Entries

働く農家の子どもたち(2)


               ☆子守り―幼い妹の死―

 幼い弟妹がいる子どもには子守りの仕事が与えられた。農村部の小学校には弟妹をおんぶしてくる子どももいた。学校も赤ん坊をつれてくるのを許していた。私が学校に入る頃にはそんな子どもは少なくなっていたが、それでも高等科(小学校六年を卒業した後さらに二年間教育する課程)に毎日子どもをおんぶしてくる女子生徒がいた。
 どこの家でも兄弟が多く、しかも農家には専業主婦として幼児のめんどうを見ることのできる母親などはいなかった。働けるものはすべて田畑で働いており、赤ん坊のめんどうをまともに見ることのできる大人などいない。祖母がいれば世話をしてくれるのでいいが、いなければ学校に連れて行かなければならなくなるのである。たとえ祖母がいても、赤ん坊の世話にかかりっきりになるわけにはいかない。大家族の食事、洗濯等々あらゆる家事労働をしなければならないし、屋敷畑での作業もあるからである。いつまでも赤ん坊を「えずこ」(乳児を入れておくためにわらで編んだ丸いかごで、東北地方で使われたもの、地域により呼び方が若干異なるが、山形県の民芸品「いずめこ人形」を見てもらえばどのようなものかわかろう)に入れておくわけにもいかない。
 地主や金持ちは子守りに貧乏人の子どもを雇う。小作人等の女の子のなかには、小学校を卒業すると(人によっては卒業する前に)子守りとして口減らしのために住み込みで雇われるものもいた。
 しかし普通の家ではそんなことがやれるわけはない。使えるのはその兄姉などの子どもである。それで子守りは学校に行っている兄姉の仕事となる。学校から帰ってくるのを待っていてすぐに赤ん坊をおんぶさせられる。さらに、歩くようにはなってもまだ手のかかる幼い弟妹のめんどうも見させられる。

 私もそうだった。小学一年から妹をおんぶさせられた。田植えや稲刈りのときは昼飯を田んぼで食べるほど忙しく、母も一日家にいないので、土日や農繁期休みになると「つつ(乳)のましぇさ(飲ませに)えってこい(行ってこい)」と祖母に言われ、まだ乳児の妹をおんぶして、田んぼに母の乳を飲ませにいった。
 また、妹をおんぶするばかりでなく、歩けるようになった他の幼い弟妹をひきつれて遊びにいかなければならなかった。これが毎日の仕事だった。
 近所の友だちと遊んでいるうち、おんぶひもが肩に食い込んでくる。鬼ごっこをすると、背中が重いのでよく走れず、すぐつかまってしまう。妹が泣いているときなどはかくれんぼの仲間入りはできない。泣いていなくとも笑ったり騒いだりするのですぐ見つかってしまう。おなかをすかしていたり、おしめがぬれていたりすると、いくらあやしても泣きやまない。こっちが泣きたくなってくる。
 ようやく背中で眠る。ほっとして家に戻り、祖母に寝かせてもらう。そのまま寝ればいいが、ぐずって起きてしまったら悲惨である。もう一度おんぶしなければならない。うまく寝たら万歳である。軽くなった背中に押されるように外に出て、みんなとゆっくり遊ぶ。
 妹は遊びにじゃまだった。ところがその妹は幼いままに死んでしまった。

 戦況が悪化しつつあった一九四三(昭十八)年の夏、小学校二年だった私は学校で流行っていたはしか(麻疹)に感染し、かなり長い間寝込んだ。その間にはしかを弟妹四人すべてにうつしてしまった。その被害をもっとも受けたのは、一歳半にもなっていなかった歩き始めたばかりの一番幼い妹で、かなりひどい熱が出た。当時は、はしかなどで医者にかかるものではなく、ともかく寝て自然治癒を待つだけだった。悪質なはしかだったようで、かなり時間はかかったが、何とか回復した。しかし、妹のはしかだけは一ヶ月経っても二ヶ月経ってもなおらない。医者は往診できてくれるが、当時の医療技術では、ましてや戦時中の医薬品不足のもとでは、手の施しようもなかった。入院してもどうにもならない。秋には腎臓病になってしまった。病は悪化するだけだつた。よほど苦しかったのだろう、妹はいつもぐずってばかりいた。
 悪いときには悪いことが重なるものである。十二月半ばになって、父が当時流行していた腸チフスにかかってしまった。雪の中、そりに寝せられて、病院に運ばれ、そのまま隔離入院させられた。病院に行く途中高熱のためのどがかわいてたまらない、しかし水を飲むのは禁止されている、田んぼの雪解け水がちょろちょろ小川を流れている、這っていってでも飲みたかった、こんなことを父は後で話していた。私ども子どもは教えられなかったが、かなりの重態で絶望視されたらしい。
 母は母で出産間近である。昭和十九年の正月の三が日が過ぎた四日の日、母は弟を産んだ。妹は母から引き離された。妹は母のところに行きたいと泣いて泣いて母を呼んだ。しかし母の寝ている部屋には入れられなかった。今は考えられないことだが、当時は子どもを産めば三七・二十一日はおかゆと梅干し、若干の野菜だけの食事で、魚肉はもちろん油ものは産後の身体に障ると一切食べさせず、ただただ寝て回復を待つだけというのがこのへんの常識だった。そんな状況で身体が弱っている母のところに妹を連れて行けば、世話はできないし、母の産後の肥立ちも悪くなる。それで少なくとも一週間の間は妹にがまんさせるより他なかったのである。
 泣いて泣いて泣き疲れた妹は、三日も過ぎた頃から、何も言わなくなった。母と離れて四日目の夜、祖母に抱かれた妹はとなりの部屋に寝ている母に声をかけた。
 「おかちゃん、おかちゃん」
 二度呼びかけた後、祖母に言った。
 「ねるは(寝るよ)」
 そして祖母に抱かれて泣きもしないで寝た。
 次の日の朝方まだ暗いうちに、妹は死んだ。祖母の隣に妹、その隣に私、そのまた隣に祖父が寝ていたのだが、祖母からたたき起こされて、妹の死を知らされた。
 産褥から出てきた母は妹をしっかりと抱いていつまでもいつまでも離さなかった。産後の身体に差し支えるからとむりやり引き離されるまで抱いて泣いていた。
 妹をかわいがってくれた隣りの家の娘さんが死を聞いて朝方かけつけてきた。枕元で妹に軽く呼びかけた。
 「つやちゃん、つやちゃん」
 そして悲鳴をあげた。
 「つやちゃーん」
 その声は今も私の耳から離れない。仏壇の前に北枕で一人寝かされている妹のふとんにしがみついて大声をあげて泣いてくれた。
 遠くに入院している父の付き添いに行っていた祖父には近所の人が知らせてくれ、朝おそくあたふたと帰ってきた。祖父の泣く姿を見たのは生まれて初めてだった。

