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北限(?)の養蚕


             山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(4)

                    ☆北限(?)の養蚕

 養蚕との関連でちょっとだけ脇道をさせていただきたい。
 以前私が網走で住んでいた家は海の見える高台にあった。家の北側に高い崖があってその下を道路が走り、そのまた下に街があり、その向こうにオホーツク海が広がっていた。その崖にはさまざまな木々が生えていた。6月になるとその木々は深い緑に包まれ、雑草が勢いよく伸びてくる。それを真下にして海を眺めることができるのだが、7月過ぎてからではなかろうか、その緑の中に赤い小さな実がたくさんついている木があるのに気が付いた。何だろうと思ってよくよく見たら、葉っぱが桑によく似ている。小さな実はその大きさからして、また色が緑から赤、そして紫へと変わっていくことからして、どうもくわご(桑の実)のようだ。たしかめようと思ったが、けわしい崖を降り、背の高く伸びたイラクサなどの雑草をかきわけて見にいくわけにはいかない。この周辺はその昔農地だったと聞いたこともあるので桑の木が残っていても不思議ではない。それにしても何で崖の中腹にあるのかと疑問になるが、かつては稚蚕(まだ幼い蚕)に柔らかい葉を食べさせるために山桑から採ったり、山の木々のなかにわざわざ桑の木を植えて採ったことがあったということからして、これも不思議ではない。
 そもそも入植者というものは、入植した地域に適する作目として推奨されたものだけでなく、自分の故郷でつくっていた作物の種や苗をもってきてあるいは何とか手に入れて植えてみるものである。戦前は米と繭が日本農業の柱であったので、米はもちろんやってみたし、繭についても桑を植えてやってみようとしたはずである。もしかすると行政も導入を試みたのではなかろうか。結局自然条件にあわないからとやめてしまったかもしれないが、網走でもやったのではないか。だからここにその遺物として桑があったとしてもおかしくはない。
 そんなことから私はそれを桑の木だと勝手に断定した。生家では私の生まれる頃養蚕をやめていたとはいえ、周辺にはたくさんの桑園があり、くわごを採って唇を紫色にしながら食べた私が間違えるわけはない。そして、くわごを見るのを楽しみにしながら7年間過ごしてきた(食べる楽しみを味わえなかったのが残念だったが)。とはいいながらもやはり、私の見間違いではなかったかと不安になる。網走にいるときここで養蚕をやっていたなどという話を聞いたことがなかったし、そもそもこんな寒冷地でやれたのかと疑問にもなる。
 仙台に帰ってきてからふと思いついて、網走のFMさんにそのことを聞いて見ることにした。彼は網走管内出身であり、農協の営農指導員を勤めた後農大オホーツクキャンパスの事務職員となり、事務部長も勤めて退職された方なので網走の農業には詳しい。彼に記憶がなくとも知り合いの長老の方にでも聞いてもらえばいい。彼なら適任だと思って申し訳ないけれどメールして見た。
 翌々日FMさんから次のような返事が来た。

 網走の養蚕にまったく覚えがないので市立図書館に調べに行って見た。しかし網走市の産業としての養蚕の記録は一切なかった。そこで各集落でつくっている「開基〇〇周年記念誌」等の十数冊について農業の欄を見てみた。ここにも記述はない。あきらめかけたところ、たまたまそこにあった「二つ岩部落」(能取岬の近くにある)の歴史を書いたガリ版刷りの草稿を見つけた。セピア色に変色しているその草稿をめくってみたら、何とそこに記述があった。ただし二つ岩集落ではなかった。その隣の「明治」という集落に養蚕を営んでいる新潟出身の農家がいた、網走町(当時)も昭和に入ったころ養蚕を推奨したと書いてあった。
 びっくりして早速この明治集落に在住している知り合いの方に聞いてみた。その方は昭和元年生まれなのでもしかすると覚えているかもしれないと考えたからである。すると、子供の時の記憶にある、集落の道ばたに桑の木が生えていて、養蚕をしていた方が葉を摘んでいたという。養蚕をやっていたと原稿に書いてあった3戸の農家の消息を聞いてみたら、その方々の子孫は既に離農していて、消息は不明とのことだった。

 やっぱり網走に養蚕があった。あれは桑の木だったのだ。私の目にまちがいはなかった。FMさんにわざわざ図書館まで行ってもらって申し訳なかったのだが、ともかく疑問は解けた。
 網走にあったということは周辺にもあったはずである。と思っていたら、FMさんからまた思い出したことがあるとのメールがきた。訓子府の小学校で学んでいたころ(1950年代)、理科の授業で桑の葉を毎日採ってきて繭を育てたことを思い出したというのである。
 網走在住の農経研究者のWMさんからもメールがあった。近くに住むお年寄りから聞いたら営林署勤務時代に津別や小清水などで桑の木をたくさん見たと言っていたという。ただし蚕を飼育しているのは見たことがなかったというから戦後はもうなかったのであろう。

