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輸送時間の短縮と大都市向け野菜の導入



            山間・畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(9)

             ☆輸送時間の短縮と大都市向け野菜の導入

 東京に行く、1960年ころまでは本当に大変だった。仙台を夜7時半の列車に乗り、腰の痛くなる硬い椅子に座ってうつらうつらしながら、翌朝6時前に上野に着くか、夜11時発翌朝9時着の列車に乗るかするのが普通だった。これがもっとも早かった。日中の列車だとすべての駅に止まるので遅い。しかも宿泊費がもったいない。それで夜行列車となるのである。その列車でも10時間以上かかったわけだが、本数も少ないし、ともかく不便だった。仙台から青森に行く、これまた遠い。普通列車で約12時間かかる。したがって上野―青森間は約1日かかることになる。
 仙台―東京を8時間で行ける急行列車があるにはあったが、そもそも労賃と比べてべらぼうに高かった当時の運賃に加えてきわめて高い急行料金を払って乗るなど、一般庶民にはとってもできなかった。
 1968(昭和43)年、上野―仙台間3時間53分という特急「ひばり」が走るようになった。同時に上野―盛岡間を約5時間で走る特急「やまびこ」もできた。上野―青森間が全線電化複線化し、列車が交直両用電車化(註1)したからである。それ以前とくらべるとあっという間に着く感じだった。
 ただちょっと気になったのは、栃木と福島の県境に近い黒磯駅を過ぎると、突然車内の電気が消えて列車のスピードが少し遅くなり、1~2分するとまた電気がつき、前の速度に戻ることだった。それが毎度必ずなのである。後でわかった。この間に列車の電源を切り替えるのだそうである。つまり、東北本線は関東地方では今まで通りの直流で走っているが、東北地方に入ると最新の交流電化で走らなければならない。そこで、東北と関東の境のどこかでこれを切り替えなければならない。しかし、一々停車してそれをやっていたら時間がかかる。それで走りながら切り替える。そのためにいったん電気を消すのだというのである。なるほどよく考えたものだと感心するのと同時に、せっかちな日本人らしい発想だなとついつい笑ってしまう。
 そのうちひばりは1時間1本となった。特急料金は高かったが、かつての急行料金のような高嶺の花ではなくなっていた。物価上昇に若干遅れながらも労賃が引き上げられつつあったので、何とか庶民も乗れるようになってきたのである。そのかわりといっては何だが、仙台―上野間の普通列車はなくなり、急行列車も少なくなった。でもともかく便利にはなった。朝6時前のひばりに乗っても東京での午前10時からの会議には間に合わないという不便さはあったが。
 ついでに言うと、仙台から日本海側の秋田、新潟、酒田・鶴岡、三陸沿岸の宮古・釜石などに直通で行けるようになった。60年代後半からそれぞれ朝と夕方の2本、準急(後にすべて急行に変わった)のディーゼルカーが走るようになったのである。これで、2~3度の乗り換えのわずらわしさとそのさいの待ち合わせ時間の長さなどによる不便がなくなった。こうして東京との間だけでなく地方間の移動もかなり容易になり、われわれにすれば調査に行くのが本当に楽になり、国鉄に感謝したものだった。
 ただ困ったこともあった。朝7時からの約30分の間に次の急行列車が各方面に向かって一斉に出発することである(私の記憶している範囲内であり、もっとあったかもしれないし、間違いがあるかもしれない)。
  ・「月山」(鶴岡・酒田行き)    :仙山線・奥羽線下り・陸羽西線経由
   「あさひ」(新潟行き)      :  〃 ・  〃 上り・米坂線・羽越線経由
  ・「もがみ」(鶴岡・酒田行き)   :東北線下り・陸羽東線・陸羽西線経由
   「千秋」(秋田行き)       :    〃  ・  〃  ・奥羽線経由
  ・「きたかみ」(秋田行き)     :東北線下り・北上線・奥羽線下り経由
  ・「たざわ」(秋田行き)      :東北線下り・田沢湖線・奥羽線下り経由
  ・「むろね」(気仙沼・釜石行き)  :東北線下り・大船渡線経由
  ・「さんりく」(釜石・宮古行き)  :東北線下り・釜石線・山田線経由
  ・「あがの」(新潟行き)      :東北線上り・磐越西線・信越線経由
 これらの列車が、それぞれいろいろと連結されながら(註2)、西・南・北と別れてほぼ同時刻に出発するのだから、混乱してしまうのである。ほとんどが同じ色・形をしたディーゼルカーだったからなおのこと、間違って乗りはしないかが不安だった。実際に出発してから方向違いの列車に乗ったのに気がつき、大騒ぎをしている乗客をよくみたものだった。
 もう一つの問題は、蒸気機関車がなくなったことだ。私が最後に乗ったのは71年の秋、陸羽東線でだった。意図して乗ったわけではなく、またそれが最後になるなどと思わず乗ったのだが。運転士さんの苦労を思えば、また石炭のすすが目に入って困ったり、煙で顔が黒くなったりしたことを考えればこれでいいのだが、あの汽笛が、シュッシュッポッポという音が聞けなくなるのかと思うとやはり淋しかった。
 そうは言ってもともかく便利になった。

 当然貨物列車も電化やディーゼル化で速くなった。東京に手荷物を送ると1週間近くかかっていたが、3日程度で着くようになった。都内や市内の配達がトラック輸送に全面的に切り替わったこともそれに寄与した。駅留めでしか荷物を送れなくて何日かして着いた頃に駅に取りに行ったり、牛馬車や大八車で家に荷物が配達されたりなどということはなくなった。それにともない、町のなかの道路のあちこちに、ほやほや湯気を出している真新しい、あるいは風で土ぼこりといっしょに吹き飛ばされそうになっている乾いた牛馬糞が散らばっていることもなくなった。さきにも述べたように、70年代にはすっかり車社会になっていたのである。
 このモータリゼーションに対応して道路の整備も進んできた。国県道はもちろん市町村道の整備も進み、舗装されていなくて干天が続くと土ぼこりをまきあげ、雨が降ると泥沼になるでこぼこの道路はほとんどなくなった。さらに農道も整備されてきた。東京からの高速道路も75年に仙台、79年には盛岡に達し、トラック便が全国各地を走り回るようになってきた。
 このように70~80年代に輸送体系が整備され、ともかく東京は近くなった。

 こうしたなかで東北からの農産物の大市場への時間的経済的距離はかなり短縮された。当然そうなると作目・部門の立地は変わってくる。
 前に述べたように、いかに地域の自然条件に適する作目・部門があっても市場から遠いとつくれない。軟弱野菜がその典型である。いかにそれが地域の気象や土壌に適していても、その地域が市場から遠ければ運搬に経費がかかり、しかも時間がかかるので腐敗や鮮度・品質の低下が起こるため、つくるわけにはいかないのである。東北がそうだった。東京という大市場から遠いため野菜をつくってそこに売るわけにはいかなかった。
 もちろん、戦前の仙台白菜、戦後の南部カンランなど相対的に貯蔵のきくもの、山形のトマトのように輸送している間に熟するもの(註3)など、列車で東京などの大市場に出荷していた地域もあったが、自給もしくは地場販売用として細々と野菜を生産しているだけの地域がほとんどであり、ましてや交通不便な山間部などはそうだった。60年代に商品作物としての野菜を導入しようといろいろ努力はしたが、たとえば八幡平・岩手山の山麓にある岩手県松尾村(現・八幡平市)における加工トマト、カボチャ・アスパラガスなどのように、缶詰会社等との契約にもとづく加工用としてしか導入できなかった。
 しかし、輸送手段が整備されてくると、市場からの交通地位よりも自然条件がものをいうようになってくる。つまり地域の自然条件に適するにもかかわらず市場への時間的経済的距離の関係から生産できなかったものが生産できるようになってくる。
 一方、高度経済成長下での異常ともいえる急激な東京の肥大化、その結果としての都市近郊農業のあっという間の崩壊は、遠隔地からの野菜等の供給を求めるようになってきた。また食生活の変化はレタスなどの新しい野菜、キャベツ、キウリなどを日常的に求めるようになってきた。こうした都市の消費の変化に対応して、各地の産地から大量に仕入れ、大量に輸送し、大量に販売する体制、いわゆる広域大型流通体系が成立するようになった。さらにコールドチェーンという名で当時もてはやされた低温流通システムも形成されつつあった。
 こうしたなかで野菜産地が東北に移行してきた。たとえば、青森南部や岩手県の山麓部でニンジン、ナガイモ、ニンニク等の産地が形成された。こうした作物はそもそも長期間保存できるので遠隔地で生産できるものなのだが、交通条件の整備と需要増によって冷涼な気象条件と地域の土壌に適するこうした作物が東北北部の畑作地帯で生産され、関東市場に供給できるようになったのである。
 さらに、いわゆる生鮮野菜の大産地も東北に形成されるようになってきた。たとえば需要が増大しているにもかかわらず関東では十分にそれを満たすことのできない夏秋キュウリの生産は郡山の近くの岩瀬キュウリから、夏秋トマトは前に述べた会津山間部の南郷トマト(註4)から始まり、北上して岩手、青森まで到達することになる。
 70年代になると、さらに多くの生鮮野菜が生産されるようになってきた。さきに述べた松尾村では、今述べたニンジン、夏秋キュウリ・トマトばかりでなく、キヌサヤ、グリーンアスパラ、スイートコーンなどが導入されている。
 また、高原地帯などでは、平野部より涼しく昼夜温格差が激しい高冷地の特徴を生かした野菜、いわゆる高冷地野菜が大量に生産されるようになった。たとえば戦後開拓された岩手県の奥中山高原(一戸町)ではレタス、キャベツの大産地を形成している。冷害常習地帯であることを逆手にとって、岩手の奥羽山麓や北上山系の中山間地帯は野菜生産を発展させたのである。

(註)
1.下記記事で述べたように、この交直両用電車の開発がなされたのは仙山線だった。
  11年4月1日掲載・本稿第一部「☆山形発仙台行の野菜」(1段落)
2.たとえば「月山」と「朝日」は連結して仙台駅を出発し山形駅で分離、「もがみ」と「千秋」は同じく連結して仙台駅を出発し新庄駅で分離して、それぞれの目的地に向かった。
3.10年12月16日掲載・本稿第一部「☆遊びから始まる田畑の手伝い」(1段落)、
  11年3月10日掲載・ 同上 「☆商業的農業の発展と農協」(2、4~6段落)、
  11年4月1日掲載・ 同上 「☆山形発仙台行の野菜」(2段落)参照
4.福島県南郷村については、下記の記事で触れている。
  11年1月7日掲載・本稿第一部「☆むらぐるみでの共同」(4段落)、
  11年1月10日掲載・ 同上 「☆むらの掟」(5段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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