 お葬式で写真をかざろうにも妹の写真はなかった。当時のことだから写真機などは家になかったし、写真屋に行く暇もないほどごたごたと忙しかったからだ。こんなことになるなら無理してでもとっておけばよかったと家族は後悔したがもう遅かった。しかし、一度だけチャンスはあった。前の年、私が妹をおんぶして友だちの家に遊びに行ったとき、その家に客で来ていた兵隊さんといっしょの写真をとってくれたのである。しかしそのとき機嫌の悪かった妹は背中で泣いていた。それが恥ずかしかった私は頭で妹の顔をむりやり隠した。だから写真には私の顔の後ろに妹の耳がちらっと写っているだけである。泣き顔でもいいから撮っておけばよかった、なぜあのとき恥ずかしがって隠したのかと、今でも自分を責めている。
 妹は小さな小さなお棺に入れられ、近所の人に背負われて、火葬場に向かった。父と母がいない雪の中のお寺での葬式はさびしく終わった。

 妹の死は、生死の境をさまよっていた父には知らせなかった。でも、付き添いに来ていた祖父のあわただしい動きを熱に浮かされながら見ていて、何かあったようだとは思っていたらしい。
 何とか危機をのりきったところでようやく私たち子どもがお見舞いに行くことを許された。病院に行くとき、妹の死んだ話は絶対にするなと祖母からきつく言われた。父はまだ起き上がれず、布団に臥せったまま私たちとしばらくぶりで話をした。少し経ってから、「艶子(つやこ、妹の名前)は何してる?」と父が聞いた。とたんに幼い弟が答えてしまった、死んだと。止めようとしたがもう遅かった。心臓が止まりそうだった、頭がカッと熱くなった、あわてて父の顔を見た。父は「んだが(そうか)」と静かに言っただけだった。
 私たちが帰った後に祖父がきちんと教えたようだ。そのとき父は一言も口をきかなかったという。
 退院して家に帰った父はまず仏壇の前に行った。妹のお骨をしっかりと抱きしめて、父はこう言って泣いた。
 「おれの身代わりになって死んでくれたのか、悪かったな、悪かったな」
 いっしょに仏壇の前に座った母も私も泣きくずれた。

 私のもってきたはしかで幼い妹を殺してしまった。私の一生の傷となった。だからこのことはほとんど話したことはない。というよりも話しできなかった。話しているうち涙が出てきて絶句してしまうからである。苦しくて書くこともできなかった。
 妹には写真もない。しかし、一年九ヶ月でしかなかったけれども、艶子という妹はたしかにこの世に存在していたのだ。緑いっぱいの隣りの家の庭で六月の陽射しを浴びながら三輪車に乗っていた妹、三輪車からころげ落ちて泣いていた妹、この歩き始めたばかりの元気だったころの妹の姿が、いまだに脳裏にはっきりと焼き付いている。
 こんな妹の姿を記憶しているのは私しかもういない。妹の生きていた証をいかに苦しくとも書きとめておくべきだろう。それが私のせめてもの罪滅ぼしなのではないか。そんな思いで、ようやく筆をとった。しかし、書いている途中から涙があふれ、いまだに止まらないでいる。
 母はそれから二年後に死んだ。妹はこれでようやく恋しい母の胸にまた抱かれることができるようになった、あの世でではあったが。
スポンサーサイト

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR