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ノーキョーさん―都市住民と農家の分断―


                四面楚歌の農業・農村―80年前後―(1)

                ☆ノーキョーさん―都市住民と農家の分断― 

 全国各地の農民が何千人も集まって国会の周辺を、東京のど真ん中を、また各県の県庁所在地の街頭をデモ行進して歩く、戦前はもちろん戦後もほとんど見られなかった光景が1960年代後半から見られるようになった。米価闘争、乳価闘争、輸入自由化反対闘争などが多数の農民を結集して激しく展開されたのである。農協中心の体制内運動が主体であることに限界があるとも言われたが、ともかくその動員力、影響力からしてそれは農村の歴史始まって以来のことと言っていいであろう。
 これは農民の権利意識の向上、つまり農民も他の国民と同様に憲法で保障されている「健康で文化的な最低生活」をいとなむ権利があるという人間として生きる権利の目覚め、そして他産業並みの賃金が農業労働でも当然保障されてしかるべきであるという自己労働評価観念の発達からくるものであった。
 そしてこれは戦後のさまざまな側面からの民主化のなかで培われた成果であったが、テレビ・ラジオの普及などで外国や都市の生活を知り、さらに出稼ぎや兼業でさまざまな職種の人々とその暮らしに直接触れあうことにより、自分たち農家だってそうした人々と少なくとも同等の暮らしをしてもいいはずだという意識をもつようになったことからもきていると思う。
 また学習運動の展開もそれに影響を及ぼした。
 高度経済成長が始まり、都市と農村の格差がふたたび広がり始め、少しずつむらがさびれていくなかで、なぜそうなるのか、だれがそうさせているか、これからどうしていけばよいのかを学習したいという農家の意欲が60年代半ばころから急速に高まった。一方、自治体や農協に勤める職員、教員等、直接農村に触れる労働者のなかに、急激なむらのまた農業の変化を見て将来に不安をもつものも生まれ、農民とともに学習しようという動きが出てきた。こうしたなかで全国各地で自主的な学習運動が展開されるようになったのである。なお、これはこれまでの学習運動とはその性質を異にするものだった。戦後の学習運動は封建的なものの考え方を打破し、個人の自立をうながすという啓蒙運動的な色彩をもっていたが、新しい運動は農業農村をおかしくしている根源をさぐり、その変革の道をともに考えようというものだった。
 この学習運動の一つに農民大学運動があった。これは長野から始まって全国に普及していくのだが、東北での最初は1964年設立された山形県農民大学だった。農民詩人の真壁仁さんを代表に、教員組合が事務局を担当して始まり、半年に一度東根温泉で開催されるようになった。この第4回大学で私が講義をさせられたときに渡された日程のパンフの裏に次のような詩がのっていた。
 「おれたちは学習する。/おれたちは行動する。/おれたちはたたかう。/おれたちは連帯の輪を/北方の空にえがく。/おれたちは未来をよぶ。/未来はおれたちのもの」
 この山形に学んでできたのが宮城農民大学だった。私の恩師の一人である東北大のYK先生を学長にして69年9月に開かれた第1回の大学には予定の100名を大幅にこす180名が会場の鳴子温泉にまさに手弁当で県内各地から参加し、真壁仁、MT(当時協同組合短大教授、後に北大教授)さんの講演を聞いて体系的な知識を得、分科会ではみんながそれぞれの思いを述べながら議論し、さらに旅館の各部屋では夜中おそくまで話し合い、まさに熱気につつまれた。そこで得た感動を契機に県内各地で大学の分校運動が自主的に展開された。
 山形、宮城にとどまらなかった。その設立主体、開催方法、名称等々多様ではあるが、秋田、福島、青森、岩手と東北6県すべてで農民大学が設立された。
 このような動きは、農家が、また農協・自治体職員等の農業関係者がいかにこれからの方向を模索していたか、そのための学習の機会を欲していたかを示すものだった。こうしたことが反映したのだろうか、あちこちの町村で町民大学とか農業大学とかが町村や農協の主催で開催されるようになってきた(註)。また農協の米価大会などでは必ずといっていいほど米価や農政についての学習会、講演会を開いた。私もその講師として招かれ、東北の各地を飛び歩いたものだった。
 こうした学習運動の成果も米価運動を始めとする農家、農協の運動を盛り上げた大きな力となったということができよう。
 もう一つ、60年安保や三井三池の闘争などの影響も見落としてはならない。それは、要求というものは黙っていては通らない、行動で示さなければならないということを教えた。それもあって要求集会やデモ行進等々、さまざまな手段で自らの要求を示していくようになったということができよう。
 まさに「もの言わぬ農民」がものを言うようになったのである。

