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山地の大規模開発―ハイコンセン・テイコウホウ―

               山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(1)

               ☆山地の大規模開発―ハイコンセン・テイコウホウ―

 1966(昭和41)年の夏、上北機械開墾事業の調査で青森県六ヶ所村に行ったときのことである。1956年から60年にかけてこの事業で開墾された広大な草地を前にしていろいろと説明をしてくれた県庁の職員がときどき「ハイコンセン」という言葉を使う。初めて聞く言葉である。聞くは一時の恥というが、そんなことも知らないで調査しに来たのかと言われそうで何となく聞きにくい。しかたがないので話を聞きながら、また眼前の景色を見ながらいろいろ推測してみた。
 ある瞬間、はっと気が付いた。そうか、これは「排根線」と書くのではないか。開墾のさいに機械で引っこ抜かれたものと思われる木の根っこや枝が灰色の線のように何筋も延々と草地の傾斜の中腹に連なっている。また職員の方が「ハイコンセンが開墾面積の一割にもなって入植農家への配分面積が計画より減ってしまった」という。この二つを合わせ、また発音と意味を考えるとそうなる。実際にそれでまちがいなかった。

 上北・下北の山間部には傾斜の緩い起伏地がかなり広くひろがっているが、気象条件がきわめて厳しいので作物の生産が難しく、かつては林野として放置され、人々は沿岸に住んで漁業を中心に生計をいとなんできた。しかし、山間部といえども草ならつくれるはずである。そして酪農をいとなむことができるはずである。
 そこで政府は、1950年代に緩傾斜地の開拓と入植を考えた。しかしこれまでの開拓の経緯から考えるとそれは容易ではない。そもそも資金力がない入植者が、自力でしかも手労働中心で、林野を開墾して耕地を造成したり、住宅を始めとする生活基盤を整備したりするのには、何年もかかる。酪農の場合にはなおのことである。生活ができるだけの乳牛の頭数をそろえるのには相当の年数と資金を要する。そこにいたるまでの生活費も大変だ。一挙に導入すればいいが、いくら開拓資金等の長期低利の融資があったとしても、できるわけはない。それでこれまで離農していく農家が多かった。
 こうした問題点を解決する新しい開拓方式として展開されたのが、「機械開墾」であった。機械開墾とは、政府が林野の抜根から荒起こし、整地、播種まですべて機械で行って草地を造成し、また住宅・畜舎を建設してやり、さらに乳牛等の家畜や畜力大農具などもそろえてやって、入植農家に引き渡すというものである。
 もちろんそれにはお金がかかる。いつかは入植農家から返済してもらうにしてもかなりの時間が必要となる。そこで政府は世界銀行から借金してこの機械開墾事業を行うとし、それを今述べた上北と北海道の根釧(註1)で1956年から10年計画で実施することにした。「世銀借款」(世界銀行からの借り入れ)による「機械開墾」(これまでと違って開墾をすべて機械でやるということからこう呼ばれた)、当時は有名になったものだった。
 上北ではこの機械開墾を2町2村にまたがる約6万㌶で実施し、350戸入植させることにした。そして、入植農家に開墾した耕地を一戸当たり5㌶、付帯地(註2)2㌶を配分する、さらに住宅兼畜舎を建ててやり、乳牛(ジャージー種)四頭と耕馬1頭、豚4頭、鶏20羽を準備してやる、こうして入植してすぐに畑作+畜産の「混同農業」(註3)ができるように、そして生活がなりたつようにするとしたのである。
 このこと自体はこれまでの開拓行政の誤りを正すものとして高く評価できるものだった。しかし、問題も多々あった。
 その一つが世銀借款である。
 若い人たちには世銀借款などは途上国向けのものでわが国はカネを出すだけ、あまり関係がないと思われるかもしれないが、1950年代はまさにわが国も途上国であり、東海道新幹線や黒四ダムも世銀借款に依存したし、農業関係では愛知用水などもそれでつくられたものだった。ご存知のように借款に当たってはかなり厳しい条件が付けられる。その一環だと思うのだが、オーストラリアからジャージー種を輸入して上北の開拓農家に導入することになっていた。そしてまず最初に一戸平均2頭導入した。ところがそれは上北の自然条件に適応しなかった。しかも長途の輸送による能力低下がある。それで予想外の低泌乳となり、さらには繁殖障害にまでなった。しかも60年からジャージーの特徴である高脂肪乳に不利な買い入れ価格制になった。こんなことから大きな赤字をかかえることになってしまった。そこで農家はやむを得ずホルスタイン種に切り替えた。最初からそうしていれば一回の投資ですんだものを、結局は二重投資となってしまったのである。
