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困難だった米単作からの脱却


               農業の複合化への取り組みとその困難(3)

                 ☆困難だった米単作からの脱却

 新たな段階での経営の複合化の必要性を私も強く説いた。とくに米どころでは米単作からの脱却を強調した。
 すると農家のほとんどはまったくその通りだと賛同した。しかしなかなかやろうとはしない。とくに土地を利用した複合化はやろうとしない。低価格の麦、大豆をつくるよりは休んで減反奨励金をもらった方がいい、また米余りも一時的なものでそのうちまた米をつくれるようになる、こう考えていたので水田を利用した複合化などは考えなかったのである。とくに宮城、秋田の米どころの農家がそうだった。
 80年頃だったと思うが、宮城県小牛田町(現・美里町)の農協青年部の方と話し合ったとき、多くの青年が「おれたちの地域は米しかつくれない、だから生産調整に反対だ」と言う。そこで私は言った。農業というものは稲作だけではない、「稲しかつくれない」などというのは農業者としては落第ではないかと。もちろん土地条件からして米しかつくれない土地もあるだろう。しかしすべてがそうした土地ではないはずである。団地化すれば他作物を導入できるところもあるだろうし、できるように基盤整備、汎用化水田化を進めていくべきではないか。そうした努力もしないで生産調整反対などというのは負け犬の遠吠えではないか。米以外の作物に取り組む能力がない、農業者としての能力がない、それを隠すために能力がないんじゃないぞ、生産調整を強要する政府が悪いんだぞとかっこつけて遠吠えしているだけではないかと。
 そういうと、そんなこといってもつくるものがないという。ないんじゃなくって探す努力をしないだけではないか。野菜だって花だってあるではないか。そういうと、今度は価格が不安定だという。農協がやれというからやってみたら価格が暴落したことがある、何をやってもだめだともいう。
 宮城県北の豊里町(現・登米市)に言ったときの話である。農協がサヤインゲンをやろうと勧めた。ところが、その収穫時期が稲刈りとぶつかったため、できた品物が悪く、しかも時期をはずれてしまってきわめて安くしか売れなかった。そしたら農家はやはりだめだったということで一年であきらめてしまい、その後はもう臆病になって野菜をやろうとしなくなった。
 しかし、わずか一年でうまくいくなどということはよほどの偶然でもなければない。農業技術の習熟、市場の確保にはそもそも時間がかかるものだからである。価格は、その年暴落しても次の年に暴騰するかもしれず、長期的に平均して考えなければならない。園芸農家などは3年に一度儲ければいいくらいの覚悟をしている。その覚悟もできないなら価格保障制度を自治体や農協につくらせればいい。
 そういうとまた反論される。大市場からの遠隔地という不利な条件があると。それなら沖縄はどうなるのか。船と飛行機しかないのだ。冬がないからいいではないかといっても、沖縄の夏は東北の冬と同じで、野菜などはニガウリしかつくれない。気象条件を言うのは逃げ道でしかない。
 もちろん園芸作物の技術を習得するのは大変だ。園芸作物は稲のような生命力がなく、ちょっとでも手を抜くと収穫皆無になるので、かなりの神経を使うし、きめの細かいしかも毎日の多種多様の労働が要求される。ところが、米しかやって来なかったこと、しかも開田ブームのときに若干の畑地もなくなり、畑作の経験も薄れてきていることからそうした園芸的感覚は薄れてきている。しかも価格変動が大きいこと、市場開拓をしなければならないことにも抵抗感がある。販売する心配のない米だけをつくってきたからだ。また毎日わずかな日銭しか稼げないので儲かったという感じがない。一挙に出来秋にどかっとカネが入るのに慣れているので、こつこつと貯めていくということに慣れていない。だから尻込みしてしまう。それを押し切ってやると失敗もするし、苦労もある。
 しかし失敗は成功のもと、それをいかに克服し、技術力・販売力をつけていくか、いかに勇気をもって取り組むかが課題となる。「あきらめと臆病からの脱却」こそ必要なのである。
 もちろん、麦・豆・飼料作物をつくっても引き合わなくさせ、農畜産物の輸入を推進している政治を変えることなしには経営の複合化がうまく進むわけはない。その変革に取り組みながら、経営内で、地域内で米単作からの脱却に努力していくことが必要なのではなかろうか。

 講演や座談会などでこういう話をすると、まったくその通りだとほとんどの農家の方が納得する。とくに秋田、宮城の県北の反応がいい。理解力があるし、話すこともきわめていい。後は実践だけだ。
 ところが、秋田の場合は酒がその実践を妨げる。講演などを聴いて、そうだ、その通りだなどと感激すると、その決意を胸にみんなと帰りに一杯飲みはじめる。言うまでもなく秋田の人は酒が強い。相当量いくものだからやはり酔っぱらってくる。そのうち何で飲み始めたのかも忘れてしまう。やがて翌朝、二日酔いの頭を押さえながら起きてきたときには、前の日のことは完全に忘れている。それで複合化は進まないのだ。こう冗談をいうと、その通りだと秋田の人はみんな大笑いする。
 それでは宮城はどうかということになるが、宮城の青年の話は秋田以上に理路整然としている。政治に対しても非常にいいことをいう。しかし、何かしらっとしているというか、斜(はす)にかまえているというか、そんな感じを抱かせる。まともにぶつかるという感じがしない。だからよく彼らにいった。評論家はちょっと斜めから見て批評することを仕事としているが、あなたたちはその評論家ではないかと。
 そのうち、宮城県に「おか百姓」という言葉があることを知った。「田んぼ=水の中に入らず、陸(おか)=畦に立って田んぼや稲のことをいろいろという人」、つまり実践しないでいろいろと評論する人のことを言うのだそうである。なるほどいい言葉だと感心した。この言葉があるということは、自らの地域の人々の性格が自覚されているということなのだろう。
 初めてこの「おか百姓」という言葉を聞いたとき、私が宮城の青年を「評論家」と何となく感じていたのはまちがいではなかったと思わず笑ってしまった。そして宮城県が米単作から抜け出せない、複合化に進もうとしないのは、この「おか百姓」の性格が一因となったのではないかと納得したものだった。
 もちろん、複合化にまったく取り組まなかったなどというつもりはない。現に秋田の横手・湯沢周辺では果樹・野菜を取り入れて成功をおさめているところがあるし、宮城でも亘理を始めとしていろんなところで土地を利用した複合経営化に取り組み、産地を形成しているところもある。
 しかし、そんな苦労をしなくとも日稼ぎに行けば簡単にカネが入るということで、米+土建日雇いで生計を維持しようとする農家が大多数だった。普及員の中にはこうした農家を公務員と呼ぶ人もいた。米は政府が価格を保証してくれる、つまり政府が給料を保証してくれるのだから米づくりは「準公務員」だ、土建日雇いは「青空工務員」、両方合わせると「公務員」となるというのである。こうした親の姿を見ている子どもたちはこんな農業を継ごうなどとは考えなくなる。そして安定高賃金の都会へと流出するようになる。かくして米単作地帯ほど後継者不足が深刻になるのである。

 また、農協のなかにも複合化にまともに取り組まないところもあった。「米にあぐらをかいている農協」とよく言われたが、そうとしか言いようのない農協もかなりあった。もちろん米の取り扱いだけでは米価の低迷と諸物価上昇のもとで農協の経営は苦しくなる。そこで力を入れたのが農業関連以外の諸事業だった。農家が農外所得を得ようとしたのと同様に、農協も農外事業で経営を成り立たせようとしたのである。
 とくに力を入れたのが、生活資材の購買事業であり、貯金・共済(保険)の信用事業だった。職員にノルマを課してその目標達成を半ば強要した。営農指導員まで呉服、宝石、電気製品売りに歩かされた。とくに共済加入推進が激しかった。農家はもうたくさんと言われるくらい共済に入っているので断る。これに対して職員は、「おどして、すかして、泣き落として」、「おしつけ、うそつき、ごまかして」入ってもらう。そして家計や必要性を考えずに共済大口に入れ、それを払うために借金させ、大口加入者招待で海外旅行などに連れて行き、またそこで金を使わせて借金させる。これでは農家はたまったものではない。だから農家は共済推進の時期になると職員と顔を合わさないように逃げて歩く。すると夜中に家を訪ねてくる。そこで夜に車の音が外ですると家族が一斉に家中の電灯を消して寝たふりをする。さらには「物売りお断り」の札と並べて「共済推進お断り」の札を玄関に貼る。こんな農協職員と農家組合員との関係でいいのだろうか。これで農業が発展するわけなどない。

 こんな共済推進に使うエネルギーがあるならば、それを農業の発展に使った方がいいのではなかろうか。
 その点でおもしろかったのは、宮城県亘理町の逢隈農協の取り組んだ「パイプ推進」だった。ここは冬期間温暖な気候に恵まれ、仙台市場も近いことから、野菜等の園芸作物に適している。しかし、逆に仙台市が近いことからみんな兼業に行き、米+兼業地帯となっていた。そこで農協が始めたのは、パイプハウスの導入を推進することで兼業農家を専業にもどそうという活動である。しかし、一般的に呼びかけただけでは戻るわけはない。日稼ぎに行った方が楽だし、失敗の危険もないからである。こうした農家を説得しなければならない。共済推進でやったように、何度も農家を訪ね、時間をかけて説得する必要があるのではなかろうか。あんな共済推進でいやな思いをするのに比べたら楽なものではないか。そこで営農指導員が既存の園芸農家といっしょに兼業農家を回って歩いた。パイプハウスは園芸組合が所有してリースするので資金の心配はない、補助事業でやるのでリース代金も安い、技術については営農指導員が徹底して指導するし、仲間の農家がさまざまな形で援助してくれるので心配ない、兼業をやめてハウスをやろうと何回も何回も口説いた。その説得に応じてバイブハウスを建てる農家がでてきた。その結果、激減していた専業農家が2倍に増え、イチゴ、果菜、軟弱野菜、花き等の生産が急速に発展し、畜産農家とも連携しながら、野菜・花の産地として確立したのである。
 しかし、こうした農協は少なかった。米単作からの脱却は容易ではなかった。もちろんそうさせた根本原因は農畜産物の輸入で米以外の作目部門の導入を困難にした政治にある。
 だから、米単作がだめだと「わかっちゃいるけど やめられねえ」だったのである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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