Entries

葉たばこ・ホップの技術革新と規模拡大




               山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(3)

                ☆葉たばこ・ホップの技術革新と規模拡大

 大学院に入ったときのゼミで恩師のHS先生が使った本はドイツの農業経営学者ブリンクマンの書いた『農業経営経済学』だった。翻訳が悪かったと私は思うのだが、ともかく難解だった。
 そのなかに、作目・部門の立地は自然条件と市場からの交通地位(時間的経済的距離)によって決まる、交通地位が遠くなればなるほど自然条件よりも交通地位によって作目の立地が影響を受けるということがあった。たしかにその通りだった。いかに地域の自然条件に適する作目・部門があっても市場から遠いとつくれない。そして遠隔地帯は畑作物については穀物、工芸作物などを栽培する以外になかった。
 戦後の東北でこの工芸作物の中心となったのは、桑、ナタネ、葉たばこ、ホップ、コンニャクなどだった。ナタネの盛衰については簡単にだが前に述べた(註1)し、70年代に山間畑作地帯で大きな動きがあったのは桑、葉たばこ、ホップだったので、この三つについて見てみよう。

 ところで、いま桑を「工芸作物」と言ったが、実は桑は工芸作物に分類されていない。
 工芸作物は「工業の原料とすることを目的に栽培される作物」と一般に定義されているが、桑はそれ自体加工原料ではないからである。蚕の餌とすることを目的に栽培されており、飼料作物ともいえるものなのである。
 だからといって飼料作物に分類するわけにもいかない。桑を餌にする蚕は動物とはいってもいわゆる家畜とはその質を異にするからである。
 また桑園は樹園地に分類されているが、いうまでもなく桑それ自体は果樹に分類されてはいない。この点からしても特別な作物と言うことになる。
 さらにかつて桑は、他の工芸作物とはいっしょくたにするわけには行かない作物、米と並ぶ重要な作物、とりわけ明治以降は米とともに日本の資本主義を支えてきた作物だった。そうなると、米と同じようにこれはこれとして政治的経済的に特別に取り扱う必要がある。こうしたこともあったからだろう、農政は桑と繭を特別に位置づけ、桑を工芸作物のなかには入れてこなかった。
 しかし、今は工芸作物に入れていいのではなかろうか。そもそも最終生産物である繭は工業原料で桑はそれを生産するために栽培しているのであり、つまり桑も繭を通じて間接的ではあるけれども工業原料となるのだからである。また高度経済成長以降は特別に位置づけられなければならない作物ではもはやなくなったこともある。
 こんなことを考えているときふと気がついたことがある。そういえば「特用作物」という分類の中に工芸作物と桑が入っていたはずだと。調べてみたらたしかにそうなっていた。それではこの言葉を使おう、一々桑を工芸作物に入れる理由を語る必要がなくなる。そう思ったのだが、今度はその言葉の定義が気になった。辞書によれば特用作物とは「食用以外の特別の用途にあてるため栽培・加工する農作物」となっている。一方、北海道庁のホームページでは工芸作物と薬用作物などからなるものとしている。つまり工業原料用、薬用などの特別の用途にあてる作物であるとしており、この点では辞書の言うことと一致している。しかし甜菜、こんにゃくなどは工業原料用であるといっても最終生産物は食用であり、食べることを目的として生産されているものである。とすると、これが特用作物に入っているのはおかしいということになる。要するに食用作物の食用と対比して特用としているから矛盾するのである。したがって、特用作物を「特別な用途」という消費の用途で分類するのではなく、「特別な加工をへて利用される作物」あるいは「目的とする収穫物に特別に人手をかけないと人間が利用することのできない作物」とした方がよくはないだろうか。こうすると、工芸作物とどこに違いがあるかという疑問が生まれるだろうが、伝統的に工芸作物から除外されていた養蚕と薬用作物が特用作物に入っているところに相違があるとした方がいいのではなかろうか。
 そんなことから「特用作物」のなかに養蚕と工芸作物を位置付けた方がいいのではないかとも思うのだが、ここではまず葉たばことホップについて述べ、桑は果樹との関連もあるので次回見てみることにする。

