Entries

過疎化の相対的な未進展



               東北農業の後進性からの脱却の展望(2)

                 ☆過疎化の相対的な未進展

 山形県の中央にそびえる月山の東北部の山麓に、地元の人からは湯治場として親しまれ、都市部の人からは秘湯として知られている肘折温泉がある。ここに行くのには新庄市側から国道458号線で上っていくより他ない(この国道は峠を越えて寒河江・山形市側に通じているが、未舗装で大型車が通れず、冬は交通止めになる国道ということで有名だった、今はどうなっているのだろうか)のであるが、その道路の途中からちょっと左に入ったところに沼の台という集落がある。この集落と温泉のある大蔵村は豪雪地帯として有名であるが、沼の台集落にはそれに山間地帯という名称がつく。この集落の農家34戸の全戸を山村の定住問題で1980(昭和55)年に調査した。経営面積は一戸平均水田1.2㌶、畑0.3㌶、かつては林業関係の仕事があったが今はなく、また近隣に就業機会がないので、関東方面への冬期出稼ぎで生計を補充していた。
 調査をしてまず驚いたのは、戦後40年近く経っているのに農家戸数はほとんど変わらず、さらに大半の農家に後継者がいたということであった。ほかの山間僻地では若者の流出はもちろんのこと、戸数の減少もかなり進んでいるにもかかわらずである。中四国などではむらの消滅、幽霊部落化が問題になっているころなのにである。
 なぜなのか、それを報告した東京での研究会で多くの人から質問された。山間豪雪地帯なのに、出稼ぎをしながらでも家に残り、農業を継続しているのはなぜなのか、後継者はどうして安定兼業を求めて都会に出ないのか、農業+出稼ぎでどうして満足しているのかと。
 そう聞かれて改めて考えた。そう言われてみれば、東北の山間部では西日本のような過疎化は進んでいない。後継者の多くは家に残り、出稼ぎをしながら家と農業をまもっている。どうしてなのだろうか。それにしても沼の台ほどではないので、まず沼の台の特殊性について明らかにするなかで一般的な法則性を考えてみたらわかるのではないか。
 そう思って考えていたとき、この沼の台の小学校で教員をしたことのある私の弟が話していたことをふと思い出した。ここの子どもたちはほとんどが中学卒で終わっているという話である。高校のある新庄市まで遠く、通学がきわめて不便であり、とくに豪雪の冬には下宿させなければならなくなることもあって親は高校に入れようとしないという。いうまでもなく中学までしか行かないとなるとそのつきあい範囲はきわめて狭い。しかも小学校と中学校がまったく同じだから友だち関係もひろがらない。子どもたちは沼の台という地域以外まったく知らない。極端にいえば沼の台という地域から一歩も外に出たことがない。こうした閉鎖社会に住んでいて外の社会を見ていなければ、地域の人たちがみんな家を継いでいれば自分も家を継ぐもの、地域に残るものと考え、一切の疑問をもたない。しかも当時は高校も卒業していないようではいわゆるいいところへの就職もなくなっている。それでも次三男はあきらめて外に出ざるを得ないが、長男なら家にいて農業をやり、出稼ぎや日雇いで所得不足を補うことにした方が、不安定低賃金就業で都会で苦労するよりはいい。こういうことで後継者の多さ、離農の少なさということになったのではなかろうか。つまり後継者は他産業就業・都市流出の道と農業就業・地域に残る道との間での選択ではなく、自らの判断によってではなく、否応なしの宿命として残ったのであろう。

 こんな風にまず考えたのだが、弟は赴任している間中、それではだめだ、定時制でもいいから高校に入れろと言っていたらしい。
 この沼の台の「小中学校」(小学校と中学校が一つになっている小規模校)は教員としての弟の初任地だった。そしてまさに『二十四の瞳』の12人の生徒を4年から6年までの3年間受け持った。子どもたちは山形市などにはめったに行けなかったので、弟は毎年夏休みになると全員を生家につれてきて2泊させ、町を見せたり、町のくらしをいろいろ体験させたりしていた。
 弟がそこから転勤して2年後、この調査でこの沼の台に行くことになり、兄弟だと話したら農家の方からびっくりされ、歓迎されたものだった。
 さらにそれから3年後の83年、弟は癌で死んだ。弟の考えを受け入れたのかどうかわからないけれども弟の教え子の半分くらいは高校に進んでいたが、弟の葬儀にはその子たちのほぼ全員が遠くからも参列してくれた。彼らの代表が弔辞のなかでさまざまな思い出を語り、最後に「ぼくらが大人になったとき先生といっしょにお酒を飲むのを楽しみに待っていた、それなのに」と声を詰まらせたとき、抑えているのにもれてきていた同級生の泣き声がひときわ高く聞こえた。彼ら彼女らの隣りに座っていた近所の奥さんが葬儀の後でこんなことを言っていた。
 「ハンカチが絞れるほどに涙を流すということを聞いたことがあるが、その子どもたちを見てそれが本当のことだと初めてわかった。涙でぐちょぐちょになったハンカチとぬれたズボンがかわいそうで、思わず自分のハンカチを使いなさいと差し出してしまった」
 ちょうどそのころ弟が赴任していた市内の小学校4年の最後の教え子たちもクラス全員で参加してくれ、弟のやっていたギターによる音楽教育の実験授業の成果として、葬儀の最後に『おじいさんの古時計』の歌をギターの伴奏で合唱してくれた。それを聞いてまた多くの人が涙してくれた。
 大蔵村、肘折温泉、沼の台という名前を聞くと、今でもついつい胸が痛むのだが、その後の沼の台集落はどうなっているだろうか。おそらく過疎化がかなり進展していることだろう。