 この北の国の網走で桑を植えたことがあったのだ。もちろん米もつくった(今はないが)。
 米と繭、日本の資本主義発展の基礎となったこの二つの作物の増産は国策だった。これがそうさせたのだろう。
 でも、そればかりではなかったろう。自分の故郷の作物を毎日見ていたい、故郷と同じ農業をやっているという一体感をもちたい、こんな入植者の気持ちからも導入したのではなかったろうか。
 しかし、それだけでもなかった。そのヒントはさらにその後のFMさんからのメールが与えてくれた。FMさんが60歳代の元農業改良普及員や農協職員の方たちとの集まりの時に養蚕のことを聞いてみたら、そういえば子どものころ実家で養蚕をやっていた、ただし販売用ではなく真綿にして布団の綿に混ぜて使っていたと言う人がいたというのである。
 そのメールを見て二つのことを思い出した。一つは、養蚕をやっている母の実家からもらった繭を祖母が大きな釜に入れて煮て真綿をとったり、糸を引いて糸車で糸を紡いだりしていたことである。そして真綿は布団の打ち返しなどのときに使い、生糸は何かに使っていた(それがなんだか覚えていない、普通は買ってきた木綿糸を使っていたから、何か特別なものに使ったのだろう)。真綿や生糸は生活の必需品だったが、自給自足が当然の時代だったし、ましてや街から離れているところでは何時間もかけて歩いて街に行って布団屋に頼んで打ち返したり、買ったりするよりはできるなら自家生産した方がよかったのである。もう一つ、北海道の農家が稲をつくりたがったのは、米を自給したいということもあるが、稲わらが欲しかったことも大きな理由だったと聞いたことがあることである。前にも述べたように稲わらは生産と生活の必需品だったのだ(註)。
 そうなのである。当時の生産力段階では稲と繭の生産は販売以前の問題だった。経営と暮らし両側面からの必需品の自給のためにも生産しなければならなかったのであり、それも入植者の養蚕導入のもう一つのきっかけとなったのではなかろうか。
 とは考えたものの、やはりそれは違うかもしれないと思い直した。真綿や生糸は自給用と言ってもほんのわずかしかいらないものだったからである。この程度の自給のために桑を植え、養蚕にかなり必要とされる生産資材を用意するのはかえって損である。ここに毎日の必需品である米麦や野菜と根本的に違うところがある。そもそも養蚕は農家にとっては換金作物なのである。実際に明治集落の農家の方はそれが目標で導入したものだったし、販売もしていた。しかし、せっかく入れても気象条件や価格条件からして無理だとやめざるを得なかった農家も多々あったことであろう。こうした農家が、せっかく植えたのだからと桑は若干残し、残った飼育資材を利用して自給程度に生産していたのではなかろうか。だから子ども時代の自給用養蚕の記憶が残ったのであろう。

 しかし、苦労して導入したであろう網走の養蚕は戦中から戦後にかけて姿を消した。米は1970年代に網走からなくなった。
 これは網走の厳しい気象条件からしてやむを得なかったことかもしれない。もしかするとこのあたりが北限だったのかもしれない。桑を植えて春と夏の二蚕しかできない養蚕をやるよりは適地適産でハッカや麻などの工芸作物を作った方が、あるいは飼料作物を栽培して牛乳を生産した方が、米をつくるよりは国内で不足している麦やバレイショ、ビートを栽培した方がよかったのだろう。そしてそれで得た金で比較的条件の良い東北などで生産された真綿や稲わら(あるいはそれにかわるもの)、米などを買えばいい。
 しかし、東北の繭の大産地でも90年代になって養蚕はほぼ壊滅状態になった。そういう点では網走並みになってきた。いつかは東北の米も網走並みに消えてしまうのだろうか。それはまた後に述べることにする。

(註)11年5月25日掲載・本稿第二部「☆消えたわらの文化」参照

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コメント

[C20] とても参考になります。

長野で子どもの頃、近所のおばあさんがなべで繭を煮て糸をとっていた光景、物置の座繰り機、壊れた機織機など、どんな歴史の中にあったのか急に気になり、調べていたところ、こちらに行き当たりました。
養蚕だけでなく、農業の変遷がたいへんわかりやすく、理解できました。
とても整理されていますが、出版などのご予定があるのでしょうか。
また他の記事も拝読しに訪問させてください。

[C21] Re: とても参考になります。

☆コメントありがとうございます。
☆養蚕に関しては下記の記事もありますので、参考にしてください。
 *12年1月16日掲載・本稿第三部「農業をとりまく状況の激変―九〇年前後―(9)☆つくるもののない苦しみ」
 *12年2月29日掲載・本稿第三部「世紀末の東北農業をめぐる動き(10) ☆小かごに摘んだはまぼろしか―耕作放棄の本格化―」
☆出版の件については下記の記事に書いてありますので、よろしければごらんになってください。
 *11年4月7日掲載・本稿第一部「第一部を終えるにさいして」
  • 2012-07-05 11:42
  • 酒井惇一
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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