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養蚕の技術革新と大規模桑園の造成



               山間・畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(6)

                 ☆養蚕の技術革新と大規模桑園の造成

 1956(昭和31)年が私の成人になった年だったが、成人式には参加しなかった。官製の式などに参加してたまるものかみたいな反抗精神からだったような気がする。だからみんながどんな服装をして式に出席したのかはわからない。でも少なくともそのころの女性はハデハデな振り袖姿ではなかったような気がする。それが成人式=着物コンクールなどと言われるようになったのは1960年ころからではなかったろうか。このことは一般庶民が娘のために絹の着物を買えるような時代になってきたことを示すものであろう。そしてそのころから本格化するいわゆる高度経済成長は絹織物の国内需要をさらに増やした。
 当然これは繭糸価格の相対的な安定をもたらした。しかし、条件の悪い桑園などでいとなまれる養蚕は人手不足と諸物価上昇に耐えられず、果樹やタバコなど他の作物に切り替えられるしかなかった。これでは内需をまかなうことができない。そこで政府は政策を転換し、繭糸価格の安定、養蚕の生産性向上と規模拡大に力を入れるようになった。ただしそれは輸出振興のためではなく、国内で自給するためであり、ここにかつてとの大きな違いがあった。
 その一つとしてやったのが集団桑園の造成だった。東北では福島・岩手などの山間地で農業構造改善事業などを利用して林野を大規模な桑園に造成している。そしてこれを共同でもしくは分割して大規模に経営することとした。
 といっても、養蚕は米麦などと比べて労働がかなりかかるものだから、従来の技術では大規模に経営することはできない。しかし、技術は大きく進展していた。

 戦前、母の実家に春から夏にかけて行くと、いつも私たちが行けば寝るはずの大きな部屋(ここには畳がなくむしろが敷かれている)のむしろと奥座敷の畳が片付けられていて板の間となっている。そしてそこは蚕室となっている(註)。祖母は蚕の管理をしながらいつも家にいるが、祖父と叔母たちは桑畑に行っていて、昼飯の時以外はいつも家にいない。畑に行ってみると、叔母たちと臨時雇いの人たちが樹高2㍍(だったろうと思う)くらいの桑の木の幹に足をかけたり、脚立に登ったりして、枝に密生している桑の葉を一枚一枚ていねいに摘み、腰につけたはけごに入れる。それがいっぱいになると大きな叺(かます)に入れ、また摘み始める。これを何度となく繰り返す。昼飯時になると葉っぱがぎっしり満杯に詰められたその叺を背負ってあるいはリヤカーなどに載せて家にもって帰る(大きな竹籠に入れ、背負って運ぶ地域もあるようだが)。そしてそれを天井近くまで積み重ねた10段(くらいあったと思う)の棚で飼われている蚕の上にびっしりと載せてやる。蚕はその新鮮な葉のなかから顔を出し、かしゃかしゃと食い始める。あっという間に葉は骨(葉脈)だけになってしまう。このすさまじい食欲に応えなければならないのだから、午後はまた畑に戻って桑を摘み、夕方いっぱいになった叺を家に持って帰る。なお、臨時雇いの人たちは出来高払いで、叺に入れられた桑の葉の重さで日当をもらっていたようである。
 こうして採ってきたたくさんの新鮮な葉を食べ、4回の脱皮=休眠(この期間だけは食欲がない)を繰り返して大きくなり、やがて透き通るような白い色になってくる。そうなると「上簇(じょうぞく)」の作業となる。成熟した蚕をわらでつくられた「簇(まぶし)」(蚕が繭をつくる場所にする道具)に移すのである。このまぶしの形状を口で説明するのはきわめて難しい。わらを山折り谷折りして編んだ高さ約10㌢・長さ約1㍍の三角形の山をたくさん波のようにつないで幅60㌢くらいに編み込んだもの(高さ・縦・横きわめて不正確であり、しかもこんな説明では想像できないかもしれないが)で、これをつくるのは農家の冬仕事である。ここに移された蚕は適宜自分で場所を探し、わらに糸を吐いて自分を固定し、繭をつくっていく。これを見ているのは面白い。糸をさまざまな方角に吐いて自分を囲い込み、そのうち繭の形ができあがってくる。最初は糸を吐いている蚕が見えるくらいに透き通った、さわるとすぐ凹むやわらかい繭である。やがてそれは固い繭になり、蚕はまったく動かなくなる。さなぎとなって休眠に入ったのである。蜘蛛(くも)が巣を張っていくのを見るのも面白いが、繭つくりを見るのも本当におもしろい。こうなってくるともう桑摘みもないので楽になる。一週間くらいして繭をまぶしから外す繭かきとなって仕事は一段落である。後は繭の選別をして出荷するだけである。
 この飼育作業を春から秋にかけて3~4回繰り返す。

 これが戦前の一般的な養蚕だったようだが、小さい頃不思議だったのは山形の尾花沢近くを列車で通ったとき、樹高3~4㍍の桑畑があることだった。また宮城の県南県北の河川敷にも同じように背の高い桑の畑があった。これは「高桑仕立て」と言い、豪雪や河川の氾濫で被害を受けないようにするための桑の仕立て方だということを後で知ったが、時代はそれと逆にどんどん桑の木の背を低くしていった。
 そして、樹高を地面から30㌢以下で抑え、そこからたくさんの枝を出させるという「根刈仕立」が戦後は普通になってきた。かつてのように高いところに登って桑を摘むということがなくなったので作業はかなり楽になった。
 もっと楽にしたのは、枝ごと刈り取ってきてそのまま蚕に与えるという「年間条桑育(じょうそういく)」技術の導入だった。もちろんこの条桑育がこれまでなかったわけではない。枝や葉の若いやわらかい時期に枝を刈ってきてまだ小さい蚕にそのまま与える場合もあった。それを飼育の全期間にわたって行うようにしたのである。一枚一枚桑の葉を摘んできて与えることからくらべたら労働力が大幅に軽減されることはいうまでもない。また給桑回数を減らせるということからも省力化できる。60年代に導入されたこの技術はまさに画期的なものだった。
 そればかりではなかった。この条桑育と根刈り仕立ては桑の収穫の機械化を可能にする技術につながり、この点からしても画期的な技術だった。それは、歩行型さらには乗用型の「桑刈り取り機」、かつては考えもしなかった機械化を60年代後半に実現させたのである。
 ただ問題もあった。条桑育だと飼育に広い空間が必要となることである。葉を与えるのであれば、蚕を飼育する棚はそれほど大きくなくていいし、棚と棚の間は人の手が通るくらいの隙間でもいいが、伸びた枝をやるとなるとそういうわけにはいかない。飼育空間を広くしなければならない。しかし、広くしてこれまでと同じく家の中で飼育するとなると、飼育する蚕の量を減らさなければならなくなる。これでは収入が減る。
 そこで開発されたのが「屋外飼育」の技術だった。簡単なプレハブの建物やビニールハウスで飼育するのである。こうすると居宅と違い飼育規模に応じて広く場所をとることができるので条桑育は容易にできる。さらに給桑・飼育の機械化・施設化が容易となる。実際にこうした飼育場所に新たに開発された台車付飼育装置を導入するなどして、省力化を大きく進めた。
 といっても、稚蚕(卵からかえったばかりの幼い蚕)は屋外の簡単な施設で飼育するわけにはいかない。これは養蚕農家が共同で設立した稚蚕共同飼育所で、つまり温度管理などがきちんとできるかなりがっちりした建物のなかでその地域の最高水準の技術で大事に育てられる。そして一定の大きさになった蚕が農家の希望の量だけ配分され、それを屋外施設で育てるのである。そもそも稚蚕共同飼育所は健康な稚蚕を育てるということから始まったのであるが、その結果としてかつてのように家の中で夜も何回か起きて温度を調節するなど神経を使いながら大事に育てる必要がなくなり、さらに比較的丈夫な大人になった蚕(壮蚕)を屋外で飼育することが可能となったのである。
 次に上簇だが、この技術進歩を初めて見たのが母方の叔母の家でだった。山形市山寺の奥で酪農と養蚕を主軸に農業をいとなんでいたが、70年ころ(だったと思う)訪ねたら義理の叔父がいいものを見せるから来いと小屋に連れて行ってくれた。何かと思っていったら、ボール紙でつくられた四角の菓子箱を大きくしたようなものがぶらさげられている。よく見ると、ボール紙は井桁状(格子状と言った方がいいかもしれない)の編み目に組まれ、その両底のない井桁(格子)の各区画(繭が入るくらいの大きさ)にそれぞれ一個の繭がうまくおさまっている。要するにこれはまぶし(簇)なのである。わらまぶしから見ると場所はとらないし、わらが繭にくっついたりもしないし、外すのも楽である。それはいいのだが、問題は繭がまぶしの上の方の井桁に集中してしまうことだ。蚕には繭をつくるときできるだけ上でつくろうと上に登る性質があるからである。そこで考えられたのが、この「回転まぶし」だ。まぶしをぶらさげて回転できるようにしておくと、蚕がまぶしの上の方に登るとその重みで区画がくるっとひっくり返る。すると下になってしまった蚕のうちまぶしがまだ決まっていないものはあわててまた上に登る。こうしたことを繰り返しているうちにまぶし全体にまんべんなく繭がゆきわたるようになる。こう言うのである。何とまあよく考えたものだと感心すると同時に、思わず笑ってしまった。

 60年代から70年代にかけて進んだこうした技術革新、これは従来の経営規模の限界を克服した。
 76年だったと思うが、阿武隈丘陵の北部に位置する福島県の梁川町(現・伊達市)に行ったとき、おじゃました農家が桑園を1.7㌶も経営していることに驚いたものだった。5年前に林野1.5㌶を開墾してそれだけの面積にしたという。
 さらに驚いたのは年7蚕もしていることだった。かつては春蚕、夏蚕、秋蚕の3回の飼育が限界だったが、春蚕2回、夏・秋・晩秋・晩晩秋・初冬蚕の計7回飼育するというのである。これは稚蚕共同飼育施設の設置とこれまで述べてきた省力化の進展、さらに飼育技術の進展が可能にしたものであった。
 これくらいの規模をもち、また飼育回数が多いとなると、繭の価格がかつてほどでなくともやっていける。梁川町の他の農家も養蚕にさらに力を入れようとしていた。そして稲作の機械化で浮いた労力を利用した年6蚕が普通になってきていた。
 これは梁川だけではなかった。阿武隈山地、北上山地をはじめとする山間部では広大な未利用林野を利用して桑園の規模拡大を進め、また旧産地でも桑園の再編整備で新たな展開を図ろうとしていた。
 こうした養蚕の動き、すなわち省力化だけでなく集約化にも力を入れ、規模拡大と同時に集約的な飼育で労働力の燃焼を図り、労働生産性ばかりでなく土地生産性の併進を図ろうとする動き、これは山間部のまた日本の農業の新たな方向を示すものではなかろうか。また、輸出産業としての養蚕の地位をまもることは低賃金を基礎にした途上国の繭に負けるので難しいかもしれないが、内需産業としてまた山間部の産業として、養蚕が新たに展開していく展望を開くものではないだろうか。こんな期待をいだかせた動きだった。

(註)
 このことについては下記記事でちょっと触れている。
 11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(3段落目)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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