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80年冷害―マイクロバス・機械・銘柄冷害―


               四面楚歌の農業・農村―80年前後―(4)

              ☆80年冷害―マイクロバス・機械・銘柄冷害―

 1980(昭和55)年、東北は厳しい冷害に襲われた。76年にもその予兆を思わせるような冷害はあったけれどもそれほどひどくなく、したがってこうした冷害は1954年以来、四半世紀ぶりだったということができる。しかもそれは83年まで続いた(後の3年は80年ほどの減収ではなかったが)。
 81年の秋ではなかったろうか、宮城県の稲作農家の方と酒を飲みかわしているとき、ある方が私に言った。
 「奥羽山脈を太平洋岸ぎりぎりまで移動させよう」
 奥羽山脈の東側つまり太平洋岸はやませによる異常低温でひどい被害を受けたのに、西側つまり日本海側はあまり冷害を受けなかったからである。
 たしかに農家の方の言うとおりである。奥羽山脈を太平洋ぎりぎりまで移せばやませはそれで止められるので被害は少なくなるはずである。
 私も飲んだ勢いで答える。
 「それはいい考えだ」
 そしてその後に付け加える。、
 「ただし、かわりに冬は豪雪に閉じこめられることになるよ」
 「そう言えばそうだな」
 おたがいに顔を見合わせて笑う。
 こんな冗談話が出るくらい太平洋側の冷害はひどかった。もちろん日本海側もてひどくやられた。山形・秋田の平坦部が太平洋岸や山間部よりも若干いいというだけだった。
 80年8月末、新聞で冷害が大きく取り上げ始められた頃、政府系農業金融機関の青森支店に転勤していた先輩のHYさんから「冷害を見に来い」という電話が来た。76年冷害で見たことがあると言うと「そんなものではない、ともかく見に来い、こんな景色はめったに見られない、こういう言い方をしてどうかとは思うが」としつこく勧める。行ってみた。青森の南部で一面青立ちの田んぼが延々と広がるのを生まれて初めて見た。一瞬言葉が出なかった。胸がつまった。知らないうちに涙で頬がぬれていた。私はやはり農民だった。
 この年ほどひどくはなかったが、それから4年間、83年まで冷害は続いた。当然のことながら米を経営の中心にしてきた東北の農家に大きな衝撃を与えた。
 しかし、かつての冷害とは様相が違っていた。

 かつて農家は「サムサノナツハオロオロアル」いた。自給自足段階、農業しか就業機会がなかった時代には、米がとれなければ食えなくなるので、一粒でもよけいにとろうと田んぼをかけずりまわったのである。また米価水準が労賃水準より大幅に高かったので、労働を追加投下して収量を確保することを考えた。それでもどうしようもなければ文字通りおろおろ歩くより他なかった。
 ところが時代は違ってしまった。多くの農家は田んぼをかけずりまわらなかった。田んぼのまわりをおろおろ歩きもしなかった。兼業所得があるからである。
 もちろん経済的な打撃がなかったわけではない。北に行けば行くほど、標高が高くなればなるほどそうだった。青森のある農家はいう。
 「昔の飢饉は死人が出た、身売りがあった、今の飢饉はそんなことはないが、借金が増える」
 そして付け加える。
 「76年冷害の借金も返していない状況のもとではなおさらだ」
 たしかにいわゆる身売りはなくなった。しかし借金を返すための出稼ぎという形での短期身売りが増えた。
 たしかに餓死者は出なかった。しかし、出稼ぎでのマンホール工事等の危険な作業でけがをしたり、病気をしたりして死んで戻ってこないものが増えた。今回の冷害は以前と違った形で死人を出したのである。
 そうした問題はあってもかつてのようなことはなかった。ともかく食っては行けた。
 ただし北海道の場合はそうはいかなかった。兼業機会のない北海道では冷害=所得低下=生活難だった。しかもこれまでの多額の借金がある。離農せざるを得なくなった。そこで行政は、農地流動化のためには「冷害は天の助け」とばかりに、開拓農家の離農促進を図った。
 しかし東北は違った。たとえば81年の宮城県の場合などは冷害であるにもかかわらず農家総所得は落ち込まなかった。兼業所得の増加が稲作所得の低下を補ったのである。
 このことは一面から言うと喜ばしいことである。かつてと違って冷害でもともかく農家は食べていけるようになったことを示すものだからである。
 しかし、何とか米をとろうと大騒ぎしなかったことに稲作の将来に不安を感じさせるものがあった。米価水準の低さがおろおろ歩くだけの意欲を失わせたのであるが、農家の生産意欲がここまで落ちこんでいいのだろうかと疑問を感じさせたのである。
 さらに問題なのは、おろおろ歩こうにも歩く人がもういなかったということである。労力流出が冷害対応の集約的肥培管理を困難にし、それが被害を増幅させたのである。
 たとえば、稲刈りを後らせて登熟をよくし、少しでも収量を上げることが考えられるが、早く出稼ぎにいかないと安全操業の働き場所に行けないのでそうするわけにもいかない。また、深水を始めとする水管理が重要だとわかっていても、朝早くマイクロバスに乗って土建の現場に行き、夜遅く帰って来るのでやれないということもある。そもそも朝晩農業、休日農業では、稲の生理生態、気象変化にあわせた労働などできるわけがない。自ら考えて農作業をやるなどということもできない。しかしそれでも平年時には大丈夫だった。農協や普及所の発行する稲作暦にしたがって作業すれば何とか穫れるからだ。稲作に関するある程度の知識と経験さえあれば一目でわかるようにカレンダーにいつごろ何をどうやるか書いてあるし、しかもそれにはその地域で考えられる最高水準の技術がまとめられているので、その通りにやれば誰でも穫れる。それでこのカレンダーは土日百姓、兼業化を可能にする一つの支えとなった。しかしこのカレンダーは平年に合わせてある。したがって異常年には対応できず、大幅に減収することになる。「カレンダー稲作」、「暦稲作」は農家を技術者・職人から単純労働者に変え、それが被害を増幅させたといえるかもしれない。それでもカレンダーにしたがって作業するものはまだいい。カレンダーにもしたがわない、というよりしたがえない農家もいた。兼業の都合に作業を合わせざるを得ず、省力稲作どころか省略稲作にせざるを得ず、その結果被害が増幅されるということもあったのである。
 この兼業に加えて、機械化が冷害に対応する適期作業を困難にし、被害を増幅させたこともあった。出穂がおそくならないように深水をしたい、水を切りたくないと思っても、落水を早めないと自脱コンバインが圃場に入れないのでスケジュール通り落水し、後半の登熟がうまくいかず減収したなどはその典型例であった。機械の効率的利用と土地の効率的利用=増収との矛盾が、異常気象を契機に表面化したということができるであろう。こうしたことは多々あった。70年代は機械化段階に入った年代、つまり技術の転換期にあったのだが、機械化に対応した耐冷増収技術がまだ十分に開発されておらず、それが被害を増幅したのである。
 このように80年冷害は「マイクロバス(兼業)と機械」に支えられていとなまれる稲作の問題点を浮き彫りにしたのだが、もう一ついわゆる「うまい米」への集中の問題点も浮き彫りにした。
 さきにも触れたように東北南部の作付品種はササニシキに集中した。これは74年から始まった自主流通米制度の開始のころから始まるのであるが、品種により米価に格差がつけられるようになるなかで、うまい米でないと売れなくなる、産地間競争に負けて生き延びていけなくなるという不安感のなかで、銘柄品種の作付が急増するようになったのである。宮城の平坦部などではほぼ全面積でコシヒカリと並ぶ(当時はそれ以上の)人気品種のササニシキが作付されるようになった。こんなことはかつてはなかった。冷害を始めとする気象変動に対応して危険分散ができるように、また労力の分散ができるように、早中晩を始めとするさまざまな性格をもつ品種を組み合わせたものだった(もちろん小面積でこうしたことのできない経営もあったが)。
 さらに「ササニシキの山登り」と言われたように不適地と言われる山間部でも栽培されるようになった。
 しかしササニシキは耐冷性が弱い。当然大きな被害を受けた。たまたま低温時期とササニシキの出穂時期が直接ぶつからなかったために平坦部ではそれほどの被害とはならなかったが、やはり減収は免れず、82年の場合にはかなりの被害を受けている。
 東北北部でも銘柄米集中は被害を増幅させた。青森南部のある農家がいっていた、「レイメイをつくっていたら少なくとも飯米くらいは確保できたかもしれない」と。ところがこのかつて耐冷性品種として一世を風靡したレイメイはほとんど見られなくなっていた。そして良質米として推奨されたアキヒカリにほぼ全面的に切り替えられていた。その結果が収穫皆無だったのである。
 これまでは一貫して安定多収を追求してきた。そうなると冷害対応のための適地適品種、危険分散のためのいくつかの品種の組み合わせを考えるはずである。しかし銘柄米追求はそれを忘れさせ、冷害を増幅させた。
 このように80年代冷害は、政治経済によって引き起こされた「銘柄冷害」であり、また「マイクロバス冷害」だったのである。

