Entries

露地野菜・花卉産地の形成



              山間・畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(10)

                  ☆露地野菜・花卉産地の形成

 東北における野菜産地の形成に大きな役割を果たしたのは農協だった。農協を単位とした大量生産、品質・規格の統一、共同出荷、つまり農協の組織力があってはじめて広域大型流通体系に対応し得る産地の形成ができたのである。
 70年代半ばころではなかったろうか、恩師のKT先生が調査から帰ってきた後、こんなことを私に話してくれた。岩手県経済連に行って野菜の産地形成について聞いたら、「産地は必ず移動する、だから岩手も産地になり得る、ともかく先進地の長野に追いつき、追い越せだ」と元気いっぱいだった。同じことを宮城県経済連で聞いた。そしたら「米の減反でみんな野菜を作り始めるだろう、だから野菜をやっても価格暴落でだめになる、やるだけむだだ」とまったくやる気がない。なぜこんな違いがあるのだろうか。こう言って不思議がっていたが、ともかく農協の取り組む姿勢が産地形成に大きく影響した。そして岩手県は高冷地野菜の先進地である長野が脅威を感じるまでに成長した。もちろん、宮城県内の農協がまったく取り組まなかったわけではないが(これについてはまた後に述べる)。

 機械化の進展、これも野菜の産地形成、広域大型流通体系への対応に大きく寄与した。トラクターを中心とする耕起・播種・移植・マルチ・防除・収穫等の機械化、さらに選果・洗浄・包装等の機械化が大量生産、大量販売を可能にしたのである。
 この機械化もかつては考えられなかった。野菜の茎・葉・実等はやわらかく、すぐに折れたり傷ついたりするので、米麦の機械化以上に難しく、作付前の耕起や一部の管理作業以外、手作業でなければできないだろうと私は考えていた。しかしそれは間違いかもしれない、そう思ったのは70年代半ば過ぎ、帯広に行ったときのことだった。たまたま農業祭りが開かれていたのでそれを見に行った。例のごとくさまざまな農業機械が展示されており、カラオケセットつきのトラクターがあったり、1千万円をこえる大型トラクターがあったりしてさすが北海道と感心したり、ともかく非常に面白かったのだが、一番驚いたのはタマネギの移植機だった。その姿形を言葉で説明するのは私の表現能力ではできないので省略するが、今から見るとかなり初歩的で小型のものだったけれども、やわらかい細い苗を傷つけることなく移植ができそうだった。ともかくよく考えるものである。こうしたことを考えつく技術者がいるかぎり、ほとんどの作業の機械化が可能かもしれない。そう思ったのだが、実際にそうなった。かなり後のことになるが、ネギの皮むき機を見たときなど感心してしまった。洗濯機よりちょっと小さい箱の横についている穴にネギを挿し込むと、箱が一瞬真空状態になり、一番上の汚れた皮がむけ、引き抜くときれいになった真っ白なネギが出てくる。こうしたアイディア豊かな機械化が70年代以降さまざまな野菜でまた作業で進んだのである。
 また、選果・出荷の機械化・オートメ化も進んだ。そして農協は大型の選果・出荷施設を建設し、これまでの個別選果を共同選果に切り替えた。これには農家の抵抗があった。選果費用が農協から差し引かれてこれまで個人でやってきた選果の労賃部分が手に入らなくなり、所得が減るからである。労働市場から遠くて農外で働く場の少ない地域、お年寄りや婦女子が多い地域などではとくにその抵抗が強かった。だから東北の北に行けば行くほど個選が多かった。共選よりも個選の方が市場評価が高い場合もあったからなおのことだった。しかしそんなことを言っていられなくなる。労力は徐々に不足するようになるし、選果機の性能もよくなったので労力を選果や出荷にかけるよりも生産にまわした方がいいとわかってくるからである。
 農政はこうした機械・施設の導入を積極的に援助した。指定産地制度(ある品目について政府の定める一定の面積以上を作付けし、そのうちの一定割合を共販で大都市市場に出荷する産地を「指定産地」とし、そこについては価格暴落のさいに価格を保障し、さまざまな補助融資を優先させる制度)をつくり、大都市の需要に応えられる大産地形成と大量輸送体系、広域大型流通体系の整備を図ろうとしたのである。
 もちろん、いくら機械化・施設化が進んでも穀作などと違って野菜は手間がかかる。それでも機械化・施設化は労働生産性を大きく高め、これまではとっても考えられなかった大面積の作付と大量出荷を可能にした。
 もう一つ、それを可能にしたのは化学化であった。化学肥料、農薬、除草剤の投入が野菜生産でもっとも大きな問題となる養分の補給、病害虫防除、除草を可能にし、さらに連作まで可能にし、大規模生産をを容易にしたのである。
 しかしそれはさまざまな問題を引き起こした。たとえば薬害による土壌条件の悪化である。関東の山間部のある有名なキャベツ産地がそれでまた有名になったことがあった。クロールピクリンを撒いて連作を続けるなどして大量生産してきたが、何年かたつうちやはり連作障害が起きて生産量が落ち、最後には土地が劣化して作物をつくれなくなってきたのである。そこでその土地での作付はやめ、新しい土地を探してキャベツを植えた。ところが前の畑で使った機械についていた病原菌でその新しい土地でもすぐに連作障害が起きる。こうしたなかで産地として存続できるかどうか大きな問題となったのである。東北でもそうした連作障害問題があちこちで見られるようになってきた。
 一方で、このような問題の発生を回避しようとする動きも各地で見られるようになった。ニンニクの産地として有名になった青森県田子町などはその典型で、これまで力を入れてきた畜産と野菜生産を結びつけて連作障害を回避し、ともに発展させていこうとしたのである。

 青森県の最南端、岩手・秋田両県に接する山間部に位置する田子(たっこ)町(註)は、北上山地・奥羽山麓の他の地域と同じくかつては雑穀+木炭+馬産で、60年代以降は稲作+出稼ぎで生計をまかなってきた。最盛時には1200戸の農家から900人も出稼ぎに行ったという。
 こうした状況から脱却すべく、他の山間地域と同様に60年代後半から広大な林野を活用して公共放牧場や小規模草地を造成し、乳牛・肉牛の導入とリンゴや葉タバコの導入に力を入れてきた。しかしいくら広大な土地があるといってもすべて耕地にできるわけはない。この限りある耕地で生きていくためには集約的で高い収益があがる畑作物を導入するしかない。そこで農協は、需要が増えつつあり、地域の土壌にも適するニンニクやナガイモの導入に70年から取り組み始めた。それはうまくいったが、問題が起きた。単収がきわめて低いのである。しかしかなり高い単収をあげている農家もいる。調べてみると、それは畜産農家だった。畜産を基礎にしないと、つまり良質の堆厩肥を投入しないと畑作はうまくいかないのである。そこで農協は繁殖牛と乳牛飼育の拡大に努めることとし、畑作と畜産の並行的な発展を図ることにした。その結果、質量ともに全国一のニンニクの産地となった。さらにその後導入した夏秋キュウリ・トマトについては東京の市場で田子産の銘柄を確立し、85年にわれわれが市場調査に行ったときも他の東北の産地よりも高値で取引されていた。
 こうした畜産と畑作の結合による農業内部での就業機会の拡大と農業所得の増加の結果、出稼ぎは急減し、専業農家も増加傾向に転じ、農家人口の減少にも歯止めがかかった。そして田子町は東北の山間地における農業振興の模範事例として有名になった。
 80年代半ばを過ぎたころではなかったろうか、たまたま田子町の放牧場周辺を通りかかったときのことである。山間のあちこちに小規模な草地があったが、そのうちのいくつかが焦げ茶色になっている。よくよく見ると、枯れたギシギシと思われる雑草が一面に生えている。もう利用されていないようだ。あれはどうしたのかと同行してくれた普及員の方に聞いてみたら、何年も長く使っていると草地はああなってもう使えなくなるのだという。たしかにそうかもしれない、しかしそれを回避するために草地更新がある、つまり何年も使っていれば草生が悪くなり、草地雑草も生えてくるので、数年すぎたころに改めて耕起して播種をし直すという「草地更新」が必要となる、それなのになぜしないのか、不思議に思って聞いてみた。すると普及員の方はいう、更新はしていると。しかし、10年以上も草地として利用しているうちに、いくら更新しても除去できない草地雑草が蔓延してくるという。ギシギシやジシバリなどがそうで、一度生えると根絶しにくいので、一面その雑草に覆われ、もはや草地として使えなくなり、利用を放棄せざるを得なくなるのだと。これは一種の連作障害でやむを得ないことかもしれない、しかしせっかく草地造成をしたのに荒廃してしまってはもったいない、何とかならないかと聞いたら、一度普通畑にして野菜などをつくり、また何年間かしたら草地に戻せばいいのだがと彼はいう。なるほど、草地と畑の地目転換、つまり輪換で連作障害を回避すればいいのだ。
 すなわち、草地更新してもどうしようもなくなったら、つまり10年とか15年とか草地として利用したら、普通畑にする。そうすれば草地雑草は簡単に除去できる。しかもこれまで畑地ではなかったので畑地雑草の発生は少ない。畑地としてもきわめていい。しかしそのうち畑地雑草が生えてくる。何年か過ぎてそうなったとき、また草地に戻す。すると畑地雑草は不適条件のもとで生えなくなるし、一方草地雑草は畑地の期間除去されているので、草地にとってはきわめていい。やがてまた草地雑草が生えてきて使いにくくなる。そしたらまた畑地に戻す。このように何年間か草地と畑という別の地目にすることを規則的に繰り返して、雑草や病害虫の相互抑制を始めとする地目転換のメリットを得るのである。そして土地利用を媒介とする畜産と畑作の新たな結合を図り、その並行的な発展を図っていく。
 いまの時代はそれができる。かつての人力や畜力では草地を耕起して畑地にするのは難しい。しかしいまはトラクターをはじめとする機械化の進展で容易になっている。しかも田畑輪換よりも技術的には容易である。もちろん傾斜等の土地条件もあり、すべての草地を畑地に転換するわけにはいかないかもしれないが、西欧の穀草式、隠岐の牧畑式を新たな段階で構築することを考えるべきであろう。
 こんなヒントを普及員の方が与えてくれた。しかし、補助事業で造成した草地を畑にすると目的外使用となって補助金を返さなければならなくなる、それでやれないのだと彼は嘆いていた。
 それにしても、70年代はこうした新たな農法を展望させ、畜産と野菜作の並行的な発展を山間部に展望させた時代でもあったのである。

