、つまり中四国にくらべて積雪寒冷であることが実は棚田や段々畑の大規模な造成、高地での居住地の造成を困難にしている、と私は考える。
 まず、平地でさえ冷害の危険があるのに、ましてや高地では寒冷の害をてひどく受ける。したがって田畑にしてもしかたがないということがある。
 また、急傾斜地に農地をつくっても無駄だということがある。豪雪や雪崩で潰されたり流されたりしてしまうからである。それどころか木を切り倒し、農地を作ることでかえって土地の崩落などの災害を引き起こす危険性がある。傾斜地の木々すべてが雪崩で一方向にねじまがっているのをよく見かけるが、それを見ればよくわかるだろう。もちろんそんな土地に家をつくり、集落を形成するなどということはできない。道路は雪が降ると平地でさえ滑って危険なのに傾斜地では通れなくなるし、道路の雪かきも平地と違いうまくできず、さらには雪崩で崩れてしまう危険性もある。
 つまり東北では標高の低いところ、傾斜の緩いところ、雪崩や豪雪で災害を受けないところにしか家はもちろん農地もつくれない。したがって高地や急傾斜地は林野として開発しないでおくか、常畑にしないで焼き畑にして林地と交替するかしかなかったのではなかろうか。

 話はちょっと飛ぶが、戦前の忠君愛国の教育で大きくとりあげられた人物の中に楠木正成・正行がいる。天皇を擁して鎌倉幕府を打ち倒し、天皇への忠義をつくしたという。その忠君楠公が挙兵、籠城して戦った千早城、赤坂城の戦いは教科書にも出てきたので、当時の子どもたちはみんな知っていた(といっても家内は千早・赤坂を完全に忘れている、それで私は冷やかす、忠君愛国の精神をきちんと勉強しなかったのではないか、「少国民」としての意識が欠如していたと)。軍国少年時代はそこにあこがれ、ぜひ行ってみたいと思っていた。それがまったく偶然に実現した。
 植木の産地を形成したいのでその可能性について調査してくれという依頼を宮城県鹿島台町(現・大崎市)から受けたときのことである。東北には植木産地がないといっていいので大いにけっこうなのだが、私どもはまったく知識がない。そこでまず先進地を視察することにした。そして埼玉の安行、愛知の稲沢、大阪の池田の伝統的な産地をまず調査したのだが、池田については大阪府立大学のKH君に案内をお願いした。そしたら彼は、もう一つ、「山取り」(山から掘り取ってきた木を育成・剪定して植木に育てる)の産地として特徴をもつ河南町も調査したらどうかという。喜んでお願いし、KH君の車に乗せてもらって奈良との県境にあるというその町にでかけた。境市から河内平野を西にちょっと走ったら突然山のなかに入った。それもかなり深い山である。うっそうとした照葉樹林の生い茂る急傾斜地をくねくねと曲がりながら走る道路は狭く、車のすれ違いも大変である。こんなところを通っていって家や農地があるのかと思っているうち、ようやく少し平らなところに着き、集落があちこちに見られるようになった。そこに千早城、そしてもう少し行くと赤坂城があったのである。私が小さい頃思い描いていたのとはまったく違っていた。こんな深い山のなかにあるとは思ってもいなかったのである。それでも軍国少年のころをなつかしく思い出していたが、そこからまた山のなかを走り、ちょっと平坦になったと思ったところに河南町の植木畑がひろがっていた。ここでの植木生産は他の産地とはかなり違っていて非常におもしろかったのであるが、それは省略するとして、もう一つ驚いたのはともかくここに来るまでが大変であり、大阪という大都市からちょっと離れただけなのにこんなに深い山があったのか、そしてそこに人が住んでいたのかということであった。それでもここは中四国や紀州の山間部から比べるとまだいい。平地の都市まで下りるのにそれほどの時間がかからないし、耕地の傾斜度もそれほどではなかったからである。
 そこで改めて思い出した、以前中四国や近畿の山間部を見てよくもこんな奥地にまた高地に家があり、農地があるものだと驚いたことを。かつて北上山地は日本のチベットと言われたことがある。それで私などはそこの中心部にある葛巻町出身の研究者NK君をそう言って冷やかす。しかし中四国や近畿の山間部とくらべると北上山地を始めとする東北の山村はずっと条件に恵まれていると思う。そして中四国・近畿ならおそらく人が住んでいただろう、耕地にしていたであろうと思われる奥地や高地は林野のままにしてある。
 これも積雪寒冷という気象条件からくるものであろう。当時の技術水準と交通手段のもとでは、山奥にたとえ傾斜の緩い土地あるいは平坦地があっても、雪解けの遅さ、積雪の早さ、そして夏の寒冷からしてまともな農耕はできず、集落を形成することはできなかったのである。そして奥地=高地の平坦地・緩傾斜地は萱刈り場や牧野か粗放的な焼き畑としてしか農業的に利用できず、多くは林野となっていた。このように土地がありながらも耕地を思うように増やせないのだから、しかも積雪寒冷で農業生産力が低いのだから貧困にならざるを得ない。
 耕して天に至らなかった、というより「至れなかった」のだが、それは東北の山間部の貧しさを示すものだったのだろう。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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