 米価運動が盛んになり始め、諸物価上昇に対応して米価を始めとする農産物価格が上がり始めた67~8年ころでなかったかと思う。ある週刊誌のグラビアの頁にこんな写真が載った。大型観光バスから中高年女性がぞろぞろと降りてくる。田舎もの風のそのご婦人たちは車掌さんの持つ農協の旗の後にくっついてのんびり歩いている。夜は旅館の宴会で歌い踊りまくる。そしてその写真の解説記事は、こうした農家のご婦人の旅行が非常に多くなったと強調しながら、さんざん小馬鹿にする。
 こうした記事は70年の大阪万博のときにさらに多くなった。マスコミがあげて農協の団体旅行を取り上げた。農民が実際にどれくらい万博見物にいったのかといえば、数千万人の見物客のなかではまさに微々たるものでしかなかったろう。にもかかわらず新聞、テレビは農協の団体旅行を「ノーキヨーさん」とカタカナ書きで呼んで連日のように取り上げた。そして、農民は一人では歩けない、団体でしか歩けない田舎ものだと揶揄(やゆ)し、米価がどんどん上がるので農家はこうしたぜいたくができるのだなどとも宣伝した。
 それだけでは止まらなかった。やがて「ノーキョーさん」の外国旅行が新聞雑誌を賑わすようになってきた。海外旅行が1964年に自由化され、さらに円高ドル安になり始め、70年代になるとようやく一般市民も外国旅行に行けるようになったが、まだその頃はいまのように気軽にはいけなかった。ところがマスコミは言う、農家はどんどん外国に行っていると。そして農家は外国の町をノーキョーの旗の下に団体でぞろぞろ物珍しげに歩いていると冷やかし、からかい、さらには昼から酒を飲み、夜は女を漁るなどして日本の恥を海外でさらしていると非難までした。
 こうした風潮の中で書かれたのが筒井康隆『農協月へ行く』(74年刊)だった。お金があって厚かましく無知蒙昧なノーキョーさんの団体が月に行く。そして宇宙船の中でドンチャン騒ぎをし、酒や芸者を要求する。こんなことをおもしろおかしく書く。
 いうまでもないが、団体旅行は農協だけではなかった。会社や商店街、町内会の親睦旅行で旅行会社の旗にぞろぞろくっついて歩く姿の方が現実には多かった。海外旅行にしても、会社の出張や親睦旅行で行くものの方がはるかに多く、しかも彼らの中には金に飽かせて恥ずかしい行動するものもいた。そして途上国に行けばそこの人たちをバカにし、先進国に行っては卑屈になってそこに行ったことを自慢するものもいた。ところがこうしたことは取り上げず、ノーキョーさんだけを大きく取り上げる。
 そもそもなぜ農家が旅行して悪いのか。百姓は貧乏なのが当たり前、百姓ごときが海外旅行などするのはけしからんということなのか。身分違いだと言いたいのか。

 こうした身分違いのことができるのは農家が土地を高く売って住宅難で悩む都市住民を苦しめているからだ、土地成金農家は立派な家を建ててすごい生活をしているとマスコミはあおる。山形県川西町出身の小説家井上ひさし氏まで『ドン松五郎の生活』(75年刊)で東京近郊の農家を取り上げ、徹底してバカにした。たしかにそうした農家はあったろう。しかしそれはほんの一部でしかない。しかも土地成金は農家だけではなく、都市住民のなかにもかなりあったはずだ。それはなぜ取り上げず、農家だけを面白おかしく取り上げるのか。
 農家が立派な家をつくったと文句をいうなら、当時皇族が結婚するからと何十億円もかけて立派な家を国民の税金で建てたが、それはどうなのか。財界の大物は豪邸や別荘をもっている上に、労働者の稼ぎをピンハネして得た役員報酬や接待費で銀座や赤坂で飲み食いし、山林や畑を潰してつくった広大なゴルフ場で遊ぶ、これは許されるのか。その財界からおこぼれをちょうだいして家を建て、料亭で飲み食いしている政治家はどうなのか。
 彼らは農家とは地位や身分が違う、人種が違うのだから当然だというのだろうか。農家は貧乏でなければならないのに、カネをもつとは何事かと言いたいのだろうか。これは農民に対する蔑視以外の何ものでもない。
 いや、政財界の大物などが立派な家を建て、別荘をもっているのは、彼らがあるいはその先祖がそれだけのことをやってきたからで当然のことだというかもしれない。しかし農家だって何百年何千年と働いて、台風にまた豪雨に、さらに噴火や地震に耐えて、まさに血と汗と涙を流しながら土地を豊かに維持してきた。その土地を手放す代償としたら地価などは安いものではないか。
 そうは言ってもその高地価で都市住民は苦しめられている、それで楽をしている農家はやはり問題だというかもしれない。しかし高地価は都市近郊農家のせいではない。過疎化を進めながら大都市に人口を集中させている政治経済に原因がある。住宅が欲しいなら東北の農山村にきてもらいたい、いくらでも土地はあるから安く売ってやると言いたくなる。ところがマスコミは農家が土地を手放さないから都市住民は困っていると宣伝する。

 さらにマスコミは言う、農家は豊かになった、都市近郊農家だけではなく一般の農家も新築・改築をして家を立派にしている、しかもその庭先には自家用車が3台も並んでいると。
 たしかに農家の1戸当たり所得は都市のそれとほぼ同じになった。しかし、それは農業所得ではなく、兼業からの所得も含めた混合所得であり、家族総ぐるみで働いて得たものだった。就業者1人当たりにすると都市勤労者のそれを大きく下回っていた。しかも一人当たり労働時間も長い。兼業と農業と二つやるわけだから、年間総労働時間は約2800時間にもなる(70~75年平均、男子)。8時間労働に換算すると345日、ほぼ一年中働いていることになる。都市では週休2日制が定着しつつあったにもかかわらずである。まさに家族ぐるみの過重労働で他産業並みの所得を得ているのである。
 また新改築も、大きく変わった生活様式、たとえば燃料の石油・プロパンガスへの変化に対応するためにやむを得ないものだった。古くて汚くて不便な昔の家では嫁の来手もないので、嫁問題、家の継続の問題からしても新改築はどうしても必要だった。
 自家用車は公共交通機関が整備されていない農村では必要不可欠だった。病院に行くにしても、役場や農協に行くにしても、町に買い物に行くにしても、車がなければどうしようもない。それも1台ではすまない。たとえば両親が農業をし、若夫婦がそれぞれ町で働いているとなると、どうしても車は3台必要となる。
 ところがマスコミはこうした側面を報道しようとはしない。そしてこうした贅沢ができるのは農業が過保護だからだという。その典型例として食管制度、米価を取り上げる。そして、米があまっているのに毎年のように価格を引き上げ、消費者を苦しめていると宣伝した。

 毎年7月になると、米価審議会の会場となっている九段南の農水省三番町分庁舎前は米価引き上げを要求する農協や農民団体の代表に取り囲まれた。この騒然とした状況をテレビ、新聞の報道陣が大きく報道した。しかし農家の要求はなかなか通らない。そのうち、自民党の議員が国会内や農水省内でうろうろ動き、大臣と折衝して若干の引き上げで最終決定される。こうした場面が報道されて米価運動は終わる。
 こうして決まった米価をマスコミは「政治米価」だと称して批判した。たしかにそう見えた。密室での自民党内の駆け引きで決められるものだから、何かうさんくさく、政治が決めた米価と見えなくもなかったのである。そしてこの政治米価という言葉がくせ者だった。政治は汚いものというイメージが一般に定着している。その政治が決めた米価だからイコール汚い米価ということになってしまう。こういう考えをもたせてさらに追い打ちをかける。昔陸軍今農協といわれるくらい横暴な農協が理不尽な要求をつきつけ、本来引き下げるべき米価を政治力という汚い手を使って引き上げた、科学的算定方式(農水省の算定方式でしかないのだが)をねじ曲げた、こう言って農協を圧力団体として横車をおす悪役扱いしながら、もう一方でさきに言ったように「ノーキョーさん」とバカにする。そして農家は高い米を消費者に食わせ、食管赤字を増やしている、物価の王様の米価を上げるから物価が上昇するのだ、農家はけしからん、こう言って財界、一部の学者や評論家、マスコミがたたく。
 そして続ける、外国を見てみろ、そこの農産物価格はきわめて安い、それを輸入すれば消費者の家計は楽になるのに農家・農協は自分の利益をまもるために反対して農産物価格を引き上げている、農産物価格が物価上昇の元凶なのだと。さらには農産物の輸入を進めないから貿易摩擦が起こり、工業製品の輸出ができなくなって労働者の賃金は上がらないのだともいう。
 諸物価の上昇、それに応じて上がらない賃金に苦しんでいる都市の勤労者は、そうした宣伝が繰り返し耳に入れられるなかで何となくそう思ってしまう。