 しかし、この時期の産地形成にはもう一つ大きな問題があった。野菜等の生産がすべて巨大市場向けとなり、地元の消費者が忘れられ、転送やむだな規格化など、よけいな手間とコストがかかるようになったことである。これについてはまた後に述べるが、やがてその問題に気が付いた生産者、消費者が解決に向けて産直などの取り組みを開始することになる。こうした動きも70年代から始まっており、その点からしてもこの時期は地域農業の将来を展望させた時代だったということができるであろう。

 70年代末、先週のきのこ栽培の記事で取り上げた山形県西川町大井沢地区にしばらくぶりで行ったとき、調査農家の家の前にリンドウの畑があった。それはそれは見事なもので、ただただ見とれるばかりであった。リンドウはその性格からして高冷地のこの地域に適しており、市場の評価もかなり高いと、農家の方はこれからさらに力を入れようとしていた。ただこんなことをぼやいていた。最近新しい品種が岩手県で開発されたらしい、それが欲しいのだが、岩手県が譲ってくれないと。
 そうなのである、岩手県は先進地だった。60年代からリンドウ栽培に力を入れ、新品種の開発も進めていたのである。そして80年代には八幡平の山麓にある安代町(現・八幡平市)は生産額、面積ともに日本一を誇るようになっている。
 野菜ばかりでなく、花き栽培でも東北の山間部は生きていける道があるのだ、大井沢からの帰りの列車のなかで、農家の方からいただいた抱えきれないほどたくさんの見事なリンドウの匂いをかぎながら、何でそんなにリンドウの花を持っているのかと不思議そうに見ているまわりの乗客の視線を感じながらそんなことを考えて、気持ちが明るくなったものだった。
 それから約30年、大井沢のリンドウはいまどうなっているだろうか。

 ところで、今まで述べてきた野菜や花は露地物だったが、いわゆる施設野菜の生産も70年代に発展した。
 施設ということでいうと、いわゆる施設型畜産も大きく伸張した。この施設型農業はどちらかというと平坦部の農村で進展したのだが、少しそれについて触れて見たい。

(註)田子町については下記の記事でも触れている。
   11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(2段落目)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR