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きのこ栽培の普及



                山間・畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(7)

                      ☆きのこ栽培の普及

 スーパーに行くと、シイタケ、ナメコ、マイタケ、エノキダケ等々のきのこが冬でも夏でもずらっと並んでいる。かつては考えられなかったことだ。秋の一時期食べられるだけだったし、さもなければ塩漬けか乾物にして保存して食べるしかできなかった。自然に生えたものを採取していたのだからこれは当然のことだった。ところがそれが人工的に栽培されるようになり、いつでも食べられるようになったのである。
 この栽培の仕方を初めて現場で聞き、またその生産物のナメコをごちそうになったのは、月山と朝日連峰の山麓にある山形県西川町(註)での山村振興の調査であった。
 1966(昭和41)年のことだが、地元産のさまざまな山菜がいろいろに調理されて旅館の食卓に豊富に出てきた。驚いた。3泊したのに一度たりとも同じおかずはない。原料は同じでも調理を変えている。さらに帰りに役場からナメコとタケノコ(根曲がり竹)の缶詰をおみやげにもらった。山の幸の豊富なことを利用して山菜の缶詰をつくって村の振興を図ろうとしていたのである。缶詰を開けて見てこれまた驚いた。ナメコは超小粒の最高級品である。こんな粒ぞろいのものを見つけて採取するのはきわめて大変である。こんな高価なものをと恐縮すると、これは朝日山系の麓の大井沢集落(もうここから先は集落が、道路がなくなるという山奥にある)でなされている「伐根(ばっこん)栽培」で生産されたものだという。当時はまだナメコ栽培は珍しかったのだが、それでも原木(ほだ木)栽培のことは一応知っていた。しかし伐根栽培というのは初耳である。その中味を聞いて心がほのぼのとなった。
 町には多くの国有林があり、農家は営林署に雇われて冬期間その伐採をする。その伐採跡地を営林署から農家が共同で借り入れ、春になるとみんなでそこに行き、ブナやトチ、イタヤなどの切り株に専用のハンマーで穴を空け、そのなかにコマ(種菌)を指し込む。切り株といっても深い雪の積もっている時期に伐り出したものだからその高さは1.5㍍もあり、しかも原生林であるためにその直径は70㌢、下径1.5㍍もあるので、一株に平均100個も植菌できるという。ほだ木栽培よりも収穫に入る年が1年遅れるが、最盛年、収穫可能年は長く、収穫量は1.5倍にもなる。しかも労力は初年度の植え付けと毎年秋の収穫時に必要なだけで水やりなどの管理労働はほとんどいらない。水は根から吸収され、切り株のまわりに草が生えるので若干日陰になり、通風はよく、自然のうちに育つからである。しかも天然自然のものと違ってきれいにそろって育ち、きわめて質のいいナメコが採れる。それを地元につくった加工場で缶詰にして販売するのだが、東京の高級料亭などでひっぱりだこだという。
 伐採した木の根で栽培するから伐根栽培というのだろうが、ほだ木は土に根ざしているから栄養分もあり、元気なので何年間も生え、まさに山林の自然の恵みを上手に利用しながら植菌という人手を加えて生産し、缶詰に加工して高所得をあげ、山村の振興を図っているのである。
 初夏には、明るい日射しと新緑につつまれて植菌する人々のハンマーの音が、山彦をともないながら静かな山々にコーンコーンと響いているのだろう。それを聞きながらみんなでのんびりと植菌する。そう想像すると何か心温まるほんわかとした気持ちになったものだった。
 農家の方はもっと栽培面積を増やしたい、適地もあるという。しかし営林署はなかなか貸してくれない。かつては原木も払いさげてくれず、これが伐根栽培の一つの理由となったらしいが、ともかく営林署はいばっていた。彼らの管轄下にある広大な国有林が山村での雇用機会の提供、木材等林産物の払い下げ、林地の貸し付け等々で地元経済に絶大な力をもっていたからである。私どもが行った頃はそんなにいばらなくなっており、原木も払い下げるようになったとのことだったが、その後伐根栽培はどうなったのか、今も続いているかどうかはわからない。国有林の伐採が減少し、人手もいなくなったいま、おそらくなくなったのだろう。
 なお、西川町の山菜料理はいまかなり有名になっているが、お薦めは「山菜そば」である。これは1990年に寒河江ダム(月山湖)ができたのを記念して町内の料理屋が集まって新しくつくったものとのことだが、そんじょそこらにある山菜そばとはまるっきり違う。どんなものかの説明はやめる。ともかく試食してもらいたい。
 それはそれとして、このような伐根栽培はちょっと特別で、一般には原木栽培だった。

 1970年ころから、山村のあちこちでシイタケのほだ木が何十本、何百本と林野のなかに伏せ込まれているのが見られるようになった。広大な林野に豊富に存在する原木、つまりかつて炭焼きなどに利用していたが今はほとんど未利用のままに放置されているナラやクヌギなどを利用して栽培することができ、しかも高収入をあげることができるのだから、まさに山村に適した生産であり、農家が積極的に取り組もうとしたのである。
 もちろん労働は厳しい。原木伐採―玉切り(原木を適当な大きさに切ること)―接種―伏せ込み―下刈り・水分管理―ほだ起こしなどの作業を二夏かけてやって初めて収穫できる。 チェーンソーやトラックがあるので仕事がしやすくなっているとは言っても、たとえば何百本もの原木を水に浸したり、きれいに並べたりするのは楽ではない。
 そんなことから、苦労してシイタケを栽培するよりも原木を切って他県の原木不足のシイタケ産地にそのまま売った方がいいと考える農家も出てくる。
 阿武隈山地のほぼ中央部にある福島県小野町に行ったとき、ある農家が山の立木を買い、冬に切ってシイタケのほだ木をつくり、それを3万本くらい千葉、神奈川のシイタケ農家にトラックを借りて移出しているという話を聞いたことがある。この農家はそれで冬の出稼ぎをやめたということだったが、それはそれでいいとしてもシイタケにして付加価値をつけて販売すればさらにいいだろうに、何とももったいない話である。それで普及員の方に聞いたら、小野町のある田村郡全体で毎年50~60万本くらい、遠くは宮崎県から関東までの各県に移出されていると、嘆いていた。これでは寒冷気象という不利な条件をもつ東北のシイタケ農家を苦しめることになる。せっかく原料生産から加工まで一貫してやれるチャンスに恵まれたのに、東北は原材料供給地で加工はよその地帯という遠隔地の特徴、昔からの伝統はそのまま引き継がれることになるのだろうか。こんな不安を抱かせたものだったが、もちろんそのような農家だけではなかった。炭焼きがなくなって出稼ぎしか地域で生きていく道がなくなっていた状況から脱却すべく、農家は積極的にシイタケを導入し、その栽培技術の向上と規模拡大に努めた。

 ちょっとだけ脱線させてもらうが、小野町は小野小町の出生の地だそうである。そして小町温泉がある。しかし、秋田県、とくに湯沢市が自分のところがそうだと昔から主張している。どちらが正しいかわからない。いずれにせよ東北だからいいではないかと私はどちらにも味方しないことにしている。なお、山形県の小野川温泉は小野小町の開湯した温泉、美人の湯と言われており、実際にお湯に美肌成分が多く含まれているとのことである。こうした雑学・雑知識を得られるのも農村調査(心身ともに厳しい仕事なのだが)のさいの楽しみの一つである。本題に戻ろう。

 マッシュルーム、フランス料理などに使われる高級キノコ、そういうイメージがあった。食べることなどめったになかった上に、薄切りにされて料理に入っているので、マッシュルームがそもそもどんな形をしているのかもよくわからなかった。
 それを初めて見たのは73年、山形県最上地方の鮭川町のある集落でだった。マッシュルームは日本でも栽培されていたのである。鮭川町では70年に初めて10戸の農家が導入したという。想像していたものとはまるっきり違っていた。他のキノコのように原木などは使わないのである。ビニールハウスのなかに稲わらを積んで発酵熟成させて堆肥にし、その上に土を薄く敷いてそこに植菌して育てる。要するに堆肥でつくるのである。そこに生えている白くて丸い小さなマッシュルームを見たとき、同行していた当時試験場職員だったIHさんがつぶやいた、「何だ、これはマンクソダケじゃないか」。道ばたなどに放置されているマンクソ(馬糞や牛糞)の上によく生えているこういう形のキノコをそう呼んでいたというのである。私は見たことがなかったが、形はそっくりだという。しかも堆厩肥を栄養源としているという点でも同じである。同種ではないとしてもきわめて近い種なのかもしれない。マンクソダケに近いものを高級食材としているのかと思うと何となくおかしくなり、ついつい笑ってしまった。
 それにしてもよくこの導入を考えたものだと感心した。稲わらはたくさんあるし、菌床として使い終わった後の稲わらは良質の堆肥となっており、それを田んぼに返して米の収量を高めることができる。堆肥づくりをしながらキノコをとる、キノコを栽培しながら米の堆肥をつくる、ともかく一挙両得である。しかも秋から冬の仕事だから出稼ぎ解消対策となる。そもそもはこれが目的で導入したのだが。
 この導入にさいして高能率生産団地形成事業を利用した。耕地や施設を団地的にまとめれば(要するに大規模生産ができできるように形を整えれば)高い補助金を出すというものである。とすると、この鮭川の場合、設置予定のハウス10棟は一ヶ所にまとめてつくらなければならないことになる。しかし、と農家はいう。稲わらの収集や堆肥づくり、その処理等々は10戸共同でやった方がいいが、管理や収穫は個別の方がよく、したがってそれぞれの家のすぐそばに設置した方がいいと。夜間の作業もあるし、豪雪問題もあるからなおのことである。家から遠く離れたハウス団地に夜中に行く途中吹雪で動けなくなったら、雪のため凍死したらどうするのか。ところがお役人は団地なのだからまとめなければだめだという。かなり交渉した末、ようやくそれぞれの家の裏に設置することが認められたというが、まさにこれは形式的官僚的画一的行政の典型といえよう。実はこの鮭川の調査はこの事業の成果と問題点を明らかにしてくれという東北農政局からの依頼で行われたものだったのだが、働く人間の問題、地域性、技術の発展段階などを考えた補助事業であるべきであるとその報告で指摘しておいた。
 それはそれとして、この高能率生産団地育成事業を始めとする農業構造改善事業、林業構造改善事業、過疎対策事業等の補助融資事業は、いろいろ問題はありながらも、今述べたナメコ、シイタケ、マッシュルームだけでなくヒラタケ、シメジ、エノキダケなどのきのこ類の中山間地域への導入に大きく寄与した。そればかりでなく、山菜類の栽培・加工の導入にも大きな役割を果たした。

(註)
 西川町については戦前の生活とホップ栽培に関連して下記の記事で触れている。
 11年4月4日掲載・本稿第一部「 ☆「はえびょうたがり」の解決」(5段落)
 11年7月11日掲載・本稿第二部「☆葉たばこ・ホップの技術革新と規模拡大」(5~6段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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