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第二次減反と農家の知恵―とも補償と集団転作―



               四面楚歌の農業・農村―80年前後―(2)

              ☆第二次減反と農家の知恵―とも補償と集団転作―

 「日照りに不作なし」という昔からの言葉がある。
 わが国には「湿田」、つまり「水はけが悪くて一年中湿っている水田」、したがって干ばつでもある程度の水が確保できる田んぼが多くあるので、何とか米はとれるということをこれは言っている。もちろん干ばつで収量はやはり落ちるし、それどころかまったくとれない田んぼもある。しかし、全体としてみると被害は冷害ほどではないのである。
 それなら、田んぼを全部湿田にしたらいいではないか。しかしそういうわけにはいかない。湿田だと、夏の地温が低く、酸素が不足して根の発達が抑えられ、倒伏や病害、生育遅延などで収量は低位不安定となるからである。さらに湿田では二毛作も難しい。裏作の畑作物は湿害に弱いからである。他にも作業がしにくい、畜力や機械が入りにくいという問題もある。だから明治以降用排水分離や暗渠排水などの土地改良による湿田の「乾田(排水が良くて水を入れないときは乾いている水田)」化を進め、水稲の単収向上と二毛作の拡大を図ってきたのだが、このことが改めて大きな問題として浮上してきたのは第二次減反からだった。

 1978(昭和53)年から米の減反がふたたび強化された。水田利用再編対策、いわゆる第二次減反が始まったのである。農家にはショックだった。70年の第一次減反のとき(註1)は、減反は一過性のもので、いずれはまたもとに戻り、今まで通り米をつくっていくことができるだろうと考えていた。だからちょっとの期間がまんすればいいのだと自分に言い聞かせて目標を達成した。実際に米余りは2~3年で解消し、減反割り当ても減らされ、さらには米の増産運動も復活し、農家はふたたび意欲をもって米づくりに取り組みつつあった(註2)。そこにまた減反なのである。しかも今度は単純休耕は認めない、他の作物を田んぼにつくれ、つまり転作をしろという。もちろんこのこと自体は正しい。何も作らないで田んぼを荒すなどというのはやはり間違いだし、そもそもわが国の食糧は不足しているからだ。しかし田んぼは畑作物のつくれない湿田がほとんどなのでそんなことは簡単にできない。しかも畑作物価格はきわめて低い。それでむらはふたたび大混乱におちいった。そして前と同じように、いや前よりも強く農家は抵抗した。だから目標達成は難しいだろうと考えられた。
 ところが、目標は達成された。しかも今回は全市町村で目標を達成した。第一次減反のときは未達成市町村があったのにである。
 なぜ減反に協力したのか。農家のほとんどは食管制度を守るためにやむを得ないからと答えた。このまま米過剰が続けば食管赤字がさらに多くなり、こんな食管はなくせという世論が高まって食管制度を廃止しなければならなくなるとの行政の説得が功を奏したのである。この説得には農家は弱かった。食管制度による一定水準の米価の保障が生産と生活を下支えしてきたのに、それがなくなったらどうなるか不安だったからである。
 もちろん、食管などなくともいい、人気品種のササニシキは必ず売れる、これで生きていける、減反などする必要がないという農家も宮城県などにはいた。しかし、ペナルティがあった。目標を達成しなければ、翌年度その未達成分をさらに目標に上積みするというペナルティを課すというのである。ということはその分だけ政府による米の買入が拒否されるということである。となると農家はいわゆるヤミで売らなければならなくなる。しかしいくらうまい米をつくって売ろうとしてもヤミでは限度がある。食管法違反で捕まる恐れもある。ましてやペナルティの積み重ねで政府売り渡しがまったくできなくなったらどうしようもない。またみんなが全量ヤミで売るようになったら完全に食管が崩れてしまい、米価が大幅に下がることになっては困る。それで協力しようということになったのである。