 しかし、技術の側にも問題があった。うまくて冷害にも強い品種、機械化段階に対応した耐冷技術、多様化した農家がそれぞれの条件に応じて冷害に対応していける技術の開発が十分になされていないことにも問題があった。
 もっと問題なのは、技術者が冷害をかつてのように深刻に考えなくなっていたことである。たとえば宮城県の稲作研究のある指導者は、次のように言ってササニシキ一本槍にすることにとくに異議を唱えなかった。宮城平坦部ではササニシキのような中晩生品種で問題はない、田植えの適期さえまもれば障害型・遅延型冷害ともに回避できる、今まで冷害回避にいいと勧められてきた早生は7月低温による障害不稔に引っかかる危険性があるからかえってだめなのだと。
 たしかにそれでとくに問題はなかった。現に四半世紀にわたって大きな冷害がなかった。しかしそれは耐冷技術が進歩したからでは必ずしもなかった。もちろん保護苗代の導入などの技術進歩が冷害回避に大きな役割を果たしてきた。しかし、冷害が起きなかったのはこの期間比較的高温に推移したこと、とくに春の高温に恵まれたことによるところが大きかった。ところが技術者はそうは考えなかった。もはや冷害は克服された、耐冷技術はかなり進んでいるから大丈夫だという感覚をもってしまった。これを技術者のおごりたかぶりと言うのは酷かもしれないが、そうした側面がなかったとはいえないであろう。
 そこで、ある県の試験場にいる技術者の一人にこう質問した、80年冷害は技術の立ち後れに一因があったのではないかと。するとこういう返事が返ってきた。
 「80年のような異常気象は百年に一度のことだ、だから減収はしかたのないことであり、技術に責任があるというのはまちがっている、そもそも技術はこうした例外的なことを問題にする必要はないのだ」
 それを聞いたときにはカッときた。百年に一度だからしかたがないのだなどと言っていいのか。たとえ千年に一度のことであってもそうした異常気象に対応するための研究を進める必要があるのではなかろうか。例外的だと思われることのなかに、少数の事例のなかに新しい萌芽を見つけていくことに科学者の洞察力が試されるということもあるからである。しかも、百年に一度というと何となく確率が低いように思えるが、百に一つというのは自然界においては確率的にきわめて高く、いつ起きても不思議ではない(現に1993年には80年以上の冷害が起きている)ので、ましてやそれに対処する研究を進めなければならない。それなしでは科学技術の飛躍的進歩はないのではないか。だから、こんなことを言うのは、技術者としての、科学者としての保身、堕落、頽廃でしかない。現段階では不可能と思えることを可能にしよう、そのための法則性を探求しようと努力するのが科学者ではなかろうか。こうした努力を農業開始以来人間が続けてきたから今があるのである。
 もちろんこんな学者、技術者ばかりではない。たとえば宮城県古川農試のように80年冷害に学んでうまくてしかも耐冷性のある品種の開発に取り組んだ研究者がいた。そしてそれが93年の異常低温による被害を軽減させたのである。これについてはまた後に述べる。

(註) 次回掲載は19日(金)とさせていただく。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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