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農林水産・加工の地域内再結合



               農業の複合化への取り組みとその困難(4)

                ☆農林水産・加工の地域内再結合

 1983年、宮城県のある農業賞の選考委員会に歌津町泊浜麦作組合が推薦されてきた。歌津町(現・南三陸町)はリアス式海岸で有名な三陸沿岸にあり、山と海に囲まれた漁業の町として有名である(註1)。田畑は少ない。どうしてこんなところが農業賞に推薦されてくるのか。選考委員みんな驚いた。推薦者の改良普及所の話を聞いてみると非常におもしろい。そこで受賞候補者とすることになり、私が現地の調査に行くことになった。
 泊浜は太平洋に突き出た小さな半島にあり、山々が直接海に切れ込むところに小さく開けた浜だった。そこに約40戸の漁家が住み、かつてはワカメ、ウニ、アワビの採取を中心とする沿岸漁業と麦・豆・自給野菜等の畑作をいとなんでいたという。
 1960年代、ワカメ・ホヤ・カキの養殖漁業が導入され、さらに遠洋漁業が盛んになり、高い収益をあげられるようになった。それと同時に、畑作は衰退した。麦・豆の価格は低い上に零細な段々畑、野菜にしてもつくるよりは買った方がいいからである。そして畑はかつての30㌶から5㌶に激減した。
 ところが1977年、二百海里問題がこの泊浜にも押し寄せ、海からあぶれるものが出てきた。しかしそれを沿岸漁業で吸収することはできない。みんな戻ってきたら乱獲になってしまう。養殖漁業はあるが、いまでさえ生産過剰と漁場汚染が問題になって頭打ちになっており、これ以上の漁場の拡大には限りがある。
 しかも、そもそも漁業は不安定だ。水産物の価格変動、豊凶の差は激しい。ともかく当たりはずれが大きい。また繁閑の差が大きく、暇なときは一切収入が入らない。
 どうしようか。みんなで話し合っているうちに出てきたのが、畑作を見直そうではないか、かつてつくっていた麦は機械化で労力もかからなくなってきたようだし、漁業の暇な時期にやれる、これで就業機会を確保しようではないかということだった。この地域には昔から「麦のおがだ(奥さん)はこち風(東風)」という言葉が伝わっているが、このことは潮風が麦にはいいということを示しており、やませを逆手にとって麦作をやってきたということなのではないか。
 こう話がまとまり、1978年まず19戸で麦作組合を組織し、トラクターと乾燥機を導入して3㌶で麦を栽培してみた。収益はよかった。労力もかつてと違ってあまりかからない。とくに乾燥は、かつてはむしろ干しで梅雨とぶつかり大変だったが、乾燥機があるのでそんな問題もない。この成果に自信をもった組合員は荒れた畑の復活に取り組むことにした。そして3年かけて基盤整備を実施した。その結果81年には25戸が15㌶の麦を栽培するようになった。こうしたなかで今まで農業などに目もくれなかった漁業青年が取り組むようになり、機械・施設のオペレーターとして大きな役割を果たすようになってきた。そして労力不足の地権者から畑を借り入れて規模拡大しよう、また大豆や大根なども入れてみよう、そして麦―大豆、麦―野菜などの輪作体系を確立しようと意欲を燃やすほどになった。
 たまたま畑に行ったらこうした若者たちが数人いたので、麦作をどう思うか聞いてみた。彼らは異口同音に言った。
 「ワカメが終わって海がひまな時期、収入が途絶える時期に働くことができ、収入も入る。しかも農業はおもしろい。漁業はばくちと同じで努力したからといってとれるわけではないが、農業はやればやっただけのことが返ってくる。努力のしがいがある」
 なるほど、ここにも農業の良さがあったのだと改めて思ったものだが、さらに感じたのは農業と漁業の結合によって複合の利益を得ており、そしてそれが若者を漁業と農業の担い手として地域に残しているということだった。
 すなわち、農業・漁業それぞれの季節的繁閑による労働力の遊休化を相互の結合で解消しており、労働の年間均等配分という複合の利益を得ている。また、高収益不安定漁業と低収益安定畑作を組み合わせ、一定の安定した収益が得られるようにしている。さらに、これまで捨て場に困っていたホヤのからを2~3年畑のすみに積み上げておき、それを堆肥として施すというような副産物のむだのない利用という複合の利益も得ている。つまり漁業の副産物の堆積腐熟物を有機質肥料として畑地還元して地力増進を図っているのだが、その昔は魚粕が重要な肥料となったのだから、こうしたことは当然あっていいし、それどころか望ましいといえよう。
 こうして荒れた農地は復活した。いうまでもなくこれは漁業があったからである。漁業の存在により農地の有効利用が図られ、農業が発展しているのである。
 こうした視点をわれわれはもつ必要があるのではないか。これまでわれわれは農業と漁業は質の違うものと考え、それぞれ切り離してどう発展させるかを考える傾向にあったのではなかろうか。考えてみたら、日本の延々と続く海岸線沿いの村々では漁業と農業は密接不可分のものだった。半農半漁とよく言ったが、まさに農漁(農水)複合経営を営んできたのである。ところが、農産物の輸入、高度経済成長のなかで漁家は農業をやめてしまった。しかし歌津の漁家はそれを軌道修正し、新たな農業技術を活用しながら、新たな組織化を進めながら漁業と農業を再結合した。この事例から学ぶ必要があるのではなかろうか。
 そしてこれからは新たな技術段階をもとにした新たな農水複合経営をいかに形成していくかが課題となるのではなかろうか。

 同じことが山村、林業についても言える。
 いうまでもなくわが国は山国であり、林野面積が国土の7割近くをしめ、面積的に言うと山村地域が多く、統計上山村と分類されていなくとも山林をかかえている地域も非常に多い。こうした地域、とくに山村と言われる地域では林業専業、農業専業などという家はきわめて少なく、どちらが主業になるかの違いはあっても、同じ経営内で林業・農業が密接不可分に結びついて経営されてきた。夏は農業、冬は炭焼きや伐採を行うことで労働力の季節的な遊休をなくし、生計を維持してきたなどはその典型例である。育林のために下刈りした山野草を家畜の餌や堆肥にする、堆肥にするための落ち葉収集で林地を管理するなども林業と農業の結合の例であるが、その他数え切れないくらいあった。山間地帯では林業なくして農業はなく、農業なくして林業はなく、まさに農林複合の利益を享受することで山村は生きてきたのである。
 ところが1960年代からこうした農業と林業の結合が分断されてきた。まず、林業は外国からの林産物や石油、ガスの輸入などで衰退させられ、そこで働いて所得を得ることができなくなり、造林や下刈り、除間伐は困難となり、山林はじゃまものにすらなって、遊休化、荒廃せざるを得なくなってきた。すると残るのは農業だけである。しかし農業だけでは生きていけない。そもそもこれまでは農業所得の少なさを林業所得で補うことで農業を維持してきたのである。だから林業がだめになれば農業もだめになる。もちろん農業がだめになれば林業も継続できない。これでは山村は崩壊するより他なくなる。
 これを解決するためにということで政府が推進したのは平地農村と同じような農地集積、規模拡大だった。しかし、そもそも山村の農地面積は少なく、農地開発にも限度があり、土地条件が悪いために農地を集積して規模拡大し、農業専業で生きていくなどということはきわめて難しい。たとえ農地の集積ができたとしても、農地を手放した農家はその地域で生きていけなくなるので過疎化を進めてしまうだけになり、その結果集積農家も社会生活がいとなめずに離村せざるを得なくなる。
 そうなると、山村衰退の最大の要因である無制限の農林産物の輸入をやめさせる努力を展開しつつ、またかつての知恵を活かしながら、新たな生産力段階に対応した新たな農業と林業の結合を構築していく必要があるのではなかろうか。農林産物の輸入を規制することで林業・農業ともに発展させ、かつてのように労働力を林業と農業双方で利用し、労働の年間均等配分、有効利用を図ることができるようにすることを基本に、たとえば次のような面での結合で農林複合の利益を得て地域を活性化させるのである。
 まず考えられるのは、山林を林業面からばかりでなく農業的にも利用して、土地と労働力の有効利用を図ることである。これは当時話題になりつつあった林間放牧、さきに述べたシイタケ栽培、山形県朝日村の山菜類の栽培植物化がヒントとなった(註2)。
 林間放牧とは、林地に家畜を放牧し、それでもって一方では草地不足と運動不足を緩和し、他方で林地のなかに生える山野草を家畜に餌として食べさせてつまり家畜に林野の下刈りをさせて林業の労働を軽減させ、また放牧中の家畜が出す糞尿で地力を増進させるというものである。このような林地と放牧地との両面での林野の利用、畜産と林業との結合をさらに普及させていく必要があるのではないだろうか。
 また、林の下の土地を利用してシイタケを栽培しているのと同様に、日陰を好む山菜や花木を、朝日村のように栽培植物化して、林地で栽培することも考えられる。つまり林地を畑としても利用するのである。
 このように、土地の上部空間を樹木が利用し、下の空間は栽培植物・家畜が利用し、限られた土地を農業・林業双方で有効利用してともに利益を得る。もちろんそのためには林地を利用するさいの作目選択と栽培技術・飼育技術体系、農業的に利用したさいの林業の技術などの開発と確立が必要となるが。
 また、林業副産物を含む林産物を農業的に利用することも考えられる。おがくずの畜産による利用などはその典型だが、山野草の繁殖牛による利用、自然の広葉樹や山野草を食用や観賞用として畑に植栽することなども考えられよう。
 なお、前に述べたように、かつて山村では集落からの距離に応じて秣場・牧野、焼畑、常畑・水田の三種類に分け、集約度を変えて農業的に土地を利用してきた(註3)。また、同じく距離に応じて、奥山=自然林、里山=人手の入った自然林、裏山=人工林として、やはり集約度を変えて林地を利用してきた(このことについてはまた後に述べる)。これを新しい生産力段階に対応して再構築し、山村の土地を農業・林業両面で有効に活用していくことも考える必要があろう。
 その他、缶詰、瓶詰、漬物等の農産加工施設あるいは山菜加工施設を農産物と山菜などの林産物の双方で利用し、施設の利用率を高め、加工施設で働く労働力の完全燃焼、年間均等配分を図ることもある。
 三陸沿岸のように農林以外に水産があるところでは、農林水の三者で加工施設を利用していくことも考えられよう。そもそもかつてはどこの家でもどこの地域でも農林水産物を加工していた。つまり農林漁業すべてがそれぞれ加工と結びついていた。それを復活すると同時に、加工技術の進歩等を踏まえ、改めて地域内で再結合していくのである。
 販売面での協力も考えられよう。農林水産物、加工品それぞれ独自の販路・販売方法があり、完全に一体化するなどということはもちろんできないが、ともに協力して販路拡大を図っていくのである。販売、加工等の面では漁協、農協、森林組合がそれぞれ大きな役割を果たしているのであるが、この三者の協同組合間協同が非常に重要となる。
 もちろん、農林水産・加工それぞれ独自の技術的経済的特性をもっており、完全に一体化してやることは困難であり、分業が必要であることは言うまでもない。しかしまだまだ協力できることがあるはずだし、連携のさいの諸困難を解決できる新技術もできている。

 こう考えると、農林水産・加工をそれぞれ分離して考えるのではなく、協力して発展させていくことも必要なのではなかろうか。農業がだめだから漁業でいこう、林業がだめだから農業などといっていたら農林漁業すべて伸びない。いっしょに有機的に結合させてともに発展させていくこと、農業を核として地域の他産業を結合し、複合の利益を得ていくことが必要なのである。そして農山漁村の人口扶養力を高め、過疎からの脱却を図っていく。
 町村役場では産業課もしくは経済課のなかに農林水産が一括して入っており、国政にしたって農林水産省と呼ぶようになったのだから、そうした連携は容易にできるはずである。
 こんなことを考え始めたころ、「農村複合」という言葉が識者のなかで話題となるようになってきた。私もそれにのっかり、各地でそういう動きが出てくることを期待して、歌津町や朝日村などを事例にNHK教育テレビなどで紹介した。
 しかし、農林水産物輸入の急激な拡大はそれを許さなかった。農林水産の再結合の担い手たるべき若者たちを農山漁村から激しく流出させたのである。

(註)
1.大震災による津波の被害を大きく受けたところであるが、ここではそのことについては触れない。
2.11年7月20日掲載・本稿第二部「☆きのこ栽培の普及」、
  11年7月22日掲載・ 同 上 「☆山菜の栽培植物化」参照
3.11年3月25日掲載・本稿第一部「☆残っていた焼畑農業」参照

(註1・追記)
 その後歌津の方と連絡がついた。無事だった。そのことについては下記記事を見ていただきたい。
 12年3月11日掲載・本稿「☆大震災から一年を迎えて」(4段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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