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平坦部への施設型畜産の普及



               施設型農業の展開(2)

            ☆平坦部への施設型畜産の普及

 山形県庄内の藤島町(現・鶴岡市)に住む非常に優秀な農業青年(もう今は青年でなくなってしまったが)KK君の家の裏に鶏舎があり、そこで彼は鶏を50羽くらい平飼いで飼育し、その卵を直接消費者に販売していた。昔は当たり前だった平飼い(ケージに入れず土の上で飼う)をしばらくぶりで見て何となくなつかしく、赤茶色をした鶏が餌をついばんでいるのをゆっくり見ていた。
 ふと気がついたことがある。一羽だけ鶏舎の上の方にさしてある木の枝に留まってしょんぼりとしており、餌を食べに下に降りてこないのである。何となくそれをじっと見ていたら、KK君がいう。
 「あれはそろそろつぶさなければ」
 不思議そうな顔をしたらしい私に、彼は説明してくれた。あの鶏はみんなにいじめられて木の上に逃げているのだ、当然餌は食べられず、卵も産まなくなっている、だからつぶすのだと。
 ところが、と彼は話しを続ける、実はその鶏がいなくなると鶏全体が急に落ち着かなくなり、産卵量が減ってくる。そのうちもっとも弱いものをまたみんなで見つけ、それをいじめるようになる。それでその鶏は木の上にあがる。すると鶏の社会は落ち着きを取り戻し、卵の生産ももとに戻るのだと。そして彼は言う。
 「いじめがないと、序列がないとだめというような鶏は、やはり程度の低い動物なんですかね」
 そこで私は言った。
 「人間も鶏とあんまり変わりはないんじゃないかな、人間だって子どもの社会から大人の社会までいじめがあるし、支配階級はだれが一番下か序列を決め、差別して社会を支配しようとしてきたでしょう」
 「そういえばそうかもしれないな」
 二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
 こんないじめはケージ養鶏(籠=ケージに1羽ずつ容れて鶏を飼う方式)ではないのだろうか。両隣にしか鶏はいないし、しかも狭いケージからは隣がよく見えないし、いじめようにも、けんかしようにも動けないからやれるわけはない。そう思って畜産研究者のKT君に聞いたら、たしかにいじめはないという。しかしケージから鶏を外に出すと、血で血を洗うすさまじい争いが起き、やがて序列ができると、つまりいじめの対象ができると静かになるという。こうしたことからすると、いじめの起きないようになっているケージ飼いの方が平飼いよりもいいのかもしれない。

 このケージ養鶏を初めて見たのは酒田市の北平田の農家でだった。1963~4年ころだったと思う。農家の方はこれまでの飼育技術では考えられなかった500羽を飼育しており、近代化資金で1000羽に規模拡大するのだと張り切っていた。
 平飼いであればこんな大規模飼育は難しい。10羽20羽ならいざ知らず、何百羽となると管理が行き届かないからである。たとえば、あまり産卵しない鶏に毎日餌だけ与えるのは損なので廃鶏にするが、同じような顔をしてしょっちゅう動いている鶏を一々識別してどの鶏がよく卵を産み、どれがあまり産まないかを判断するなどというのは容易ではない。ところがケージ飼いだとその判断は簡単にできる。またどの鶏にも平等に餌を与えることができるので、餌を他の鶏に取られて卵があまり産めなくなるなどということもない。さらに何階建てかのアパートのようになっているから鶏舎に要する土地の節約ができ、土地単位面積当たりにするとよけい鶏が飼える。
 しかし、鶏にとってどちらがいいのかよくわからない。本来の鶏らしく伸び伸びと歩きながら、土をつついて餌をあさったりしながら飼われる方が鶏にとっていいのではないかなどと思ったものだが、飼う方にとってはケージの方がずっと楽であることはいうまでもない。しかもケージは機械化、オートメ化を可能にする。実際に採卵・給餌・給水・除糞がベルトコンベアでなされるようになってきた。
 こうしたケージを機軸にした技術革新は、養鶏の省力化、規模拡大を可能にし、何千羽、何万羽飼育経営の成立を可能にした。それはまたコスト低下を可能にし、諸物価が上昇しても卵の値段はそれほど変わらず、物価の優等生とまで言われ、毎日でも卵が食べられるようになってきた。
 卵の値段が安い、だれでも食べられる、このこと自体は喜ばしいことである。
 しかしこれは技術革新によってだけ得られたわけではなかった。鶏の飼育農家自らが餌を生産せず、それどころが国内で餌を生産せず、外国から輸入した安い餌にたよることによってもたらされたものであった。また、産卵能力が優れているということで輸入された鶏の雛、たとえばハイライン、デカルブなどアメリカの大企業の育種したハイブリッド(一代雑種)鶏を飼育するようになったこともあった。つまり、「青い目の鶏」を外国の餌で飼うことでもたらされたのである。
 そうなると卵が安いと言うことを単純に喜ぶわけにはいかない。日本の養鶏のほとんどはアメリカの巨大穀物商社、育種業者に首根っこを押さえられ、卵は水と労力のみ国産、もはや卵が国産といえなくさせられた結果だからである。豚肉も基本的に同じ問題をかかえるようになっていた。