 なぜこうしたことを言うのだろうか。それを考えているとき、ふと思い出したことがあった。
 1957年か8年のことでなかったかと思う。ある週刊誌のグラビアに延々と続く炭住(炭鉱住宅=炭鉱で働く人々とその家族のために会社が建てた長屋)の写真が掲載された。そこにはテレビのアンテナが林立していた。テレビがまだかなり高価で、持っている家がそんなになかったころなのに軒並みアンテナが立っている。それを見ると、炭鉱労働者がいかに高い賃金をもらい、豊かな生活をしているかと思ってしまう。
 後で聞いたら、このテレビはエイクソテレビというのだそうである。あまりの労働の辛さと生活の厳しさにやけになり、「えいくそ、テレビでも買うか」ということで買ったものだという。
 ところが、週刊誌にはそんなことは一切書かれていない。だから読者は、これを見ると炭鉱労働者はあの高価なテレビを買えるほどいい暮らしをしている、いかに彼らは恵まれているか、炭労(日本炭鉱労働組合)の賃上げ要求はいかに一般市民の常識とかけ離れているかと思ってしまう。
 それから2、3年後のことであった。「エネルギー革命」と称して石炭の切り捨てが始まった。それにともなう大「合理化」に対して当然炭鉱労働者は抵抗した。その典型が三井三池炭鉱の争議であった。政財界は総力をあげ、右翼暴力団まで使って、抵抗運動を潰した。そしてそれをきっかけに日本の石炭、戦前の日本資本主義を支え、戦後復興を支えた石炭産業が壊滅することになった。
 マスコミによる炭労に対する反感の醸成はその前段だったのだろう。過酷な労働条件の改善や首切り反対で強力な闘争を展開してきた炭鉱労働者に対する世論の支持をさまざまな宣伝であおって失わせ、それを背景にして石炭つぶし、石油の輸入を、「エネルギー革命」と称してやろうとしたのではなかろうか。
 これと同じことが農業分野でも始められつつある。農家や農協に対する都市の勤労市民の反感をあおり、それを背景にして農産物輸入を「食生活革命」と称して進め、日本農業を潰そうとしている。そう思わせるような宣伝が70年代に入ってあらゆる側面から展開されるようになった。

 こうしたなかで、農産物の輸入自由化は着々と進められた。そのために農家がこれまで精力的に拡大に取り組んできた成長農産物の生産も縮小に向かうようになってきた。
 たとえば山間畑作地帯の希望の星の一つだったホップについていうと、78年頃からホップの増反は中止され、自然廃耕者の肩代わりも認められなくなった。山形県では強制減反の手段もとられている。また葉タバコも76年ころから減反が始まり、コストの高い小規模農家、小規模産地が切り捨てられるようになってきた。養蚕についていえば繭の価格が低下し、経営の成り立たない農家も出てきた。
 そうしたところに、78年から米の減反強化、80年からは4年続きの冷害が襲った。それは東北の農家すべてに大きな影響を及ぼしたが、とくに山間部に打撃を与えた。政治、社会からばかりでなく、自然からも見放されたのである。まさに農業・農村は四面楚歌という感じだった。
 こうして、せっかく開けた展望も閉ざされるのではないかと不安を感じさせながら、80年代は幕を開けたのである。

(註)
 このこと自体は喜ばしいことだった。しかしそれは農民大学などの自主的な学習運動を衰退させる一因となった。無料で、しかもすぐ近くで学習できるのだから、あえてお金を出して、時間をかけて農民大学などにいかなくともすむようになったからである。もちろんこうしたなかでも秋田農村問題研究会のように今もがんばっているところはあるが。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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