 前にも60年代の第一次構造改善事業で外国の大型機械・施設の模倣的導入が問題を引き起こしたと述べたが、それ以前にもこうした誤りを犯していたのである。もちろんジャージー種が日本にまたこの地域にまったく適しない外国技術だなどというのではない。その直輸入に問題があったのである。
 もう一つの問題が、計画の立て方である。
 まず住宅兼畜舎の配置である。電気や水道の通り道に合わせて配置し、経営耕地や自然条件とのかかわりが軽視されたために、雪や風のひどいところに家が建てられたり、農作業が非常にやりにくかったりして、2~3年後にはよその場所に移らざるを得なくなった農家がかなり出てきたのである。ところが住宅兼畜舎はブロックづくりで半永久的なものとして建てられている。簡単に移築、改築ができない。まったく新しく建てなければならなくなる。家や畜舎の新築の金が必要となる。しかももとの住宅兼畜舎の借金は返さなければならない。ここでも二重投資となる。その結果農家の経営と生活は非常に苦しくなる。
 また計画の立て方の悪さから農家への配分面積が予定よりも少なくなったことがある。「ハイコンセン」が開墾面積の一割にもなったり、開墾予定地に急傾斜、湿地、重粘地などがあったりして耕地面積が減り、計画通りに農家に配分されなかったのである。しかも土壌は強酸性できわめて悪く、工事のさいの表土の扱いが悪かったことから表土飛散があり、作物の収量はきわめて低かった。
 入植農家が言っていた。
 「ここに住み、生産をする人の立場に立って、また時代の変化に適応できるように弾力的に考えて、国は計画を立て、また実施する必要があったのではないか」
 まさによく言われる形式的機械的官僚的な行政の典型だったといえよう。しかしそれは反省材料となることなく、第一次農業構造改善事業に引き継がれることになるのだが。
 さらにもう一つ、将来見通しの悪さがあった。もちろんこのことで計画立案者をせめるわけにはいかない。計画を立案した当時の当局の予測をこえる政治の大きな転換、それにともなう技術の変化があったためだったからである。
 すなわち、乳牛4頭と馬1頭、豚4頭、鶏20羽、そして5㌶の耕地、これは畑作と畜産の混同農業をいとなむ家族経営としては理想的な計画だったと言ってよかったであろう。手労働と畜力段階に対応するものだったし、これまでの零細経営から脱却した経営でもあったし、さらに畑作物から畜産物まで増産を図れるので当時社会的に要請されていた食糧増産にも適合するものだったからである。こんなことは既存の農村地帯ではできない。まさに上北機械開墾地区は理想的な農業が展開される地域になるはずだった。
 ところが、計画実施から5年後の61年から農基法農政が始まる。これまでの農村への人口吸収政策は農業人口排出政策へ、食糧増産政策は選択的拡大政策へ、土地生産性・労働対象技術推奨政策は労働生産性・労働手段技術推奨政策へと大きく転換したのである。
 そして選択的拡大作物についてはその規模拡大がさけばれ、成長作目である酪農については10頭飼育への拡大が目標とされた。農家も低価格で労力のかかる畑作物をつくってもしかたがないので、畑はすべて飼料作物として頭数を拡大するより他なくなってきた。つまり混同酪農から酪農専業へと切り替えざるを得なくなったのである。
 しかしそうなると手労働では容易ではなくなる。そこで導入されたのがミルカーであり、耕耘機・トラクターだった。さらに上北機械開墾地で問題となったのは、畜舎が4頭収容でしかもブロックで変に頑丈に建てられたので、規模拡大すると新築しなければならなくなったことである。ここでも二重投資となってしまった。さらに畜力大農具一式を最初に配置したことも二重投資となった。すぐその後にトラクターなどの機械が導入されたからである。いくら近代化資金などの長期低利融資があるとしても、頭数拡大、新しい機械・施設導入に加えての二重投資だから、経営的に大変だったことはいうまでもない。
 われわれがここに調査に入ったのは入植開始以来ちょうど10年目、計画完了から6年目だったが、農家は多額の借金をかかえていた。離農もかなり出ていた。
 しかし農家はがんばった。多額の負債をかかえながらも乳牛の多頭化を進め、機械・施設を基礎にした新しい技術を導入しながら、草地酪農の確立に努めた。

