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戦後の桑園整理と果樹園の造成



               山間・畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(5)

                  ☆戦後の桑園整理と果樹園の造成

 米と繭、この二つは戦前の日本資本主義発展を支えた柱であった。まず米は小作料となり、地主はそれを販売して得たお金を銀行や商工業に投資して、あるいは資本主義創出を急務とする政府に税として納めて、資本主義の発展を支えた。また、こうした地主制支配のもとでの農民の貧困を利用して繭を買いたたき、身売り同然で農村部からつれてこられた女工を低賃金長時間労働で働かせて発展した製糸業は、生糸を低価格で大量に輸出して外貨を稼いだ。工業はそれで外国から機械などを買い、また政府は軍艦等の武器を買って植民地を侵略し、資本主義を発展させてきた。したがって政府は、米と並んで養蚕を重視した。
 農家も積極的に養蚕に取り組んだ。少ない土地から、とくに米のような相対的に有利な作物のない畑地から多くの所得を得るためには、同じ土地面積で桑の栽培と蚕の飼育との二つで労働力を燃焼できる労働集約的な養蚕に力をいれるより他なかったからである。
 東北もそうだった。水田にできない、たとえば水の少ない土地に桑を植え、繭を生産した。とくに、福島から宮城にかけての阿武隈山地の畑に、また扇状地で形成されている山形内陸では水の伏流する扇央部の畑に、桑が植えられ、大養蚕地帯が形成された。もちろんそこだけではない。東北のほとんどの地域で養蚕がいとなまれた。
 しかし、1929年の世界恐慌は繭の輸出に大きな打撃を与えた。繭をリヤカー1台積んで行って敷島(たばこ)1箱の値段にしかならず、バカらしくなって川に捨ててきたなどという話がひろまるほどに価格は暴落した。それが昭和初期の山形県村山地方の激しい小作争議の一因となったのだが、こうした事態に対応して政府は古い桑園の整理などで供給過剰を抑えようとした。
 戦争はさらに大きな打撃を養蚕に与えた。落下傘の原料として繭が必要だ、増産しろと一方ではいいながら、他方では生糸輸出の激減と深刻化する食糧不足に対応するために桑園の普通畑への転換を推奨したのである。小学生だった家内が敗戦の日に勤労動員で桑の根を掘りに行かされていたという話を前にしたが(註1)、これはそうした政府の方針によるものだった。
 こうして養蚕は減ったが、戦後になっても主要な作物であることに変わりなく、1950年代はまだ世界一の生糸輸出国だった。
 しかし、かつて女性のあこがれの的だった「絹の靴下」が「ナイロンの靴下」にとってかわられたことが典型的に示すように安価な化学繊維が開発・普及され、また途上国での繭生産が発展するなどから、輸出が徐々に減少してきた。。それで繭価は低下し、養蚕は引き合わないとやめる農家があらわれるようになった。そして政府は1958年に桑園2割減反の政策を打ち出した。

 こうした状況にいち早く反応したのが山形の内陸だった。桑園をリンゴやモモ、ブドウ、サクランボ、洋ナシ等の果樹園に切り替えたのである。そればかりでなく、山麓の林野の南斜面などを開いてブドウなどを新植した。また、福島中通りのなかでも桑を果樹に切り替える地域が出てきた。
 こうした果樹園の造成は養蚕地帯の山形内陸や福島中通りだけでなく、東北の各地で進んだ。戦後の混乱からの回復、経済成長の始まりのなかで、果実の需要が増えてきたからである。青森県の岩木山麓のかつての入会山のリンゴ園造成などはその典型例であり、秋田県南、青森の三戸地域、岩手の内陸中央部等でもリンゴを中心とした果樹作の導入が進んだ。さらに70年代になると、減反政策を利用して水田を果樹園に転換する農家もあらわれた。こうしたなかで東北は落葉果樹の大産地へと成長していった。そして山間畑作地帯でも果樹の産地として発展していく地域が現れた。
 もちろんこれも容易ではなかった。たとえばリンゴは先にも述べたようにバナナの輸入による山川相場で大きな打撃を受けた(註2)。
 しかし農家は、青森を始め各県の試験研究機関を中心として改良した品種、たとえば消費者の嗜好に合わせて改良した「ふじ」などの甘みの強い品種を積極的に導入し、それを乗り切るべく努力した。
 また、「矮化(わいか)栽培」を導入して労働力の軽減と管理の強化を図ろうともした。つまりリンゴ属のなかのあまり背が高くならないまま成熟する性質をもつ種(矮性種)を台木にしてそれに収穫を目的とする品種のリンゴ(たとえば「ふじ」)を接ぎ木する。こうしてリンゴの木の背が大きく伸びないようにして収穫や管理をしやすくし、また太陽光線がより多く取り入れられるようにして果実の糖度を高める。こういう栽培法を導入したのである。これにもいろいろな方法があるが、そのうちの一つ、2㍍くらいの背のリンゴの木が支柱に支えられてずらっと並木のように密植されて実をつけているのを初めて見たとき、これではトマトと同じではないかと何かリンゴがかわいそうに感じたものだった。このような矮化栽培はとくに新興産地に導入された。新興産地の多い岩手県における普及率は全園地の約七割といわれ、他県を大きく引き離していることはそれを示している。
 もう一つ、リンゴの「無袋(むたい)栽培」の開発と導入が進んだことも特筆できよう。この話を聞いたときには驚いた。リンゴの実に紙袋を掛ける、この作業はリンゴが日本で栽培された明治以降ずっと続けられてきた当たり前の、不可欠の作業だと誰しも思っていたものだからである。もちろん、一個一個袋をかけるのは手間がかかり、大変な作業である。しかし、病害虫やサビの障害から保護し、初期の遮光で着色をよくするなどのためにやらないわけにはいかないものだった。この考え方を変えたのが、山形県村山地方の山村、朝日町の農家だった。袋が外れて育ったリンゴを見て、袋無しでもいけそうではないかと考えた農家が集まって研究会をつくり、無袋栽培の技術を確立し、糖度が高く食味も優れていると市場で高く評価された『無袋ふじ』を作りだしたのである。そして朝日町は高級銘柄産地としてその名を馳せるのだが、同時に省力化と品質の両面からこの無袋栽培は各地に普及した。もちろん、有袋栽培にはそれなりのよさもあり、また有袋でないとだめな品種もあり、すべて無袋に変わった訳ではない。しかし、常識をくつがえして新たな技術を山村から発信するなど、70年代の山村にはまだまだ勢いがあったのである。