 鳥海山、私の大好きな山である。東北一の高山であるし、海からつまり海抜0㍍から一気に2000㍍へとそびえ立つ山容は見事である。さらにお花畑、雪渓がすごい。学生時代に登ったのだが、忘れられなかった。
 75年の初夏、この鳥海山の秋田側の麓に位置する鳥海村(現・羽後本荘市)の調査に入った。この予備調査で行った夜、泊まった国民宿舎から鳥海山がうっすらと見えた。そのとき、家族を連れて登り、鳥海のすばらしさを味合わせたいと、心がうずいた。夏休みになるとすぐに小学生だった子どもと家内を連れて実際に登った。家族はそれから登山が病みつきになってしまった。
 このきっかけをつくってくれた鳥海村は耕地率7%の山村なのだが、調査対象の提鍋(さげなべ)集落32戸の一戸平均経営面積は1.9㌶と比較的広かった。これは戦後開拓で裏山が畑となり、次三男の6戸がそこに分家して入植し、同時に既存の農家28戸に若干の面積が配分されたためである。
 この開拓地では当初は普通畑作物、55年以降は乳牛の導入にともなって飼料作物を栽培し、さらに集落の入会地6㌶を借りて草地造成したが、この程度の面積で多頭化を迫られている酪農をいとなむのは容易ではない。そこで酪農をやめ、出稼ぎに行くようになった。また、入植者のうちの2戸は八郎潟干拓地などに新天地を求めて流出してしまった。
 何かいい作物はないか。以前から地域でつくっている葉たばこ作が考えられる。10㌃当たり所得がきわめて高いからである。しかし、労力面からして10~20㌃程度しか栽培できない。これでは生活ができない。あるとき岩手県に先進地視察に行った。そのとき、1㌶の葉たばこを栽培している農家を見た。驚いた。もしもそれが技術的に可能であるならば、酪農以上の所得をあげることができる。そこで71年以降草地や飼料畑のタバコ畑作への転換に踏み切ることにした。開拓農家ばかりでなく、既存農家もその導入と拡大に努めた。
 その5年後に私たちが調査に入ったわけだが、当時は13戸の農家が16㌶の葉たばこを栽培していた。一戸平均1㌶強、しかも2㌶以上経営が4戸もあり、最高2.7㌶、かつては考えもしない面積を耕作していた。
 それを可能にしたのは60年代に進んだ技術革新だった。

 葉たばこ作、これは育苗から肥培管理、収穫、乾燥、調整と非常に手間がかかる。かつては10㌃当たり80~90人もかかった。かわりに10㌃当たり所得は高い。それで普通畑作物の低所得に悩む山間畑作地帯の農家はそれを積極的に導入した。しかし、こうした労働集約作物だから規模拡大は非常に難しい。家族員数にもよるが、20㌃栽培が限度だった。などとわかったようなことを言っているが、研究を始めた頃の私は畑を見てあれが葉たばこだとわかる程度で、何にも知らなかった。研究室の技官をしていたTKさん(註2)がたまたま葉たばこ作農家の調査をしていたので、彼からいろいろ教わったのだが(彼は一貫して葉たばこ作の研究を続け、退官のときの1989年にそれをまとめて『戦後東北におけるたばこ作経営の展開』という著作を著し、東北農業経済学会学術賞を受賞している)、たとえば収穫は葉が成熟するのにあわせて下の葉から順に穫っていくのだという。だから、夏から秋まで毎日のように畑での収穫作業が続く。それも一枚一枚ていねいに穫って縄に吊し、乾燥する。冬になるとそうして乾燥させて縮んだ葉を一枚一枚広げて伸ばす。これを「葉伸し(はのし)」といい、冬場の仕事だった。これは等級が落とされないようにかなり神経を使ってやらなければならないが、それを出荷場に持っていく。すると専売公社(大蔵省専売局から1949年に変わったもので、80年からはいわゆる民営化でJT=日本たばこ産業株式会社となった)のお役人がきて等級をつける。お役人のなかにはいばったり、意地悪だったり、気分によって等級を落としたりするものもいたらしい。この冬場の仕事は就業機会のない時代はよかったが、60年代になって増えて来た出稼ぎと競合するようになる。そして出稼ぎを阻害する葉たばこ作をやめる農家が増えてきた。困った専売公社は、葉を伸(の)さなくともよい、つまり「絞りっ葉(しぼりっぱ)」のまま出荷してもいいということにして葉たばこの減少を食い止めようとした。しかしそれだけでは食い止められない。いくら葉たばこの所得がいいといっても栽培面積が限られているので、それに労力を使うよりも出稼ぎに使った方がずっといいからである。それで栽培農家が減ってきた。それを食い止めるために価格をあげることが考えられるが、少ない作付面積から出稼ぎを食い止めるほどの所得が得られるような価格をつけるわけにはいかない。
 そこで専売公社は省力技術の導入による葉たばこ振興策をとるようになった。つまり規模拡大を可能にして価格をあげなくとも所得が確保できるように、また規模拡大農家に生産を集中させることで小規模農家、小規模産地を切り捨ててコスト低下を図れるように、機械化省力化の開発と導入に力を入れるようになったのである。
 そして60年代後半には、耕起はトラクター、畝立ては畝立て機、マルチはマルチャー、中耕・培土・マルチはがしの作業は畑管理機、防除は防除機、梱包は梱包機、育苗は育苗施設、乾燥は乾燥施設でやられるようになった。まさに手労働・労働集約からの脱却が進んだ。それが1㌶以上の葉たばこ作経営の成立を可能にしたのである。
 さらに、その少し後になるが、収穫作業も大幅に省力化されるようになった。下葉はいままで通り一枚一枚手で摘むが、それを採り終わった後に残る本葉と上葉については幹ごと刈り取るようになったのである。そしてそれを乾燥室に吊り下げる。つまり「幹干し」をする。これも省力化を大きく進め、それは3㌶経営まで可能にした。
 こうした機械化施設化で支出が増え、所得率は下がった。それでも鳥海村での10㌃当たり粗収入は30万円を超え、所得は15~20万円で米以上の所得が得られ、一日当たり労働報酬4千円以上と兼業賃金よりもずっとよかった。しかも規模拡大が可能になったので総所得は増える。
 貧しかった山間畑作地帯の農家にも、出稼ぎなどもせずに地域で生きていける展望が出てきた。もちろんそれは旧家と開拓農家などの2~3㌶の耕地面積をもつ農家だけであったが、たとえば鳥海村では入会林野を造成してつくった草地が酪農衰退で利用されなくなっているので、それを利用すればさらに多くの農家の規模拡大が可能であった(現実には補助金の目的外利用となるので畑地化できなかったが)。
 私たちが調査に行ったとき、農家の多くは生き生きとしていた。とくに開拓農家はかつての苦しみから脱却したばかりでなく、地域のリーダーとして、技術の中心的担い手として活動していた。
 これは鳥海村だけではなかった。東北の山間畑作地帯では葉タバコ作の団地があちこちにつくられ、規模拡大も大きく進んだ。そもそも既存の稲作地帯などより一戸平均面積が多く(畑中心だとそうせざるを得ない)、加えて戦後開拓や北上開発などの耕地造成でさらに面積が増えたということがそれを可能にしたのである。
 北上山地も同様で、とくに73~74年以降、つまりオイルショック・世界的食糧危機による諸物価高騰等で小規模酪農は成り立たなくなり、飼料価格高騰・子牛価格低落で肉牛飼育もうまくいかなくなるなかで、家畜飼育をやめて葉たばこ作に転換し、その規模拡大を図る農家が多く出てきた。
 前々回の記事で取り上げた遠野の高場・上の山集落(註3)の場合などはその典型で、70年に50頭もいた繁殖牛が75年には20頭に減り、一方葉たばこ作は5㌶から9㌶へと倍近く増やしている。そして一戸平均作付面積は60年16㌃、70年30㌃、76年43㌃と拡大した。この拡大は、さきに述べた技術革新、大規模草地造成事業などでつくられたが肉牛衰退で荒れ地化しつつあった草地の開畑、原野の開墾、さらに減反政策の利用で可能となったものだった。調査した当時はさらに葉タバコ作の拡大を図ろうとする意欲をもっており、借地をして作付面積を増やす農家も多かった。しかしそれは1~2㌶層を中心とする中下層農であり、2㌶以上層はホップの拡大に力を入れていた。

 1961年ではなかったかと思う、戦前の小作争議の調査で山形県東根市の畑のなかを歩いていたとき、調査の手伝いにきてもらった鳥取出身の大学院生に、ホップ畑を指してあれは何かわかるかと聞いてみた。ナガイモかな、それにしては蔓が高すぎると首をかしげる。わからないのは当然だった。当時は北海道と山形で栽培されている程度だったからである。だから私は知ってはいた。しかし、ビールに使うホップの花それ自体を見たことはなかった。栽培している農家が近くにいなかったからである。初めて見たのは、1966年、月山の麓にある西川町での山村振興調査のときだった。ちょうど収穫の時期だったので、成熟した花をじっくり見ることができた。
 その時ふと思った、前にどこかで見たことがあると。そうだ、登山のために山寺村(現・山形市)の山懐を歩いていたとき、道ばたの草むらのなかにあったものだ。でも私の見間違いかもしれない。そこでその話を山寺生まれの母にしてみた。そしたら、それはまちがいなくホップだ、小学校の行事で上級生全員が山麓に行ってホップ摘みをさせられたことがあるという。栽培しているホップの種子でも落ちて野生化したのだろうか。それともそもそも日本にホップがあったのだろうか。不思議に思って調べてみた。あった。ホップの近縁種のカラハナソウというのが北日本に自生しているというのである。栽培しているホップは西洋からもってきたものでセイヨウカラハナソウというのだそうである。とすると、ビール会社に売るために学校はカラハナソウ摘みをやらせたのだろうか。ちょっと考えにくい。漢方薬の材料にもなるそうなので、もしかしたらそのためなのかもしれない。母は何のために採らされたのか記憶にないと言う。

 話はもとに戻るが、西川町のホップ農家をお訪ねしたとき、その年初めて導入したという花摘み機による摘花をやっていた。もちろん私もそれを初めて見るわけだが、米の脱穀機に非常によく似ていて、円筒状のこき胴の表面に逆U字状の鉄線でできたこき歯が並んでいた。こき歯の間隔が米の場合よりも大きく、こき胴の回転がおそいというのが違っているだけである。回転しているこのこき胴に畑から収穫してきたホップのつるを入れる。すると葉と花がこき歯に引っかかって落ちる。葉はこき胴の回転の風で遠くに飛ばされ、花が残る。
 これは革命だった。そもそもホップは葉たばこ以上に労働力がかかり、葉たばこ作と同様に10~20㌃しかできず、家族労力が多いか、雇用が容易に手に入りやすいかでないと導入も拡大もできなかった。なかでも労力がかかったのは収穫作業だった。はしごをかけて高いところに登り、花に傷がつかないように気をつけながら一粒ずつ手で摘むのだから、10㌃あたり40~50人、総労働時間の半分もかかったのである。しかも危険だった。ところが今度は、つるを花のついたまま切り落とし、それを畑から家に運んできて花摘機に入れ、花を落とすというのだから、4~5人ですむ。労働力の流出で人手不足となっていた農家は非常に喜んでいた。
 もう一つの大変な作業は乾燥で、小屋などで練炭、炭火で乾燥し、それを広げて熱を冷ます、これも神経を使う大変な労働だったのだが、農家の方たちはこの省力化のための乾燥施設を共同で導入するために補助融資を強く希望していた。
 その後西川町には何回となく調査や講演に行ったが、このホップ乾燥施設が導入されたかどうか聞いていない。でもきっと導入されたのではないかと思う。政策的な援助が展開されていたからである。
 高度経済成長にともなうビールの消費の急速な伸びと同時にホップの需要も増加し、ビール会社はその作付契約面積を拡大しようとしていた。これに対応してとくに山間地帯の農家は相対的高所得作物として導入拡大しようとした。しかし、ホップの需要拡大をもたらしたのと同じ経済成長で労働力は流出し、また諸物価は上昇してこれまでの零細面積では生活できない。これを解決するには省力化と規模拡大しかない。そこで技術革新が進められ、政策的な援助が展開されたのである。