 ちょっと話は脱線してしまったが、沼の台を始めとする当時の東北の山村の離農の相対的な少なさ、後継者の多さは、単に今述べたような閉鎖社会だったということからくるものだけではなかった。外の社会との交流と言うことだけでいえば西日本の山村とそんなに変わりはなかったからである。道路や距離等の条件からいうと西の方がかえって周囲との交流が困難なところが多かったといえよう。そこでまた考えた。そして次のような結論になった。
 戦前の東北の山村における不利な条件が戦後は逆に有利に働き、山村での農業発展の展望が見え始めていた(もちろん70年代当時はということだが)ことにその原因があるのではないかと。
 すなわち、東北の場合、気象条件の厳しさからして農業生産力が低かったので、経営面積を相対的に広くもたなければならなかった。積雪寒冷のために二毛作ができず、また単収も低いので、それによる単位土地面積当たり人口扶養力の低さを補うために、1人当たり・1戸当たり多くの面積を経営せざるを得なかったのである。この面積の相対的多さが戦後の機械化対応の面で西日本に比較して有利に作用した。さらに豪雪・雪崩に対応するための急傾斜耕地の少なさとそれにともなう区画の広さも機械化対応に有利だった。しかも戦後の山間高冷地対応の農業技術進歩で土地生産性も高まっている。西日本は農産物輸入による二毛作の衰退で土地生産性を低め、所得を減らさざるを得なくなったのだが、東北では逆に高まったのである。
 それから、積雪寒冷という気象条件のために農業的に利用できない奥地=高地の平坦地・緩傾斜地が萱刈り場や牧野、焼き畑あるいは林野として大量に残されていたことも有利に作用した。戦後の新しい農業技術、土木技術、機械化、車社会化の進展が、こうした公有・共有で残った農業的未利用地の草地や畑地としての開発を可能にしたのである。これは農家の経営規模の拡大を可能にする。
 さらに豪雪・雪崩に対応するための居住立地の中四国に比べての相対的良さは戦後のモータリゼーションへの対応を容易にし、生活の利便さは何とか確保できる。
 これに対して、中四国の山村の場合は、経営面積は少ない。しかも麦・豆等の価格は輸入で低落し、田んぼで二毛作ができなくなっている。その上、労力は平地の何倍もかかり、機械化対応も難しい。コストはかかる上に収量もそんなに高くない。規模拡大できる開発可能地も少ない。さらに深い山々にさえぎられているので通勤兼業はできないし、たとえ兼業があっても朝晩農業でやれるような耕地条件でもない。出稼ぎに行って生活費を補充するとしても多くの労力を要する農業は出稼ぎに行きながら維持するのはむずかしい。かくして条件の悪いところから耕作放棄せざるを得なくなる。ますます農業所得は減る。一方、急傾斜地にある住居に通じる道は人しか通れなかったり、何とか車が通れるようになったとしてもくねくねと曲がった道路はきわめて不便だったりして、車社会化の活用も容易ではない。このように生産・生活ともに新しい時代への対応が難しく、しかも輸入自由化の影響は強く受ける。そこで後継者の流出、高齢化、離農、過疎化の進展となる。
 もちろん、東北の山間部がいかに生産や生活の面で中四国の山間部よりも有利だと言ってもそれは相対的なものでしかない。重要な所得源だった林業はだめになっているし、麦・豆等もつくれなくなっているし、3Cなどの新しい生活様式には金がかかるようになっている。どうしても農外から金を稼がなければならなくなってきた。しかし山間部には誘致企業も入ってこないし、たとえ就業機会があったとしても年間働きに出るわけにはいかない。一定の経営面積があるからである。そこで季節出稼ぎに依存することになる。
 こうした問題はあっても、東北の場合は経営面積の広さや開発可能地を利用して選択的拡大などに取り組めば地域で生きていける可能性がある。つまり中四国にくらべるとまだ展望がある。夢をいだくことができる。そして実際に60~70年代にかけてその夢の実現に取り組もうとした。
 たとえば沼の台集落では50年代後半国有地15㌶の払いさげを受けて共同で開墾し、さらに67年に構造改善事業を導入してそこを草地化し、酪農の導入に取り組んでいる。
 こうしたことが中四国の山間部のような急激な過疎化に行かせなかった一因となっているのではなかろうか。つまり戦前まで東北を苦しめてきた気象条件が、その結果としての経営面積と未開発地の広さが、戦後有利に働いたと考えることができるのである。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR