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施設園芸の発展

             施設型農業の展開(1)

             ☆施設園芸の発展

 80年代の中頃(だったと思う)秋田県若美町(現・男鹿市)の知り合いのメロン農家を訪ねたとき、庭先にいた奥さんに聞いた。
 「ご主人は?」
 「裏のベトコンハウスのなかにいるよ」
 「『ベトコンハウス』???」
 奥さんが案内してくれた。そこには一人がやっと入れるくらいの、しかも背中をまるめてしか入れないくらいの背の低い狭いトンネルハウスがあり、そのなかでご主人がメロンの管理作業をしていた。それを見たとき、なるほど、いい名前をつけたものだと感心してしまった。
 ベトナム戦争のときアメリカと戦った南ベトナム解放民族戦線の兵士をアメリカはベトナムのコミュニストであるとしてベトコンと略してさげすんで呼び、日本のマスコミもそれに倣っていたので、ベトコンは日常語となっていた(反戦運動が高まるなかでそれは蔑称ではなくなってきた)のだが、彼らはジャングルのなかを身をかがめて動き回ったり、小さい狭いトンネルを掘って匍匐(ほふく)前進したりするなど、いわゆるゲリラ戦で戦っていた。そのベトコンの姿を、狭く低いビニールハウスの中で腰をかがめてあるいは這いつくばるようにして作業する自分たちの姿と重ね合わせ、「ベトコンハウス」と呼んだのであろう。だれがつけたのか知らないが、よく考えたものである。
 といっても、いまの若者たちはなぜ私が感心したかわからないだろう。そもそもベトコンとは何かを知らないだろうからである。
 そこで、30歳代の若手研究者3人に聞いてみることにした、ベトコンハウスを知っているか、知っている場合なぜそういう名前をつけたかわかるか、知らない場合どんなハウスだと思うか、そもそもベトコンとは何か知っているかと。
 秋田のNK君は、何でこの名前がついたかまでよく知っていた。自慢げだったが、ベトコンハウスのある若美町のすぐそばの大学にいるのだから、知らなかったらかえって問題で、いばるほどのことではない。
 山形にいるST君の回答は「小型の細長いハウスだったかと思う」、「ベトコンは確かベトナムの軍隊だったような気がする」という何ともたよりないものだった。
 網走の女性研究者WMさんはまったく知らなかった。北海道だからしかたがないのだが、ベトコンもわからなかった。「ベトから思いつく言葉は、ベトナムくらいしかありません。ベトナム戦争に関係ありますか?」。生まれた年代からしてやむを得ないかもしれない。
 このことから次のように言える。ベトコンハウスを知っているかどうかは地域性、ベトコンを知っているかどうかは年齢の問題であると。
 それを3人に聞いて明らかにしたかった私の意図に気がついたのだろう、秋田のNK君がベトコンハウスとは何かと研究室の学生に聞いてみたという。そしたらある男子学生は「ベトナムのコンパニオンの詰め所」、ある女子学生は「ベートーヴェンのコンサート専用のホール」と答えた。何とまあ平和な発想だろう。それはそれでいいのだが、今の学生諸君はイラクやアフガニスタンでアメリカが起こしている戦争をどう考えているのだろうか。70年代前半、ベトナム反戦運動が盛り上がり、ほとんどの学生がそれに関心をもち、また参加したものだったが、今の静けさは何なのだろう。反戦運動などしなくていい社会になるのはいいことなのだが、まだそういう国際社会になっていないのではなかろうか。
 まあ、それはそれとして、このベトコンハウスは小型簡易(もしくはミニ)ビニールパイプトンネルハウスというべきなのだろう。この安上がりのハウスが開発普及したのは70年代後半のようだが、東北でビニールハウスが普及し始めたのは60年代後半からだったような気がする。

 1950年代半ばを過ぎた頃、透明のビニール風呂敷を誇らしげに使い始めた頃からではなかったろうか、ポリ塩化ビニルフィルムが農業に導入され、第一部で述べたような保温折衷苗代や温床(野菜の育苗)、幼苗の移植時など、低温から苗をまもるさいの被覆材として使用されるようになってきた。
 このビニールは、これまでの被覆材の油紙やパラフィン紙と違って破れにくいし、腐らないし、長持ちする。外気との遮断力は強く、透明度も高いので、温度、日照等の太陽エネルギーの有効利用を可能にする。そこで一気に普及し、低温や乾燥から幼苗を保護するためにさまざまな作物に利用され、その安定多収、生育期間の短縮や収穫期間の延長などに大きな役割を果たすことになる。
 さらに60年代に入るといわゆるビニールハウスで外気(外気温、降雨、風等)の影響を遮断し、作物の適温に保ち、また必要な水を人為的に供給するなどして野菜の生育期間全体にわたって保護育成し、収穫までするようになってくる。つまり、材木もしくは鉄(ビニール)パイプ等を組み立てて作った柱や屋根の骨組みをポリ塩化ビニルフィルムで覆った簡易な建物=ビニールハウスのなかで作物を栽培するようになってきたのである(もちろん田植機の導入とともに普及した水稲の育苗ハウスのように育苗期間のみのハウスなどもあるが)。さらには、被覆による太陽熱の有効利用だけで不足する場合、暖房をハウスの中に入れ、加温して作物の要求する温度を保って生育期間を短縮もしくは移動・延長したり、自然の太陽光の過不足を遮光や電照で補ったりするようにもなってきた。
 もちろんすべての作物がこうしたビニールハウスで栽培されるようになったわけではない。ハウスの建築にはかなりの資金がかかるからである。したがってハウス栽培ができる作物は、年間需要があるが自然気象のみに依拠しては年間供給(年間生産もしくは貯蔵)が困難な作物、需要のある時期に低温等で供給の困難な作物、そしてその困難を克服するのに要した投資に見合うだけの価格形成のできる作物ということになる。その条件を満たすのは、トマト、キュウリ、ホウレンソウ、イチゴなどの野菜、バラ、カーネーション、シクラメン、ランなどの花卉だった。それでこうした作物がハウスで栽培されるようになってきた。これはやがて大型のガラス温室による栽培にまで進むようになる。
 東北のような寒冷地帯ではこれは非常に歓迎された。とくに以前からの野菜産地では積極的にハウスを導入した。たとえば仙台と石巻の間の海岸沿いにある野菜産地の矢本町(現・東松島市)では1967年頃簡易木骨ハウスを導入し、さらに70年代前半にはパイプハウスを導入している。
 この安価で組み立て・分解が比較的容易なパイプハウスはハウス栽培を一挙に拡大させた。たとえば仙台から南の太平洋岸に接している亘理町ではイチゴや野菜のハウス栽培を急速に伸ばし、イチゴに関しては宮城県をかつての移入県から移出県に転化させるほどの生産を行うようになった。
 問題は雪である。冬期間比較的温暖な気候に恵まれている矢本や亘理でも何年に一回という豪雪でハウスが倒壊する等の被害を受けており、ましてや日本海側の豪雪地帯ではその導入は非常に難しかった。しかも太平洋岸と違って日照が少なく、暖房費もよけいかかる。そこで、積雪期を除く期間のハウス栽培か雪に相対的に強く保温能力も高いガラス温室による栽培をやるしかなかった。
 こうした限界はあったが、ともかくハウス栽培は野菜等の安定多収のみでなく、促成栽培や抑制栽培のような生育期間の短縮あるいは延長・移動、さらには季節にとらわれない年間栽培を可能にした。これは大きな進歩であった。消費者にはいつでも食べられるようにし(この良し悪しについてはまた後に述べたい)、また農家の収入を増加させた。だから農家はこの高収益ハウス栽培を拡大し、それに集中するようになってきた。
 亘理町のある地区などはその典型で、多くの農家がイチゴ専作経営化した。そのおかげで高い収入をあげ、「イチゴ御殿」と称される立派な家を新築した農家もでてきた。当然税務署は注目する。この高収益ハウスから税金をまちがいなく(というよりできるだけ多く)取り立てようとする。農家はいかに節税するか(ごまかすか)を考え、ハウスの数を一つくらい少なく申告したりする。丁々発止のやりとりとなるが、ついに税務署は毎年ヘリコプターを飛ばしてハウスの数を調べるようになった。税務署の勝ちである。
 ある普及員がこんなことを言っていた。こうしたイチゴ農家の立派な家を朝訪ねていく、いない、昼訪ねていく、またいない、夕方行く、今度もいない。朝早くから夜遅くまで食事時と寝るときを除いて一日中ハウスにいるのである。しかも土日なしだ。住まいはハウス、あの立派な家は何のために建てたのか、寝るためだけに建てたのかと嘆く。
 まさに過重労働である。しかも仕事は高温多湿のハウスの中、ハウスの内と外の気温差も大きく、身体がおかしくなってしまう。その上風通しが悪いために農薬などの残留分がなかなか消えない。そこで起きるのがハウス病である。とくにご婦人にそれが多い。男は丈夫だからなのか。いやそうじやない、男は農協の研修会だとか部落の寄合いだとかと外に出て行って次の日は二日酔いで仕事をさぼり、女性は細かい仕事が得意だからと女性に主に仕事をさせるので奥さん方にハウス病が多いのだ、などと亘理の農家の方に言って笑いあったものだったが、生活改良普及員が健康診断を受けるようにと騒ぐようになってきたのは80年代初頭ではなかったかと思う。もちろん最近はそれがかなり解決されているが、つい最近のニュースによると授粉用のミツバチが減少しているとか、今度はミツバチがハウス病にかかっているのだろうか。
 なお、こうしたイチゴ拡大と並行して水田や普通畑を減らし、さらにはそうして少なくなった耕地にも手が回らなくなって荒らし作りか耕作放棄をする農家も出てきたことも問題となった。

 もう一つの問題は、廃ビニールの処理だった。ビニールは腐らないのである。木や紙、わらなどだったら、捨てておけば腐って土に帰ってくれる。鉄でさえ時間がたてば腐ってくれる。ところが、ビニールはそうならない。ともかく処理に困る。それで畑などに放置しておく、あるいはやむを得ず不法投棄をする。すると、それが春の強風などにあおられて舞い上がり、新幹線の架線にくっついて列車を止めたりする。そんなことはしたくないとすれば燃やすしかない。するとすさまじい匂いである。そしてダイオキシンを発生させる。しかしそんなことは当初はわからなかった。そして環境汚染を進めた。
 これまでわれわれは腐敗とは悪いものという感覚をもち、いかに腐らないものをつくるかで努力してきた。しかし技術の進歩は腐敗が人間に必要不可欠なのだということを改めて感じさせるものだった。
 また、技術進歩は捨てることに関する感覚を変えた。これまではものをいかに長持ちさせるか、あるいはいかに再利用するかを考え、捨てるとすればそれは本当にぎりぎりまで使ってからだった。ところが技術進歩による大量生産のなかでいつの間にかそれが忘れ去られ、簡単に捨てるようになった。そしてその結果が60年代から70年代にかけての環境汚染の深刻化だった。もちろん技術進歩それ自体がそうしたことをもたらしたわけではない。技術進歩を物的基礎として「浪費は美徳」などとあおって高度成長を進めようとした当時の資本に基本的な責任があったことはいうまでもない。
 このような環境問題は加温ハウスにおける石油の消費、二酸化炭素の排出によっても引き起こされた。二酸化炭素を吸収する作物栽培が逆に排出するようになったのである。
 さらに大きな問題は、こうした施設型農業は土地よりも資本に依拠する農業であることである。資本に依拠する産業であれば当然それは資本により支配されるようになってくる。つまり資本主義的な企業が施設野菜・花き生産に進出し、それを支配するようになる危険性があるのである。
 施設型畜産ではその資本支配が70年代から始まっていた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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