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大家畜生産の発展

               山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(2)

                    ☆大家畜生産の発展

 牛の乳搾り、私がこれを初めて体験したのは大学の農場実習だった。子どものころやっていた山羊の乳搾りで慣れていたせいか手がひとりでに動いて苦労はしなかったが、牛の身体が大きくて最初はちょっとこわかった。
 この搾乳を機械=ミルカーがやる、人間は楽になるかもしれないが牛にいいのか、牛と人間の直接的な触れ合い=コミュニケーションがなくなっていいのか、古いタイプの人間だからかもしれないがそんな疑問を私が感じているうちに、あっという間に手搾りはミルカーにかわった。やがてそれはパイプラインにつながれ、牛乳はそれを通ってバルククーラー(貯蔵タンク兼冷却機)に入れられるようになった。そしてそれを乳業会社のタンクローリーが来て集めていく。
 搾乳というもっとも労力と時間を要する作業の省力化が進み、搾った生乳を入れた重い牛乳缶を背負って家から集乳トラックの来る道路まで雨の日も雪の日も運んだかつての苦労はなくなった。
 こうした機械化・施設化は、乳牛の飼育や飼料生産でも進んだ。そして毎年のように新しい技術が導入された。畜舎や飼育方式についてはスタンチオン、ウォーターカップ、ルーズバーン、フィードロット、フリーストール等々、サイレージについては塔型サイロ、バンカーサイロ、ラップサイレージ、飼料生産については刈り取り・集草のトラクタリゼーションが進み、モーア、レーキ、テッダー、ベイラー、フォーレージハーベスター等々が導入され、酪農家に調査に行くたびに知らないカタカナ語が出てきて、ついていくのが大変だった。まさにすさまじいばかりの急激な技術革新だった。
 これで一頭当たりの労働時間は本当に短くなった。したがって多頭化が可能となった。実際に多頭化が進んだ。というよりもせざるを得なかった。高度経済成長下での諸物価上昇、それに対応しない乳価のもとでは、多頭化して収入を増やし、生活費をまかなうより他なかったからである。またこの多頭化のためには機械化・施設化を進めなければならない。そうすると、それで浮いた労働力の燃焼と新しい機械・施設の過剰投資を避けるために、また多頭化を進めなければならなくなる。そうすれば今度は草地等の飼料畑も拡大しなければならない。拡大したらその借金を返すためにまた多頭化を進めなければならない。こうして悪循環的螺旋状的に規模拡大の道をたどることになる。
 そうなると、酪農以外の畑作などに労力や土地を向ける余裕はなくなってくる。一頭当たり労働時間は大幅に減ったが、総労働時間が減ったわけではなく、それどころかかえって増えたのである。そうなると他の作物に労力を向けるわけにいかない。畑も飼料作にすべてを向けなければならない。かくして酪農専業になってくる。かつて目指した「混同農業」は崩壊するのである。
 こうした規模拡大による酪農専業化を支え、また推進したのが近代化資金を始めとする低利融資だったが、いくら融資があってもこうした拡大に資金的な面からついていけない農家が出てくる。それで酪農をやめるか、多額の借金をかかえて離農せざるを得なくなる。こうして酪農戸数は激減することになる。
 この戸数激減や「混同農業」の崩壊等、さまざま問題はあったが、ともかく乳牛頭数は70年代に大きく増えた。そしてそれは北上を始めとする東北の山間地帯の酪農地帯としての発展を展望させるものであった。さらにそれは草との結びつきの少ないかつての都市近郊の搾乳業、粕酪というような日本的なと言っていいのか特殊なと言っていいのか、ともかくそういう酪農から飼料作と結びついた本格的酪農への発展として評価されるものでもあった。

