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働く農家の子どもたち(3)

    
                     ☆家畜の世話

 どこの農家もわずかだが鶏を飼っていた。私の家でも二坪くらいの鶏小屋で十羽前後の鶏を飼っていた。この鶏の餌やりと産んだ卵の回収が小さい子どもの仕事だった。取りに行くと鶏が卵の殻を突っついて割ってしまっているときがたまにある。それを報告すると祖母は、貝殻のような固いものが足りないので卵の殻を食べようとするのだと言って、しじみなどの貝殻を私によこす。それを金槌で細かく砕き、鶏に与える。
 泣きたくなるのは、餌やりや卵取りに行くとき、鶏が小屋の入り口から逃げ出すときだ。捕まえようにも鶏に突っつかれるので子どもにはこわい。小屋に追い込むしかない。そのために入り口を開けておくと他の鶏も逃げ出してしまうし、入り口を閉めていたら追い込めない。一人ではどうしようもない。半分泣きながら人を呼び、捕まえてもらうことになる。
 こうして育て、卵を取ってきても、それはめったに食べられない。卵は売り物だからである。何日かに一度店の人が買いに来るのである。
 たまに一個の生卵が夕食に出る。子どもたちは大喜びするが、兄弟四人で一個食べるのだから、醤油をたくさん入れて量を増やす。卵と醤油が均等になるようにかきまわすが白身はなかなか溶けない。この白身をだれが取るかが大問題である。白身がもっとも卵の味を残しており、黄身はしょう油に溶けてしまって卵の味がなくなっているからである。最初に卵をごはんにかけると、白身がまず入るので、だれが先にかけるかけんかとなる。結局、小さい弟が先にかけることになり、兄はがまんさせられる。それでもおいしかったが、こういうときは兄弟が多いことを恨んだものだ。
 しかし、たまに一個まるまる一人で食べられることがある。遠足と病気のときである。遠足のときは卵焼きで、病気のときはおかゆに溶かして食べる。それくらい貴重な食べ物だった。
 中学一年の保健体育の授業で、先生が病気をしていいことは何もないという話をした。そのとき私は言った。卵をおかゆに入れて一個まるまる食べさせてもらえるので病気にもいいことがあると。先生はうっと詰まり、苦笑いをしていた。
 それは私のところだけではなかった。知り合いの高校の先生、私よりも十歳くらい上だろうか、彼は毎朝必ず生卵一個食べていると言う。そういう贅沢をしてみたいと小さい頃夢見ていたからだそうだ。

 そろそろ卵を産まなくなってくると、ひよこを必要な数だけ、わが家では十羽程度だったが、買ってきて育雛箱のなかで育てる。小さい頃は夜になると保温のために家の中の土間に箱を入れ、少し大きくなると夜でも外に出しておく。ひよこが一人前になるころ鶏小屋に入れられるが、それと同時に古い鶏は肉用として売られる。それでも一羽ぐらいは家で食べる。鶏を買いに来た人が家の庭で絞めてくれ、羽をむしり、さばいてくれて肉となる。子どもの私どもはかわいそうだと思いながら見ているが、その夜鶏肉が出てくるときはそんなことを忘れる。肉などろくに食べられない時代だったから本当においしい。とくにお腹に入っていた小さな卵は争って食べた。
 ブロイラーなどの肉と違って、採卵鶏の肉は固くてまずいなどといわれ、七〇年代以降、廃鶏を食べることはほとんどなくなった。それどころかゴミとして処理されるようにすらなった。何とももったいない話であるし、鶏にも申し訳ないと思う。

 小学二年頃になると山羊の乳搾りだ。乳の握り方、指の力の入れ方等、覚えさせられ、最初二、三日は大人の付き添いで、後は一人で搾らされた。学校から帰るとすぐに搾ってそれから遊びに行くのが日課となった。
 まず、祖父が飼料として毎朝刈ってくる野草をえさ箱に入れ、そこに山羊が首を出して食べ始めたときに縄で山羊を柱につないで動かないようにし、乳房の下になべをおき、乳をゆっくり交互に搾る。最初の頃は山羊が暴れて角でついてきたり、足で乳の入ったなべをひっくり返してしまうことがあったが、慣れてくるとそんなこともなくなってくる。
 山羊の乳は卵と違って売ったりはしない。搾った後すぐに煮沸し、夜子どもを中心に家族みんなで飲む。煮沸して冷ましたときに表面に薄くできる膜をだれが食べるか、子どもたちの間でけんかとなる。
 それにウサギの餌やりもあった。雑草を刈ってきて食べさせるのである。ウサギの飼育は学校から強く勧められたものだった。満州にいる兵隊さんたちの防寒用にウサギの毛皮が必要だというのである。もっとも多いときは五羽も飼っていた。

 背の高さが牛の背に近くなる小学校の高学年になると、牛の餌やりが仕事となる。
 稲わらを「押し切り」で三㌢ほどに細かく切り刻み、それとこぬか(小糠)と米の研ぎ汁をかいば桶に入れ、それを棒でかき混ぜて食べさせる。ときどきは野菜くず、みそ汁やおかずの残りなどの残飯をエサに混ぜて食べさせる。みそ汁の残りなどは牛や山羊にとってはかっこうの塩分補給であった。
 こぬかは牛の大好物である。だからこぬかの箱から必要な分量だけ入れようとかいば桶の近くに持ってくると、首をつっこんで食べようとする。油断するとこぬかの箱に口を入れて食べたり、ひっくりかえしてしまう。そうしないように混ぜ合わせる棒を振り回しながら牛をどなりつけ、牛小屋の奥に追いやる。
 これが朝晩の仕事となるが、遊んで餌やりを忘れて遅く帰ってくると、夕食の支度をしている祖母に怒られたものだった。
 「はやぐ(早く)べごさ(牛に)もの(餌)かしぇろ(食わせろ)」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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