 さきに述べたことだが、1956年から始まった青森の上北機械開墾では入植農家がそれぞれ豚4頭、鶏20羽を自給飼料で飼育する計画を立てていた(註1)。当時はこれでも多頭羽飼育だった。1963年、開田が始まる前の岩手県和賀町(現・北上市)の農家が20頭の豚を飼育しているのを見たときその規模の大きさに驚いたものだった。しかも農家は畑にジャガイモ等を植え、それを飼料として給与していた。こうした姿は、山間畑作地帯での自給飼料を中心とした中小家畜の発展の展望を示すものであった。
 そのころ聞いたのが、豚というと汚いものというイメージがあるけれども、実はそうではない、きれい好きで、寝る場所と排泄する場所とをきちんと分けているほどだということだった。そしてその習性を利用して、餌箱と逆の方向、つまり豚房の後方に便をする所を設置したデンマーク式豚舎が普及していった。だから豚舎も豚も以前と違ってきれいになり、また糞尿の始末も楽になった。その結果、10~20頭の豚を飼育するのは普通になり、70年代に入ると30~50頭飼育農家も出てきた。
 こうした養豚が宮城県の稲作地帯や庄内の米どころで急激に伸張した。
 このように平場の穀倉地帯に中小家畜の生産が立地するのはおかしいことではない。農業立地論では以前から言われていたことである。中小家畜がとくに必要とする濃厚飼料、つまり穀物やその副産物(米ぬかやふすま、わら等)は穀倉地帯で生産されるものであり、また都市近郊には野菜屑や都市の残飯があるので、平場・近郊に中小家畜の生産が立地するのである。これに対して草などの粗飼料中心の大家畜は土地の豊富な山間地帯・遠隔地に立地する。なお、肉牛についていえば、粗飼料と運動を必要とする繁殖は山間部、濃厚飼料を必要とする肥育は平場の穀倉地帯に立地することになる(註2)。
 しかし、60年代からの平場での中小家畜や肥育牛生産の伸張はこうしたことからもたらされたものではなかった。購入飼料依存がそれを可能にしたものだった。
 つまり、飼料を自給するとなれば経営面積のことを考えざるを得ないので簡単に導入・拡大できないが、飼料を購入するとなれば経営面積など考えなくとも導入でき、土地面積にかぎりのある平場地帯でも多頭飼育経営が可能である。もちろん購入飼料の価格が高ければそんなわけにはいかない。ところが安い。外国から商社が安く輸入してくる飼料原穀を飼料会社が配合し、自給飼料のコストよりもかなり安い値段で供給してくれる。そこで鶏や豚、肥育牛に稲作の省力化で浮いた労働力をまわし、所得を確保していこうとするようになった。かくして平場農村に施設型畜産が立地するようになったのである。
 庄内などでは我も我もと養豚を導入・拡大し、集落によってはすべての農家が家の裏などにブロックづくりの豚舎を建て、何十頭かの豚を飼育した。その結果、集落の匂いが変わってきた。夏などはすさまじい悪臭がする。集落から離れて田んぼの中にくるとほっとするほどだった。生活用にも使ってきたきれいな小川は汚れ、ここも悪臭を発するようになってきた。蠅も昔以上に飛ぶ。消毒してもしきれないほどだ。当然豚を飼育していない農家から文句が出る。その人たちが少数派であっても飼育農家は耳を傾けないわけにはいかない。自分たちも困っているからだ。「糞尿公害」といわれたこうした問題を行政も放置しておくわけにはいかなくなった。
 しかし、糞尿処理施設の整備を個々の農家がばらばらにやったらカネがかかるだけである。人間の下水処理施設も整備されていないのに豚の汚水処理施設を整備するなどということもできない。さらに価格低迷に対応するための規模拡大も個々の屋敷地のなかではもう限界になってきている。
 そこで七〇年代後半から推進されたのが畜産団地の造成だった。集落から遠く離れた田畑の真ん中か山の中に糞尿処理施設の整った畜舎をまとめて建設し、家畜糞尿処理施設もつくり、そこに畜舎を集団移転させ、糞尿公害を解決すると同時に一戸当たり何百頭規模に拡大しようとしたのである。
 いうまでもなくそれにはカネがかかる。さらに今までの畜舎への投資がむだになる。いくら補助や低利融資があるといっても移転新築は容易ではない。やめるか、団地に移転するか、その選択を迫られたが、頭数のそれほど多くない農家、資金力のない農家は養豚をあきらめざるを得なくなった。
 一方、移転した農家は近代化された畜舎で、大規模飼育技術の確立に励みながら、意気軒昂として働いていた。
 それから5~6年過ぎたころまた訪ねたら雰囲気は大きく変わっていた。宮城県のある養豚農家の方がこんなことを言って私に口説いた。
 77~8年頃から相場がおかしくなってきた、牛肉輸入自由化をめぐる日米会談がやられると翌日の相場がガタンと落ち、とうとう79年には豚価が大暴落、一方団地への移転による多額の固定資本(畜舎、糞尿処理施設、素畜等)投資の借金はあり、毎日食わせる飼料代もあり、その価格は外国の穀物相場で動かされて下がるどころか上がり、にっちもさっちもいかない状況になっていると。
 こうして大口負債をかかえても返還できれば問題ない。しかし返せる見通しがない。82~3年に宮城県で大口負債農家を調査したところ、住宅等の生活関連を原因にする農家を除くとほとんどが養豚、肥育牛、養鶏への投資を原因とする農家だった。耕種農業への投資で多額の借金をかかえる農家はきわめて少なく、酪農家もあるにはあったし、負債額も大きかったが、肥育などの施設型畜産農家と違い返済可能というものが多かった。このことは、土地に依存せず、外国飼料に依存する畜産なるものはいかに弱い体質をもっていたかを示している。そして全財産を喪失して農業から、さらには故郷から離れる農家すら出てきた。
 こうした畜産をめぐる状況のなかでも着々と成長している経営もあった。それはいわゆる企業養豚、企業養鶏だった。

(註)
1.11年7月1日掲載・本稿第二部「☆山地の大規模開発」(2、3段落)参照
2.11年7月4日掲載・本稿第二部「☆大家畜生産の発展」(2段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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