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農業分野への資本の進出―インテグレーション―

               施設型農業の展開(3)

            ☆農業分野への資本の進出―インテグレーション―

 「インテグレーション」、この言葉が経営研究者の間で話題になったのは60年代後半ではなかったかと思う。私がそれに初めてぶつかったのは1965年、茨城県に近い阿武隈山地の福島県石川町の調査でだった。町内の何戸かの養豚農家が、大総合商社のIC商事(仮名)とその系列の飼料会社、食肉加工会社がいっしょに出資してつくった子会社と契約を結んで生産をしていたのである。そして農家はその子会社の完全な下請けとなっていた。その農家を私たちは「契約養豚農家」と呼んで調査分析したのだが、子会社と農家との契約は次のようなものだった。
 まず、子会社は出資者のIC商事を通じて同じく出資者である飼料会社の製造した配合飼料を農家に供給する。また、子豚も子会社が市場から購入して供給する。技術については子会社の雇用している獣医等の職員が提供する。こうして農家が子会社の定める一定の規格に育てた成豚は子会社が引き取り、出資者である同系列の食肉加工会社に送り込む。そして農家は、一頭当たりいくらと決まっている飼育・管理費(実質労賃部分)、豚舎償却費を子会社から受け取り、損益が出れば子会社と農家の両者で折半する。農家の養豚部門の損益勘定の責任は子会社がもつ。なお、このような契約を結んだ農家を会社側は「管理農場」と呼んでいた。
 大体このようなものなのだが、農家は完全に子会社のつまりIC商事の管理下、支配下におかれているといっていいだろう。豚舎とその敷地、労働力を農家がもっているが、豚は子会社のもの、飼料も技術も子会社のもの、損益勘定は子会社がやるのだから、実質的な経営権はないといっていいからである。「管理農場」という名前はまさにその実態を示しているものだった。
 これはまさしく、垂直的統合、つまり「巨大企業が生産から流通までの各段階をいとなむ企業を系列化して縦の支配のもとに統合し、経営効率の向上と市場支配の強化を図るという経営体制の一種」、いわゆるインテグレーションだった。それが畜産において成立しているのである。つまり、総合商社がその系列下の会社とともに、配合飼料と素畜の供給、家畜の飼育、処理加工、卸売りまでを一貫して統合しており、家畜を飼育する農家は、経営としてある程度独立しているといっても、会社の完全な管理下にあった。
 この系列下に入った農家に聞いてみると、飼育・管理費として一定の収入が必ず入るので、価格変動に影響されずに安心して生産できるのがいいという。そこで農家の多くは管理農場になると同時に規模を拡大した。拡大すればするほど多くの飼育・管理費が入り、収入が増えるからである。ある農家の場合には契約当初家の裏の豚舎で100頭しか飼育していなかったのに、その3年後われわれが行ったときには家から遠く離れたところの畑に豚舎を近代化資金で建てて300頭を飼育しており、さらに半年後には全部で700頭飼育規模にするということだった。
 会社の側もそれを推奨した。IC商事が自ら資金を調達することなしに、近代化資金等の政府の低利融資と農家の土地を利用して畜舎を建設させ、また生産過程での危険は農家に負担させ、自ら経営するより安く豚を生産させてそれを確実に手に入れ、系列下の飼料会社の売上げを確実に増やし、さらに規格のそろった豚を安定供給して食肉加工会社の売上げを伸ばし、IC商事の手数料を、そして利益を確実に増やすことができるからである。
 このように、会社、農家それぞれにとっていいはずだったが、問題点も徐々に明らかになってきた。諸物価が上昇しているのに、それに対応して一頭当たりの飼育・管理費があがるわけではないことである。しかも、豚価暴落で損失が出れば農家も負担しなければならない。それを補うために飼育・管理費(労賃部分)の総額を増やそうと規模を拡大する。しかしいつまでも規模拡大を続けるわけにはいかない。拡大に限界を感じた農家はやめるより他なくなる。また、出荷規格等についてはかなり厳しく、それと少しでも違うとその分の管理費はもらえない。規格にあわない豚が多いと契約を破棄されて養豚をやめざるを得なくなった農家もあるとのことだった。
 農家を下請けにして飼育させるこうしたインテグレーションが各地で見られるようになったが、それはそれだけで止まらなかった。
 やがて飼育も企業が直営するようになってきた。それで有名になったのが、三菱商事とそれと同系列の飼料会社、ハム会社が出資して1969年鹿児島につくったジャパンファームだった。豚何万頭、鶏何百万羽と飼育し、まさに配合飼料生産から家畜飼育、販売・加工まで一貫して企業が行う経営が成立したのである。こうしたインテグレーション、企業養豚・企業養鶏が70年代後半から東北にも進出してくるようになった。これに資本力のない農家が太刀打ちしていくなどというのは容易でないことはいうまでもない。

 90年ころ、夜遅くタクシーに乗ったら運転手さんが「酒井先生じゃないですか」と声をかけてきた。農協青年部時代に古川市(現・大崎市)で私の講演を何回か聞いたことがあるという。それからいろいろ雑談となった。彼はかつて稲と養豚をやっていたが、豚はやめ、往復約2時間かけて仙台に通って運転手をしている、夜勤明けの日に稲作がやれるので都合がいい、集落約20戸、かつてはほとんど豚を飼っていたが全部やめてしまった、こんな話をしてくれた。
 そうなのである。養鶏、養豚への大企業の参入のなかで、多くの農家は負債をかかえて養豚をやめざるを得なくさせられ、構造改善事業等でつくられた立派な豚舎や鶏舎が蜘蛛の巣の張った廃屋となっている荒れ果てた風景が各地でみられるようになった。東北についていえば、80年代に入ると養豚・養鶏農家は激減し始め、90年代には東北が全国でももっとも激しい減少率を示すなど、農家養豚はほぼ壊滅状態となったのである。
 もちろん、少数ではあるが生き延びた経営もあった。法人化した、加工を始めた等で経営形態や規模は変わっても、今も農家養豚・養鶏といえる精神をもつ経営ががんばって存続している。しかし、その多くは養豚業者、養鶏業者と呼ばれるような、農家とはいえない経営、中小企業ともいえる経営となった。つまり資本が養豚、養鶏を支配するようになったのである。
 これは当然のことだった。先にも述べたように、農基法農政展開後の養豚、養鶏は輸入飼料に依存し、土から切り離されるようになった。そして施設設備のために巨額の資本投下を必要とする分野になった。こうした土地に依存しない施設型畜産であれば企業の進出が可能である。もちろん当初は、生物生産であり、飼育に特殊の技能が必要とされる状況にあったのでなかなか入り込めなかった。しかし、養豚、養鶏農家は、さまざまな失敗、成功を繰り返しながら規模拡大を進め、大規模飼育の技術を確立した。そのとたんに企業が生産に直接進出するようになった。資本力がものを言うようになれば資本をもつものが当然勝利する。そして巨大な資本力と販売力をもとに農家養豚、農家養鶏をインテグレーションの支配下におき、さらにはそれを駆逐して、企業養豚、企業養鶏が支配するようになったのである。

 同じことが施設園芸にも起きるのではなかろうか。土地よりも施設つまり資本に依拠するところの大きい施設園芸、なかでもまったく土地に依存しない近年流行りの水耕栽培=養液栽培、植物工場は資本に支配されるようになるのではなかろうか。
 土から離れるものは資本に支配される、土から離れれば土地から離されるのである。つまり、土があるから、土耕が難しいから、これまで資本は農業に入り込めないできた。連作障害にはなるし、土地と一言で言ってもさまざま異なるし、経験と技能なしでは土を使いこなすのはきわめて難しく、雇用労働力を使って生産することも難しいからである。しかし、土から離れた、工業と同じような農業生産であれば資本は十分に入り込める。ということは土から離れた水耕栽培にも資本が入り込む可能性があるということを意味する。現にいま食品加工メーカーや外食産業などが水耕栽培施設を直営し、その生産物の安全性を売り物にして加工・販売しようとする動きが各地で見られつつある。さらに太陽エネルギーの利用とも切り離された植物工場ともなれば、資本はその巨大な資本と大量の雇用労働力を用いて大規模に経営し、市場を支配していくことになろう。こうしたなかで、農家の養液栽培は 資本力、販売力のある企業の養液栽培や植物工場に負けてしまって潰されるか(つまり土地を失って離農するか)、企業の下請け・実質的な労働者にさせられてしまうか、いずれかの道をたどらざるを得なくなるだろう。そして、多額の資本を投下した立派な温室が使われなくなり、破れたビニールが風にぱたぱた煽られているハウス、ガラスが何十カ所も割れている温室が立ち並ぶ荒廃した風景が各地で見られるようになるのではなかろうか。

 石川町の契約養豚農家がその後どうなったかわからない。いずれにせよ養豚・養鶏農家の数は東北でも激減した。
 にもかかわらず、東北における飼育頭羽数は大きく伸びている。また、畜産に関する統計を見ると豚や鶏の頭羽数がべらぼうに多い市町村がある。しかし、養豚場、養鶏場はあまり見ない。どこで飼育しているのだろうか。
 こんな疑問を持ち始めていた90年代半ば、岩手県軽米町に行ったときのことである。山のなかの集落の道ばたで目の前にある急傾斜の山を見ながら私と雑談していた農家の方が、この山の上にかなり平らな土地があるが、そこに大きな養鶏場があるという。それを知ったのはつい最近のことで、道路からは見えないところにあるので近くの人もほとんど知らず、たまたま行ってみてびっくりしたという。そこばかりではない、あちこちに知らないうちに養豚・養鶏場ができているらしい。しかし悪臭はめったにしない。高地にあるからだろう。ただいくつかの小河川で汚染が見られるという。
 そうか、わかった。施設型畜産は平場から山に「疎開」していたのだ。山の奥深く、林業もだめで過疎化が進み、人もろくに来ないようなところは企業養豚、企業養鶏にとっては絶好の場所なのだろう。大面積を簡単に手に入れることができるし、悪臭や河川の汚染などで文句をいう人も少なく、不法滞在外国人を安く雇用しても人の目に触れないので問題にされることもない。飼料や家畜の運搬は専用のトラックでやればいい。それに費用がかかっても地価の低さで補うことができる。
 かくして東北の山間部で施設型畜産、中小家畜生産が伸張することになる。しかしそれが地域振興、過疎地からの脱却につながっているとは思えない。そこに雇用されている人も若干いるらしいが、そのことをまわりの人にはあまり言わないという。
 もちろん、中小家畜生産が山間部に立地して悪いわけではない。ただし、それが本当に地域振興となるのは山間部の人と土地による飼料の生産と結びついたときであろう。酪農や肉牛の繁殖などは牛肉自由化等の厳しい状況下にあってもまだがんばってやっており、いまだ山間部の農業の中核をなしている。土地に依拠する草地型畜産、大家畜飼育にはまだ資本が進出できないからである。
 話はちょっと飛んでしまったが、またもとの時代の話に戻ろう。

 70年代、これまで述べてきたように東北の山間畑作地帯では出稼ぎ問題が深刻化し、過疎化で地域が衰退する危険性に直面していた。しかし、山間部に豊富に存在する林野を開発して新たにつくられた農地、また寒冷気象とそれが付随している農地、これらを活かして畜産や特用作物、きのこ・山菜、野菜・花き等の振興を図ることで地域を発展させていけるかもしれない、70年代はこんな希望が芽生え始めた時期でもあった。
 しかし、70年代後半になると、そうした希望に水をさすような状況が出てき始めた。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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