 乳牛ばかりでなく、肉牛の生産も発展した。
 かつては役牛の老廃牛が牛肉を供給したのだが、一方での役牛の衰退、他方での牛肉需要の増大、さらに牛肉の食に関する日本的な習慣が、牛肉の生産を目的とする牛の飼育、つまり肉牛生産を成立させたのである。政府もその振興を推奨した。それで北上山地を始めとする東北の山間部でも肉牛生産が発展した。ただしそれは肉牛生産のうちの繁殖過程だけだった。
 すなわち、肉牛生産の過程は大きく分ければ飼料生産、繁殖(繁殖牛飼育+子牛=肥育素牛生産)、肥育の三つとなる。この過程はそれぞれ異なった質の技術なのであるが、それは連結しているので本来からいえば経営のなかで一貫して行われるべきものである。
 ところがこのうちの飼料生産は、とくに60年代後半から、外国に依存するようになった。自分の家で飼料を生産するよりも外国から輸入した濃厚飼料を購入して給与した方がずっと安上がりだったからである。しかも購入飼料に依存すれば、そして資金力さえあれば、飼料作面積つまり経営耕地面積に縛られることなく、多頭化できる。ただしこれは肥育過程においてのみ可能なことである。繁殖は輸入濃厚飼料のみにたよるわけにはいかないからである。粗飼料なしには繁殖障害が起きてしまうし、子牛は健康に育たないのである。したがって自分の家で飼料生産をすることが必要となる。そうなると頭数は簡単に増やせず、飼料作面積の大小に左右される。このように肥育と繁殖は、飼料輸入を契機に土地との結びつきにおいてその性格を異にするようになる。
 もう一つ問題となるのは、繁殖牛にとっても子牛にとっても、放牧などの運動が必要だと言うことである。いうまでもなく放牧には広大な土地面積が必要である。それを個人で所有しているものなどいない。公共放牧場のようなものが近くにないところでは繁殖はきわめて難しい。
 その結果、繁殖は粗飼料生産ができる地代の低い土地が豊富に存在し、公共放牧場などが多くある山間地帯に、肥育は食肉市場に近く資金を相対的に多く持っている平場地帯に位置するようになってくる。そして山間地帯の繁殖牛飼育農家が生産した子牛=肥育素牛を、平場の肥育農家が購入して肥育して販売するという、地域間・農家間分業が成立することになる。
 しかし、山間地帯で繁殖牛飼育を振興するのは容易ではない。過疎化・高齢化も進んでいるし、とくに一頭何十万もする高価な和牛雌牛を購入するのも大変である。こうしたなかで全国的に肥育素牛の不足が問題となってきた。それを解決するために、また過疎山間地振興、高齢農家の生き甲斐・所得増対策のために、政府は家畜導入事業を展開した。つまり、繁殖用肉牛を一定期間貸し出し、その後譲渡する、その譲渡代金は子牛の物納で払うというものである。かつての馬小作や豚小作でやられていた「子返し」の近代版とでもいえよう。これは繁殖牛の導入と拡大に大きな役割を果たした。
 こうして山間地帯は繁殖牛飼育農家による肥育農家への肉牛子牛=肥育素牛の供給基地となったが、そればかりでなく、酪農家が乳牛の牡犢(ぼとく=雄の仔牛)や老廃牛を肥育素牛として供給する基地ともなった。
 北上山地も同様でその中心的な役割を果たすのであるが、60年代から70年代にかけての草地造成、北上山系開発事業はそれを支えるものであった。ただ当初力を入れていた日本短角種の飼育、寒冷地という風土に合い、粗食に耐え、脂肪分が少ないというよさをもつ独特のこの牛の飼育が、牛肉の輸入自由化でいわゆる黒毛和牛の飼育へと変わってしまった。こういう問題はあるとしても、また肥育と繁殖の分離、肥育の外国飼料依存という大きな問題をかかえていたとしても、70年代に進展した肉牛飼育の発展はともかく評価すべきだし、その上に立ってさまざまな歪みを正していくことが21世紀に向けての課題であったということができるであろう。

 90年代のいつごろだったろうか、さきに述べた北上山系開発で入植した酪農家が借金で苦しんでいることを取材しているNHKのディレクターが私のところに取材に来た。そして私に「北上山系開発は誤りだったのではないか」と聞いた。私は即座に答えた、「まちがったとは思っていない」と。
 飼料自給率の向上、山間地帯の過疎からの脱却ということからして北上山系開発のような未利用牧野や山林の草地造成、そして酪農振興はどうしても必要だと思うからである。間違っているのはその後の農業政策であり、低乳価をそのままにし、外国からの粗飼料や乳製品、牛肉の輸入をどんどん進め、さらには清涼飲料の異常な普及を野放しにするなどして山間部の酪農経営を成り立たなくさせた国の政治の根幹にこそ問題があるのであって、開発それ自体はまちがっていなかったと思うと。もちろん、先に述べた上北機械開墾のような地域や経営の実態を無視した形式的機械的官僚的な計画の作成と実施に間違いがあったろうし、それは行政の責任でただしていく必要があるとは思う。だからといって開発計画それ自体が間違いだったとは思わない。東北のチベットとまで言われた北上山地の中央部に位置する葛巻町がこの開発を契機に「東北一の酪農の町」になったことはそれを示しているのではなかろうか。もしもこのとき草地造成せずにいたら、今の葛巻町はなかったであろう。
 もちろんその葛巻町でさえ酪農経営は苦しい状況におかれている。そしてかつての芝草地はもちろん、せっかくつくった草地も利用されず、荒れたままになっているところも北上山地のなかに出てきている。その後に来るのは裸地化である。寒冷気候だからなおのことそうなりやすいという。その昔より人間がきちんと管理してきたから自然にできた芝草地でさえも裸地化せずに牧野として維持されてきたのだが、自然をまもるという視点からもまともな酪農政策を展開させていく必要があるのではなかろうか。

 それはそれとして、ともかくこの北上山地を始めとする東北の山間畑作地帯は、かつて地域の発展を妨げた公有林、生産力の立ち後れの象徴であった共有林野の大量の存在を逆手にとって利用して草地造成を始めとする農地開発を進め、大家畜生産を発展させてきた。
 しかし、すべての農家が酪農に取り組むわけにはいかなかった。いくら草地造成されたと言ってもデントコーン等の飼料を栽培する普通畑面積がある程度必要であり、それを十分に確保できない中下層農家は多頭化できず、乳価低迷に対応して所得を確保することはできないからである。繁殖牛の場合もそう簡単に多頭化できないし、輸入飼料の価格動向=肥育農家の子牛需要に価格が大きく左右され、所得があがらない。それで大家畜飼育をやめる農家もでてきた。こうした農家のなかには出稼ぎで所得を稼ぐという道、つまり離農へとつながる道をたどったものもいたが、葉タバコ、ホップ、養蚕などの工芸作物、さらに高冷地野菜の導入と拡大に取り組み、大きな成果をあげた農家もかなりあった。
 東北の山間地帯における戦後のさまざまな農地開発は畜産の発展に大きく寄与したのだが、工芸作物地帯、園芸地帯としての新たな発展にも寄与したのである。

(註)次回の掲載は11日(月)とさせていただく。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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