 私たちの調査から3年後、入植開始から13年後の1969年、機械開墾地域の一部が入っている六ヶ所村に石油精製、石油化学などの基盤産業を立地させるという「むつ小川原開発」構想が発表された。
 とたんに不動産業者が村にむらがり、土地の買占めに走った。地価は何倍にも跳ね上がった。苦労していい土地にしたのに開発とは何事かと反対する農家もあって開発計画は縮小したが、多額の借金をかかえた多くの農家は高地価の誘惑に負け、また誘致されるであろう企業への就職に希望をもって、土地を手放した。
 マスコミははやしたてた、草地の真ん中に和洋折衷風の立派な御殿がたくさん建っていると。そして土地を売った農家を嘲笑った。建築業者の甘いささやきにのって建てたのだろう、たしかに異様だった。
 しかし私は笑えなかった。入植以来の惨めな住居、他方でのテレビなどで見る都市住民のいわゆる近代的な住居、この隔絶を思いっきり埋めたい、これまでの苦しさを忘れさせるような、子どもたちが威張れるような立派な家を建てたい、こう考えるのも無理はないと思われるからである。
 それから20年近くたった頃ではなかろうか、今度はその御殿が住む人もなく荒れ果てているというニュースが流れるようになった。70年代に入ってのオイルショックなどで企業はさっぱり立地せず、建てられたのは石油備蓄基地だけだったからである。期待していた就職口は当然なく、畑もなくなっているので、地域で収入を得ることはできない。東京などに出稼ぎに行くしかない。子どもたちも職を求めて大都市に出て行く。かくして住む人がいなくなる。そして買い占められた土地は荒廃する。またまた異様な風景となってしまった。
 こうしたところに持ち上がったのが「核燃サイクル施設」の立地だった。工場等の敷地が売れず多額の借金をかかえた開発公社や県はこれに飛びついた。そしていまここは核のゴミ捨て場にさせられようとしている。

 1997年、しばらくぶりで六ヶ所村を訪れた。港や道路は整備され、さまざまな原子力関係の建物が建っていた。しかしそれは一部地域だけだった。そして開発にともなう傷痕がさまざまな形で残っていた。
 村内の既存のある地区の水田の話になるが、この地区には50戸弱が共有する88㌶の水田があり、それぞれの持ち分が登記されていた。ところが、不動産業者の土地買い占めとその分割販売で権利者が何と県内外の1000戸にもなってしまった。これでは基盤整備ができない。権利者全員を訪ね歩いて合意を得ることはほぼ不可能だからである。こんなことはこの地区だけではないという。道路一本整備するのにも地権者探しに大変だという。
 こんな話を聞いた帰りの車中、ふとこんなことを考えた。そもそも三八、上北そして下北は日本の資本主義にとって何だったのだろうかと。
 戦前についていえば、ここの広大な林野は国有林となって国の財政源となり、またそれは海岸線と合わせて軍事基地となり、さらに軍馬育成基地となって、軍国主義日本を支える役割を果たさせられた。戦後は引き揚げ者等を受け入れるための開拓地として戦後処理の役割を果たさせられ、ナタネやビート等の畑作振興、それがだめになると米の増産のための開田の推進、ところが今度は減反と農業政策の変転のままに振り回された上に、米軍基地がおかれて日米軍事同盟の拠点として使われてきた。そして高度経済成長が本格化すると農林業を潰して石油産業を立地させようとし、さらに今度は核のゴミ捨て場にさせられようとしている。まさに三八、上北そして下北は国家の政策に振り回されてきた犠牲者ではなかったのか。
 そうしたさまざまな問題はあったけれども、戦後の緊急入植、そして上北機械開墾等が広大な草地を造成し、本格的な酪農展開の基礎をつくったということは高く評価できるであろう。
 この東北における草地造成は未利用林野だけでなくいわゆる牧野の改良によっても進展した。その典型が上北の南方に広がる北上山地だった。

 岩手県遠野市は『遠野物語』、カッパ伝説、南部曲がり屋等々で有名であり、全国各地から観光客が訪れる。私も好きな場所である。調査ではもちろん私的なことでもさまざまな思い出もある。
 この遠野に初めて行ったのは1970年の夏だったと思う。北上山系開発事業に関する調査で、とくに牧野利用のあり方を調べるのが中心だった。当然牧野のところまででこぼこ道をジープなどに乗って見に行く。この牧野を見るのが私は好きである。急傾斜の山林しか知らずに育ったからかもしれないが、なだらかな傾斜に何百㌶と広がる芝の草原を見ると心が本当になごむのである。そのときに聞いた牧野の名前がまたよかった。笛吹、貞任、高清水、荒川、今記憶しているのはこの四つだが、何ともいい。貞任(さだとう)牧野は千年前に東北侵略にきた源義家などの朝廷軍と前九年の役で戦った阿部貞任・宗任と関係があるのだろうかなどと考えるのも楽しい。
 こうした牧野、つまり前にも述べたようなさまざまな人手が入って形成され、維持されてきた芝草地が北上山地には約6万㌶あったという。そしてそこで農耕馬や軍馬を中心に育成放牧し、あるいは冬の飼料用の草を飼ってきた。しかし、戦後軍馬需要がなくなった上に、農耕馬が役牛に替わるようになってきたので、1955年ころには農耕馬と役牛と半々放牧飼育されるようになった。しかしそれも耕耘機の普及のなかでなくなり、牧野を利用するものも少なくなってきた。南部牛追い歌や外山節などで歌われた牛馬産はほぼ壊滅し、それを支えてきた牧野も未利用のままに放置されるようになってきたのである。
 それを変えたのが、61年から展開される農業基本法のいう選択的拡大、それにもとづく畜産振興政策の展開だった。山間地帯ではとくに乳牛と繁殖肉牛の飼育とその規模拡大が推奨され、そのために旧来の牧野・芝草地の改良、草地造成が進められ、牛の放牧がなされるようになってきたのである。
 遠野の場合はとくに日本短角牛の飼育が急激に伸びた。たとえば高清水牧野を馬産で利用していた高場・上の山集落(註4)の40戸の場合、55年に牛はまったくいなかったのに、60年に4戸5頭、70年には17戸が50頭を飼育するにいたっている。これは馬産の飼育形式と短角牛のそれとが似ていたことからきたものらしい。こうしたなかで牧野の整備についての要望が農家から強く出されるようになってきた。他の地域、酪農を導入した地域でも同様で、それに応えて各種事業を導入して牧野の整備を進めた。
 それを本格的に推進しようとしたのが、1969年度から計画が進められ、75年から事業が開始される「北上山系開発事業」であった。
 すなわち、北上山地の山稜部の至るところにある傾斜の緩い小起伏地は牧野として利用され、あるいは未利用のまま放置されてきたが、ここを中心に1万㌶を開発し、うち5千㌶強を人工草地として、畜産を基軸とする大規模生産団地を造成することにしたのである。そしてそれは草地造成・管理技術の進歩で容易にできるようになっていた。かつての開拓時代の手労働はブルドーザー、トラクター等の機械による造成へと転換していたからである。

 北上山地のどこだったか忘れてしまったが、調査に行ったときに畜産の研究者がテイコウホウで造成している草地を見に行くという。テイコウホウって何だかよくわからないが、ともかくついて行ってみた。
 現地に行ったら造成のために切り倒した木の切り株がまだ生々しく残っていた。そのまわりの土は赤裸になっていて、牛の蹄(ひづめ)の跡でぐちゃぐちゃになっており、また糞があちこちにちらばっている。牛はどこにいるのかと思ってみると、ちょっと離れたところの野生草が生えているところに群がっている。柵で区切られているわりと狭いこの土地からすると、牛の頭数が多すぎる感じがする。一種の過放牧であるが、わざわざそうしているのだという。狭い土地だから牛は野生草を全部食べてしまう。つまり牛が除草してくれる。さらに狭い土地を何百回も歩くから蹄(ひづめ)で土が軟らかくなる。こうなったときに牧草の種子を播く。
 ここまで聞いたときに、そうか、テイコウホウとは「蹄耕法」と書くのだと気がついた。蹄で土を軟らかくしてまた草をなくして耕したのと同じようにする、つまり蹄で土地を耕すのである。こうすると、ブルドーザーなどによる造成とは違って栄養分のある表土はそのまま残る。また過放牧のさいに垂れ流した糞尿もそのまま栄養分となる。牧草の発芽、生育は当然いい。その上に肥料代、機械代はかからない。なるほどと思って感心したが、この方法(不耕起造成法ともいうようである)は東北大の川渡農場で初めて実験されたものだということをかなり後で知った。
 こうした蹄耕法なども含めて造成された草地や飼料畑は粗飼料の自給基盤を整備し、またかつての牧野の改良は家畜の放牧・育成基盤を整備した。そしてかつての牧野の一定の部分が、市町村もしくは農協、牧野組合の経営する公共放牧場として、乳牛の子牛や乾乳牛、肉牛の育成牛などを夏山冬里方式で放牧するようになった。つまり公共放牧場は夏山冬里方式での共同利用という伝統的な放牧技術と最新の草地造成の技術を融合させたのである。そしてそれにもとづく飼料基盤の拡大は乳牛や肉牛の頭数の増加を可能にした。
 この大家畜生産の拡大はまた、飼育過程の機械化・施設化の進展によっても可能となったものであった。

(註)
1.北海道別海町で実施され、ここでは根釧パイロットファーム事業と呼ばれた。なお、別海町とこの事業については下記の記事で触れている。
  11年2月28日掲載、本稿第一部「☆北海道入植、南米移住」
2.開拓入植するさい、農地以外に、生産と生活に必要とされる林野などが農地に付帯する土地=「付帯地」として、開拓農家に配分されるのが普通だった。

3.「混同農業」とは欧米のmixed farmingを訳した言葉で、畑作と酪農等の畜産を結合した農業のことである。北海道の開拓地では明治初期からずっとその確立がさけばれ、東北の戦後開拓地でもこうした農業の確立が言われた。なお、mixed farmingを「混同農業」と訳すのはおかしいということで、最近は「混合農業」と呼ぶ学者もいるが、私としてはこれまでのとくに北海道農業の歴史的経緯からしてやはり「混同農業」という言葉を使いたい。
4.下記の記事で述べた高清水牧野を利用している集落の一つである。
  11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(2段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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