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自信をもって女性を口説こう



               嫁不足とむらの若者(4)

             ☆自信をもって女性を口説こう

 いくらすばらしい青年であっても、自ら女性に働きかけなければ、女性に魅力を感じさせなければ、結婚はできない。女性の自立が進んでいる状況の下ではなおのことだ。自信をもって女性とつきあい、口説くことが必要なのだ。
 ところが農業青年はそれが弱い。それで私は、80年代後半から青年たちにまたその親たちに次のようなことを言って叱咤激励した(女性差別的な言葉が出てくるかもしれないがお許し願いたい)。

 宮城県の農村から仙台に通勤しているかわいい女性がこんなことをいっていた。私は農業がきらいではない、ところが農業青年は誰も声をかけない、専業農家には嫁にきてくれないものとあきらめている、なぜ自分に自信をもてないのかと。
  口説き方も下手である。福島県の浜通りでニラを中心に非常に優れた経営をやっている青年に、非農家出身ではあるが農業をやってもいいという女性と見合いさせた。会った直後に仲人をした普及員の方に断りの電話が入った。出てくる話はニラの話ばかりで、しかも1束たばねると何円になるというようなみみっちいことしか言わないからだという。
 先週14日の記事で例にあげた秋田の山村集落の青年も同様だ。ある農家が隣の2㌶の葉たばこ作を経営している専業農家の青年にお見合いをさせ、ほぼ決まりかけた。ある日相手の女性が彼の家を訪ねてきた。やがて帰ろうとしたとき、彼は忙しいからと送っていかなかった。車で行けば一山こえるだけでわずか1時間で送って行けるのに、乗り換えも含めて3時間もかかる列車で彼女を一人で帰したという。別の日に彼が彼女の家に行った。親が泊まっていけと勧めたが、彼は明日の朝仕事があるからと帰ってしまった。結局破談になった。そんなに忙しい人と結婚したら仕事で殺されるというのである。
 葉たばこの1反歩や2反歩枯れてもいいではないか。なぜ彼女と車でおデートしながら家まで送っていかなかったのか。そして途中、林道に入ってしたいことをしたらよかったではないか。通る人はほとんどいないのだ。泊まっていけといわれたら泊まって夜這いでもしたらいいではないか。それで破談になってもやっただけ得ではないか。
 かつてはまじめな模範青年が結婚の対象としてもてはやされた。しかし今は違う。話題もない仕事だけの人間に女性が惹かれるわけはない。おデートしてもラーメン屋にしか連れていけない青年ではどうしようもない。ともかく遊びを覚え、豊富な話題をもつことだ。そのための金とひまは惜しんではならない。
 スポーツ、音楽、カラオケ、ダンス、読書、映画等、何でもいいから趣味をもとう。スキー場のある地域で嫁不足が少ないことはその大事さを示している。青年はスキー指導員としての資格をもち、冬にそのアルバイトをしているうちにそのかっこの良さで女性に働きかける、それで嫁が獲得できるのである。一流の料亭、レストラン、バー、ホテルも体験しておかなければならない。肉牛を飼っていながらビーフステーキも食べたことがないのではどうしようもない。そしておどおどせず女性を連れ歩け。そのためには金もかかろうが、初期投資、釣り上げるまでのエサが大事なのだ。釣り上げたら後はいい。釣った魚にエサをやるバカはいない(といっても、最近はエサをやらないと簡単に離婚となるが)。

 いうまでもないが、女性とつきあう時間もなくては嫁などもらえるわけはない。時間をつくって積極的に農村外に出ること、世間に出ていくことも必要になっている。昔と違ってむらに若い女性が少なくなっているからなおのことである。都市にはごろごろいるのだ。
 山形県の山村朝日町(註)の農協で管内の男性がどこから嫁をもらっているかを調べた。そしたら、明治期は近隣の集落、大正は村内、昭和の戦前は郡内、戦後は県内全域に広がっていることがわかったという。つまり結婚の広域化が進んでいるのである。そしたら今は県外からもらう時代になっている(だからといって斡旋業者による国外への広域化までいく時代にはなってもらいたくないのだが)のであり、『おれは田舎のプレスリー』などと内弁慶で待っているわけにはいかないのだ。
 さきほど述べた秋田の山村でも村全体をみれば嫁をもらっている青年はかなりいる。驚いたのは村内に鹿児島出身の嫁さんが3人もいたことだった。ある男性が出稼ぎ先で知り合った鹿児島の女性と結婚したが、その嫁さんはここに来て土地の広さに驚いたという。それでここはいいところだと妹も連れてきて近くの人と結婚させ、さらにその友だちにも勧めて見合いをさせ、嫁がせたという。秋田おばこ・秋田美人の血統に薩摩おごじょの血が入るとどうなるのか、ちょっと興味を覚えたが、そのときは出稼ぎもいいもんだと思ったものだった。といって、出稼ぎを勧めるわけにはいかない。
 ともかく出会いの機会をつくらなければならない。スキー場の近くの集落に嫁不足が少ないのは、スキー場に来る女性が多く、交際を始めるチャンスが多いからもあるのだが、だからといってすべての農村にスキー場をつくることはできないし、そんなに増やしても客は来ない。
 そうなればむらの外に打って出るより他ない。また女性と付き合う機会を個人的に、また仲間で、あるいは公的機関が多々つくっていくことも必要となる。
 その一つとして都会の女性と農村青年との交流会を開催するのもいいだろう。都会の女性のなかにも農業をやりたい、農家に嫁に行ってもいい、ただ農村青年と会うチャンスがないという女性も多々いるからだ。実際に交流会を機会に結婚して非常にうまくいっている例は多々ある。
 ただ、その交流会の開催に当たって言いたいのは、参加費無料、旅費無料などというような過剰サービスはしないことだ。何でそこまで卑屈にならなければならないのか。そんな卑屈なところに嫁など来るわけがない。また、そこに参加した農村青年は物欲しそうな顔をするな。もっと誇りをもっておどおどしないで、つきあおう。

 山形県小国町の農家の方から次のようなことわざが地域に伝わっているという話を聞いた。
 「山の見おきと嫁の見おきはするな」
 この意味はこんなことのようだ。
 山でキノコを見つける。まだ小さいので2、3日後にとろうと思って残しておく。つまり置いてくる。ところが後で行ってみると誰かに採られてなくなっている。おれが最初に見つけたのだなどと文句を言おうとしても誰が採ったかわからないから言いようがない。自分が最初に見つけたという証拠もない。だから、見るだけで置いてくるようなことはするな。
 嫁も同じだ。いい女性がいる、そのうちにもらいにいこうと思っているうち、誰かにとられてしまう。おれが最初に嫁にもらいたいと思っていたのだといっても、もう後の祭りである。だから見ていいなと思うだけにするな。そのまま置いてくるな。いいと思ったらすぐに嫁にもらえ。
 こういうことなのだが、昔も同じだったのだ。ともかく積極的に行動しよう。むらの男は変わらなければならないのだ。
 同時に、むらの女も変わらなければならない。家も変わらなければならない。いやむらそれ自体も変わる必要がある。
 これについてはまた後ほど述べるが、70年代から80年代、嫁不足問題をどうするかと聞かれたときよくこんなことを話した。しかし、90年代に入るとそんなことが言えなくなってきた。叱咤激励した当時の30歳代のなかで結局結婚できなかったものは40歳を超えており、もう激励の域を超えていたからである。
 さらに適齢期の男子農業後継者までが農村から消えてしまうようになった。そして嫁不足すら問題とならなくなってしまい、後継者不足へと問題はさらに深刻化するのである。

 1982年、東北新幹線大宮―盛岡間が開業した。1985年には上野―大宮間も開業し、東北から東京都内に直接乗り入れられるようになった。東海道新幹線に遅れること約20年だった。1991年には東京―上野間が開通し、仙台駅から東京駅まで1時間40分、青森駅からは約5時間で行けるようになった。
 79年に盛岡まで達していた東北自動車道は少しずつ延伸され、87年に全線開通した。東北の各空港のジェット化や移転整備も進んだ。
 東京以南から見るとかなり遅れていた東北の交通路線は80年代にかなり整備された。そして便利になった。こうした地域格差の是正をもとにして東北の農業・農村はさらに発展してしかるべきだった。しかしそうはならないのではないかという不安感を抱かせる状況も出てきていた。

 こうしたなかで東北農業は20世紀末を迎えることになるのだが、それ以降については第三部として述べることとし、ここまでで第二部を終わらせることにする。
 第三部(20世紀末の東北農業)は9月26日(月)から掲載する。掲載日はこれまで通り月水金とするが、休日に当たった場合は休載させてもらう。なお、第三部の後に第四部(21世紀を迎えて)と続ける予定でいる。

(註)
 11年7月15日掲載・本稿第二部「☆戦後の桑園整理と果樹園の造成」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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