 岩手県の遠野に76年に調査に行ったとき、通風乾燥機が導入されており、またかなり大型化したホップ摘花機も導入されていた。
 そもそも遠野ではホップは栽培されておらず、64年に初めて導入されたものだが、肉牛生産より有利だということで徐々に拡大し、また70年からは減反奨励金を利用して開田地などをホップに切り替え、さらに肉牛生産の衰退で使わなくなって荒れ地化しつつあった草地や原野を開畑するなどして、ホップ作付面積を増やしてきた。さきほど触れた遠野の高場・上の山集落を例にとれば、76年には40戸のうち12戸が約8㌶、一戸平均65㌃を栽培するにいたっている。約10年でここまで急増したのは、高所得作物であることが農家の拡大意欲を刺激したことによるものであることはいうまでもないが、同時に技術革新にもよるものであった。
 いま述べた収穫・乾燥だけでなく、蔓の誘引、側枝剪定などの管理作業、防除作業の機械化も60年代後半に進展した。これまでははしごをかけたり、竹馬に乗ったりして管理作業をやってきた。いうまでもなくこれでは能率は悪い。しかもきわめて危険だった。それが機械化された。トラクターあるいはテイラーが曳いたトレーラーに高いやぐらをつくり、そこの上に1人か2人登って作業をし、別の1人がトラクターを運転してその移動が自動的に行えるようにするのである。
 こうした技術革新が導入と規模拡大を可能にしたのだが、それを現実化できたのは経営面積の大きい農家だけだった。たばこ作よりはずっと固定資本投資が大きいので資金力のある農家でないと難しく、永年作物のために借入地に植えるわけにいかないので土地を多く所有している農家しかできないからである。それで中下層農はタバコ、上層農はホップ栽培となった。
 なお、この技術革新は、旧産地の小規模農家の駆逐、山形村山の山間部のような傾斜がきつくて圃場区画と経営面積の零細な地域の駆逐をもたらした。機械化に対応できないからである。トラクターが入って作業できるような、また畝幅がきちんと広くとれるような大きさの区画をもつ畑でないとやれなくなってきたのである。
 この点で、遠野などの北上山地は条件に恵まれていた。傾斜の緩い小起伏地が広がっていたからである。それから秋田の大曲周辺などの水田地帯では減反を利用して水田にホップの大規模園地を造成している。かくしてホップの栽培面積は岩手が東北で1位、秋田が2位、先進地だった山形は3位になってしまった。それはそれとして、ともかく60年代後半から70年代にかけて進んだ技術革新と農地開発が東北の山間地における特用(工芸)作物の発展を展望させたのである。
 それには養蚕も入っているが、この養蚕は東北においても特殊な位置づけにあり、また桑園と果樹園はともに樹園地であって相互に代替関係もあったので、節を別にして次に述べることにしよう。

(註)
1.11年5月11日掲載・本稿第二部「☆水田面積の拡大―開田ブーム―」(1段落)参照
2.10年12月17日掲載・本稿第一部「☆本格的な農作業と技能の伝承」(6段落)参照
3.11年7月1日掲載・本稿第二部「☆山地の大規模開発」(6段落)参照
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR