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転作麦・豆とソバの花―農業技術・研究の継承・継続―



               四面楚歌の農業・農村―80年前後―(3)

           ☆転作麦・豆とソバの花―農業技術・研究の継承・継続―

 第二次減反は農家にまた農村にさまざまな苦労を強いたのであるが、ともかく転作で田んぼに米以外の多様な作物が栽培されるようになった。とくに麦・大豆・飼料作物が見られるようになった。1972、73年の世界的食糧危機、輸入穀物等の価格暴騰、アメリカの大豆輸出禁止措置を契機にこれまでの減反政策が見直され、麦・大豆・飼料作物は特定作物としてその作付けを推奨するようになったからである。
 このこと自体は望ましいことである。ましてやわが国では不足している農産物は多々ある。しかもその需要は伸びている。麦、大豆、飼料作物等が典型例である。また、野菜、果実、畜産等にも新しい需要が出てきている。こうした作目部門の生産に水田を使えばいい。
 そして水田の機能を活かしつつ、米を始めとする多様な作目部門を導入して稲作生産力ばかりでなく水田生産力を高め、経営の発展、地域農業の発展を図ると同時に食料自給率を向上させていく。
 このように米の過剰は、とりわけ自給率のきわめて低い麦、大豆、飼料作物の増産を図るチャンス、土地利用型複合経営確立のチャンスであった。そして新しい作付け体系、輪作・輪換体系の確立のチャンスでもあった。また通年施工で湿田を汎用化水田つまり畑作物もつくれるような水田に整備し、作物作付けの自由度を向上させることもできるようになったはずであった。
 しかし、政府は当初そうしようとはしなかった。第一次減反では、転作も一応勧めはしたが、実際には田んぼは荒らしてもいいからともかく米はつくるなというだけだった。単なる米余りととらえ、食管赤字のことだけを問題とし、単純休耕を勧めたのである。また、当時通年施行でなされた基盤整備は稲作の省力化、そのための大型区画化だけが目的で、汎用化水田に改良することを目的としていなかった。こうしたことが第二次減反の混乱に拍車をかけた。
 さらに問題なのは転作作物の価格である。以前よりは高くなっているとはいえやはり低い。これでは土地利用型複合経営はできず、若者も農業をやろうとはしない。
 もちろん低価格は反収の高さで補う道がある。ところが稲作と違ってその技術は低く、反収はあがらない。宮城県古川市(現・大崎市)のある集落に行ったとき、転作大豆の葉や幹は見事に青々と茂っていたが、ろくに実はならなかった。麦にしても同じようなものだった。技術が低いどころか作り方すらわからないのである。
 かつてはそんなことはなかった。少なくとも50年代前半までは、その面積の大小に差はあれ、ほとんどの農家が麦、大豆を栽培していたからだ。しかし、50年代後半にはほとんどやめてしまった。
 それから20年も過ぎて、改めて麦、大豆をつくろうと思っても、20歳代はもちろん40歳代も作り方がわからない。50歳代以上は栽培の経験はあるがうろ覚えになっている。技術が身に染みつく前にやめてしまっているからである。若者のなかには麦を生まれて初めて見るものすらいた。先にも述べたが、当時の学生に麦を見たことがないというものがいた(註)。農家出身でありながらである。当然、都市出身者などはわかるわけはない。
 ある村にいったときこんな話を聞いた。農水省の若いキャリアが転作の視察に来たのでソバの転作田を見せた。初めてソバの花を見たそのキャリアは感激して言った。
 「きれいなものですね」
 ここまではよかった。続けてこう言った。
 「来年は『うどんの花』を見たいですね」
 冗談で言ったのか、本気で言ったのか、一瞬みんなで彼の顔を見たという。
 麦とうどんの関係もわからないほど麦栽培は国内で縁遠くなっていたのである。
 20年にわたって技術、技能の継承がなされてこなかったことがこの結果だった。このことは、農業の場合、一度生産が途切れるとその復活は容易ではないことを教えるものである。当然のことながら、この間地域に適した技術の開発もなされてこなかった。これがまた低収量をもたらす。
 そこで必要となるのが普及所による栽培技術の指導である。しかし普及員だって忘れているし、若い普及員などはまったく知らない。それなら県の農業試験場が普及員を指導すればいい。ところがその試験場もほとんど麦、大豆の試験研究はやっていない。
 国立の農業試験場も同様であった。たとえば、麦の栽培の研究室は中国農試に一つ、研究員は4人だけにされてしまっていた。麦作が畑作の一つの中心をなしていた北海道農試の研究室すら廃止された。これでは世界に誇ったわが国の麦作技術、その研究の発展どころか、継承すら十分にできない。一定の研究蓄積のもとに新たな発展があり得るのだが、その蓄積が途切れさせられたのである。
 さすがに政府も世界的食糧危機、転作対応のために70年代後半から麦、大豆の試験研究にも力を入れるようになった。しかし、20年間のブランクは大きかった。もしも研究が継続されていたら、もっと事態にきちんと対処でき、現在よりも技術は発展していたのではなかろうか。
 このことは研究の継続、継承、蓄積の重要性、試験・研究機関の重要性を教えるものである。経済的に引き合わなければ農家が栽培をやめてしまうのはやむを得ないが、経済性を考えなくともいい国公立の大学、試験研究機関はそれができるのである。
 ところがそれは容易ではなくなっている。さきにも述べたが、最近の政財界は、大学や試験研究機関にいますぐ役にたつ研究をすることを要求しているからである。そしてそういうところだけを重視し、基礎研究や継承・継続のための研究などいま目立たない研究にかかわる人員や研究費を減らそうとする。もしも科学技術立国をいうならばこれは大きな誤りである。もちろん、学問の発展や社会の要請に対応して新しい学問分野を創出することが重要であることはいうまでもない。それをスクラップアンドビルドでやろうとしていることに問題があるのである。

 ついでと言っては何だが、もう少し脇道をさせてもらおう。
 この転作で津軽のある地域の農家がソバを栽培した。ソバは大冷害の年でもとれるつくりやすい作物だと聞いていたからである。ところが、収穫時期だというのにまだ花が咲いている。実もついてはいるが、未熟のものもある。熟した実のなかには下に落ちているものもある。同じ日に植えたにもかかわらず、同じ一本のソバであるにもかかわらずである。結局ろくな収量はとれなかった。
 それで普及員の方は言う、「転作ソバはヤマブキだった」と。「(七重八重)花は咲けども(山吹の)実の一つだになきぞ悲しき」だったのである。
 このソバにくらべると、稲というのはすごい作物である。同じ日に同じ土地に植えたものは、どの稲も一斉に花が咲き、実を付け、ほとんどすべての実がほぼ同時に熟し、脱粒も少ないのである。したがって人間はその熟した時期をねらって刈り取ればむだなく収穫することができる。人間もたいしたものである。そもそも野生の稲はそうした性格をもっているのであるが、ここまで斉一化したのは人間が稲を改良してきたからである。
 それにひきかえ、ソバはマイナー作物である。ソバの研究などは十分になされてこなかった。それが収量の低さの問題を引き起こしているのではなかろうか。
 もちろん研究の立ち後れだけがその原因ではないかもしれない。そもそもソバは稲などと違って開花や結実が一斉になされる作物ではないので、未熟や過熟の実があってどうしても収量が低くなってしまうのではなかろうか。
 とはいうものの、本当にそれをソバの作物としての短所としていいのかというと問題がある。実はそれが長所かもしれないからである。
 稲のように、開花・結実が斉一であると、たまたまその時期に異常低温が来たりすると収穫皆無となってしまう。これに対して、ソバは少しずつ開花するので、たまたま異常低温にぶつかったときの花は結実しないかもしれないが、その前後に開花したものは結実する。つまり収穫皆無とはならない。ここにソバの生きる知恵があるのではなかろうか。そしてこれがソバが冷害に強い作物、救荒作物と言われてきた一因となったのではなかろうか。
 それなら稲はだめな作物なのか。そうではない。米はおいしい。鳥や虫のかっこうの食べ物である。もしもソバのように少しずつ開花し、これまた少しずつ稔っていたら、種実は全部食べられてしまい、子孫は残せなくなってしまう。一斉に開花すれば大量に結実するので、いくら鳥や虫が大食いでもすべて食い尽くせない。それで稲の子孫は残る。ここに稲の知恵があるのではなかろうか。
 なお、ソバは気象変動に、稲は鳥虫害に強いなどというのは私が勝手に想像したことで科学的な根拠などない。
 ここで言いたいのは作物の性格の相違、一長一短を利用して人間は農業をいとなみ、食料などを確保して生きてきたのだということである。違った性格をもつ多様な作目・部門を導入した経営、いわゆる複合経営を農家がいとなんできたのもそうした知恵の一つだったといえよう。
 ところが60年代以降、農家は一作目・一部門に専作化するようになってきた。水稲単作化などはその典型例だった。さらには、一品種のみに集中するようにさえなってきた。宮城県の場合には作付面積の9割がササニシキという異常な状態すら現れた。山形、福島、秋田・岩手県南でもササニシキに集中するようになった。このように稲の栽培技術がササニシキの栽培技術に単純化された。このことが、80年からの4年続きの冷害を増幅させることになった。

(註)
 11年5月18日掲載・本稿第二部「☆消えた麦畑、菜の花畑」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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