 しかし、行政から個々の農家に割り当てられた目標を達成するには解決しなければならない問題が多々あった。
 まず、湿田のように土地条件からして転作をしようにもできない田んぼがあることである。こうしたところに多くの田んぼをもっている農家は目標を達成できないことになる。また兼業化、高齢化などの労力条件から転作ができない農家もある。
 それなら条件のいい田んぼをもっている農家、また労力のある農家に頼んで転作目標を達成してもらえばいい。しかしそうすると頼まれて転作をする農家は損することになる。転作作物の価格は低いし、収量も低いのでいかに転作奨励金が入っても稲作所得よりも低くなるからである。これでは不平等である。そこで農家は、目標達成に向けて苦し紛れの知恵を発揮した。
 それが「相互補償」だった。減反できない農家が、減反を目標より多くやってもいい人に自分の減反目標を代わって達成してもらい、その代償として米をつくったのとほぼ同じ所得になるように転作奨励金に補償金を加えて支払う、それで集落全体の目標を達成することにしたのである。このやり方の萌芽といえるものは第一次減反において生まれていたのだが、お互いに助け合って、補償し合って目標を達成しようと言うことから相互補償と名前がつけれられ、さらにそれが集落ぐるみとか農協管内、市町村管内全体の合意にもとづいて組織的になされる場合には「互助制度」と呼ばれるようになった。
 ところで、この相互補償は後に「とも補償」とも呼ばれるようになってきた。どこの誰がそう名付けたのかわからないが、この名前は漁業からとったものである。
 ちょうどこのころ二百海里水域設定が世界的に大きな問題になり、1977年にはそれに対応して北洋漁業で操業する漁船隻数を削減(=減船)しなければならなくなった。政府はこれで減船する漁業者に対し、その経済的な犠牲を補償するために交付金を出すことにした。しかし、それですべて補償できるわけではない。そこでそれに加えて、減船しなかった漁業者(残存漁業者)が補償金を支払うことにした。つまり減船・残存漁業者がともに犠牲を負うことで減船が円滑に進むようにしたのである。これをとも補償制度と呼んだのであるが、これは減反における相互補償とそっくりである。しかもこのとも補償という名称はことの本質を的確に表している。「お互いに助け合う」、それでみんなが利益を得るというよりは、「ともに犠牲を負う」、みんなで損することでみんなの身を守る仕組みなのである。こうしたことからではなかったろうか、いつの頃からか「とも補償」という言葉が減反で普通に使われるようになったのだが、このとも補償という農家の知恵が目標を達成させた大きな要因となった。
 とくに東北がそうだった。東北の農協の約50%で互助制度が成立した(78年)のに対し、全国では15%でしかなかったことからもそれがわかろう。
 といっても、この互助制度は一律のものではなかった。地域によって補償金の計算方法、支払額、受取額、補償金拠出農家、受け取り農家等がさまざまで、何とかいくつかにタイプ分けはできても、一つとして同じものがないといってよかった。また、どうしてこういう複雑な計算になるのか、私などにはなかなか理解できないものもあった。しかし、集落の人たちはわかっている。そして納得している。われわれの理解力をこえる集落の知恵、合意形成の知恵なのであろう。感心するより他なかった。
 地域の土地条件を始めとするさまざまな諸条件、農家の話し合いの経過、行政・普及・農協等の関与の程度、集落のリーダーの能力や資質等々、一つとして同じものがない集落の自然的経済的社会的歴史的人的諸条件により、とも補償の仕組み・内容が異なったのである。またそうした諸条件によって互助制度が成立せず、青刈り(飼料にするという名目である程度育った稲を刈り取る)や荒らし作り(転作作物の種だけ播いて転作したことにし、管理もせず放置しておく)などの不毛の転作で目標を達成した地域もあった。人間にそれぞれ性格の違いがあるように、むらにも性格の違いがあるということを感じさせるものであった。
 また、機械化、化学化、兼業化の進展のなかでむらは解体したと言われるようになっていたが、何とまだまだ生きているということも感じさせた。そしてこのむらの仕組みが目標を達成させる大きな一因となった。こうした重要な事態にむらが直面するとむら規制が復活し、目標を達成させるのである。これについては本稿の第一次減反のところで述べたことだが、後にまた述べるように、これを県や市町村行政は利用した。

 さて、次に問題となるのは、個々バラバラに転作していては、つまりいわゆるバラ転では湿害等で転作作物=畑作物が育たないということである。また湿田で転作が困難な水田もある。そうなると、転作田を転作に適する土地条件をもつ場所にまとめるか、ある地域の用水を完全に遮断してその場所を転作用地とするかしかなくなる。問題はその場所にみんなが平等に土地をもっているわけではないことである。そうするとある農家は目標よりも多く転作せざるを得ず、ある農家は少なくてすむという不平等が生まれる。この不平等をなくすために生まれた知恵がブロックローテーションだった。集落の水田をいくつかのブロック(区画)に分け、転作を実施するブロックを毎年もしくは何年かごとに変え、何年間かのうちにすべてのブロックで転作がなされるようにする、つまり転作がブロックをローテーション(循環)するようにし、最終的にみんな平等に転作するという方式を考え出したのである。
 バラ転のもう一つの問題は、麦や大豆等の転作作物に関しては10㌃や20㌃個々ばらばらに栽培すると機械化に対応できず、効率があがらないことである。そこで取り入れられたのが「集団転作」だった。集落ぐるみの話合いと合意により転作作物の作付の団地化を図り、その栽培を集落が中心になって行うことにしたのである。この集団転作も地域によりかなり異なる。機械・施設をむらで共同所有し、集落ぐるみ出役で行う場合、何戸かの専業農家が機械のオペレーターを請け負い、日常管理は全員出役で行う場合、全作業を専業農家グループにまかせる場合等々さまざまな形態があり、それによってカネの出し入れの仕方も異なった。これも集落の知恵ということができる。
 これらの知恵は減反目標達成という上からの押しつけに対応してやむを得ず生みだしたものだったが、そのなかにはこれからの水田農業のあり方、稲作地帯における土地利用のあり方、つまり新しい生産力段階に対応した集団的土地利用の形成の方向を示唆するものがあった。農家は転んでもただでは起きず、新しい土地利用の方向を探り当てたのである。
 しかし、転作作物をつくれない、つくっても湿害で収量が低い湿田が多いということはやはりこうした新しい土地利用のあり方を阻害する一因となった。もちろん外国からの低価格での農産物輸入が阻害の最大の原因だったのだが。

(註)
1.11年6月13日掲載・本稿第一部「☆減反への抵抗と行政の圧力」、
  11年6月15日掲載・  同 上  「☆減反目標の達成」参照
2.11年6月17日掲載・  同 上 「☆増収意欲の復活とうまい米づくり」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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