 ゴールデンウィークのとき、仙台から国道48号線で奥羽山脈を貫く関山トンネルを抜けて山形側に出ると、まだ緑になっていない山々の灰色の木々の間に点々と白いコブシの花と淡い桃色のヤマザクラの花が咲いているのが見え、もう山も春だなと感じさせる。その山々から離れて平場に入ったとたん、枝という枝にびっしりと白い花をつけたサクランボの畑が目に飛び込んでくる。さらに、ぱっと目をひく桃色の花を咲かせている桃畑、淡緑色の幼い葉の間に白と桃の入り混じった色の花をひっそりとのぞかせているリンゴの畑等々が延々と続く。こうした色とりどりの果樹園を見ると、車のスピードを緩めてもらってゆっくり春爛漫の気分を味わいたくなる。
 6月、山形空港に着陸する飛行機から下を見ると、一面真っ白である。この季節、雪であるわけはないとよく見ると、山麓はブドウの促成栽培のハウス、平坦部はサクランボの雨除けテントだった。このテントもよく考えたものである。つまり、雨が降るとサクランボの実が水分を含んで膨張するが、それに対応して皮はすぐに大きくならない。しかも皮は固い。それで皮が破けてしまう。これでは売り物にならないし、その傷口から腐ってもくる。収穫時期が梅雨だからこれは大きな問題である。それを防ぐために、直接雨が当たらないようにと木の上にテントを張るのである。それを知らない飛行機の乗客のなかにはあれは何だと大騒ぎしているものもいる。
 6月末と10月の土日、仙台から山形に行く道路は午前中大渋滞し、午後になるとその逆になって山形から仙台に向かう道路が大渋滞する。観光果樹園にサクランボ狩りやリンゴ狩りに行く車のためである。
 宮城県内にはこうした果樹作地帯がほとんど見られない。水田地帯であればまだわかるが、養蚕等をいとなんできた畑作地帯でも果樹作の導入がみられない。たとえば県南には阿武隈丘陵地帯の北端に位置する養蚕地帯があるが、50年代後半に初めて訪れたときにはまだ一面桑園が広がっており、果樹への転換を見ている私には非常に奇異に感じたものだった。最初は宮城県は時代の波に遅れていると思った。もしかしたら東北人の特徴と言われる我慢強さが宮城県民にはないからではないかとも思った。果実が実るまでの何年間か無収入でいなければならないのを我慢できない県民性のせいかと思ったのである。しかしよく見てみたら宮城県にも果樹があった。県南の蔵王山麓にわずかだがある。ただし和ナシが中心である。和ナシであれば県央に利府、県北には北浦という小さい産地がある。ということは我慢強さがない訳ではないことを示している。「桃栗三年 柿八年 梨の馬鹿やろ十三年」と小さい頃祖父から聞かされたものだったが、実のなるまでもっとも長くかかる梨をやっているからだ。とすると何か導入できない理由があることになる。
 それは気象条件だった。6~7月、宮城県はいわゆるやませにおそわれ、寒い日が続く。果実の生長に必要な日照時間は少なく、病害虫も発生しやすい。もちろん病害虫には新しい農薬、防除機、適期防除、新品種等の開発でかなり対応できるようになっている。そしてこうした技術革新が東北における果樹作の拡大を可能にしたものなのだが、それでも太平洋岸の気象は収量や品質を低める。これでは産地間競争に太刀打ちできない。
 こうしたことから、阿武隈山地・北上山地の太平洋岸と宮城県では果樹作がそれほど発展しなかったのである。そして養蚕を継続した。

(註)
1.11年2月11日掲載・本稿第一部「☆暑く静かだった敗戦の日」(2段落)参照
2.11年5月20日掲載・本稿第二部「☆選択的赤字拡大」(2段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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